新しい病院

 翌日、窓から差しこむ朝日で目が覚めた。

 見慣れない部屋の様子に戸惑いかけたところで、職場近くのビジネスホテルに泊まったことを思い出した。


 ここから職場まで目と鼻の先なので、慌てて準備する必要はない。

 すっきりしないままの頭を覚ますために、私はシャワーを浴びることにした。


 アパートに薬を忘れてしまったせいか、昨晩はなかなか眠くならなかった。

 あるいはいつもと違う場所なので、目が冴えてしまったのかもしれない。


 コンディションが回復しない状態で働く不安がある一方で、体調不良に慣れ始めた自分がいる気もした。もしかして、私は今の職場に甘えているのだろうか。


 そんなことを考えても辛くなるだけだと、頭からお湯をかぶった。

 ……この状況にどれだけ耐えられるだろう。


 私はシャワーを浴びた後、人前に出られる程度に身なりを整えてホテルの朝食をゆっくりとった。

 それから部屋に戻って身支度をすませてチェックアウトした。 

 

 アパートではなくホテルから出発したおかげなのか、今朝は新鮮な気分だった。

 これならもう少し仕事が続きそうだと思う反面、さすがにホテル暮らしができるほど高給取りではないことも理解していた。


 仮に実家から通勤しようとすれば片道一時間をこえてしまうので、それはそれで現実的とは言いがたい。そもそもアパートを放置したままにできないだろう。

 

 私は捨てたはずのノートがポストにあった出来事の整理がつかないままだった。



 ――結局、この日も定時で上がるように指示を受けた。

 周囲の視線が冷たい気がして、お先に失礼しますの声が自然と小さくなった。


 私は会社を出て駅に向かって歩いていたが、途中でノートの入ったポストが脳裏に浮かんだ。

 もう一度、あの光景を見るのは精神的に負担が大きい。


「……どうしよう。お金はかかるけど、今日もあそこに泊まっていこうかな」


 働き始めてから毎月貯蓄をしていたので、ビジネスホテルに何度か泊まる程度なら貯金がなくなる心配はない。

 すぐにアパートへ戻る気にはならず、同じホテルでもう一泊することにした。


「――いらっしゃいませ。ご予約はとられていますか?」

 フロントに行くと昨日と同じ男性が立っていた。 

 こちらの顔を覚えているようで少し親しげに見えた。


「……いえ、シングルなんですけど、部屋は空いてますか?」

 私がそう答えると、彼はカウンター内のパソコンを操作した。


「……ええ、そうですね。禁煙と喫煙のシングルが空いてますが?」


「禁煙でお願いします」

 私は精算を済ませて、部屋のカードキーを受け取った。


 特にやることもなかったので、そのままエレベーターに乗った。

 今日の部屋は昨日と違う階にあった。


 私はエレベーターを降りて通路を進み、カードキーと同じ番号の部屋に入った。

 入り口のところにカードキーを入れるスペースがあり、そこに挿入すると室内の照明がついた。


 掃除の行き届いた清潔な空間、暖色の落ち着いた雰囲気の間接照明。

 少なくとも、今は自分の部屋よりもこちらの方がすごしやすい気がした。


 私は机に荷物をおいて、仕事着のままベッドに横たわった。

 背中にあたる布団の柔らかい感触が心地よかった。


「ここが自分の部屋ならいいのに……」

 そうすればアパートに戻って、見たくない現実に直面しなくて済む。

 ほんの少しだけ家出少女の気持ちが分かる気がした。

 

 今の状況が逃避的だと分かっていても、打開策は浮かんでいなかった。

 ……祖母のノートが戻ってきたのは、超自然的な何かなのだろうか。


 あるいは悪意を持った第三者の仕業なのか。

 正直なところ、その可能性は考えたくなかった。


 アパートの近所に顔見知りはおらず、揉めごとに巻きこまれた記憶もない。 

 ストーカーによる嫌がらせという可能性もゼロではないだろうが、社会人になってから異性につけ回されるような経験などなかった。


 考えれば考えるほど、頭が重くなるような感覚がする。

 こんとになるなら、あのノートを開かなければよかった。


「……今更だよね」

 だんだんと情けない気持ちになり、目尻に涙が浮かんでいた。

 

 ――それから何日もの間、私はホテルで寝泊まりしていた。

 

 

 やがて、Dクリニックを予約した日が来た。

 私は電車を乗り継いで現地に向かった。


 駅から数百メートル歩いた先に目的地はあった。

 外観は新しそうに見えるが、昔ながらの小さな診療所といった雰囲気だった。


 私は入り口前の看板で病院名があっていることを確認した。

 そこには神経科・心療内科と書かれていて、精神科とは書かれていなかった。


 どう違うのか分からなかったが、私は深く考えることもなく、自動ドアから玄関に入った。


 スリッパに履き替えて進んでいくと、柑橘類のような爽やかな香りがした。

 待合室の様子に目を向けると、M病院に行った時ほど混んでいなかった。 

 

 私は受付に行って、そこにいた中年の女性に予約してあることを伝えた。

 すると、五分もしないうちに診察室に入るように呼ばれた。


 今回O医師に初めて会うので、どんな人なのか緊張していた。

 ……写真で見たとおり、穏やかな人だといいけれど。


 診察室に入ると記憶と一致する人物が座っていた。

 白髪交じりの頭で銀縁の眼鏡をかけている。


 O医師は操作していたパソコンから目を離して、こちらに向き直った。

 

「どうもどうも、おはようございます」

 産業医やM病院の院長と比べると親しみやすい印象を受けた。


「……おはようございます、よろしくお願いします」


「えーと、Tさん、体調はいかがですか?」

 

 いきなり祖母のことを話すわけにもいかないので、眠りが浅いことや仕事が上手くいかずにストレスを抱えていることを大まかに話した。

 体調の話が済んでから産業医にM病院の受診をすすめられ、実際に診察を受けたことを補足した。


「……ああっ、なるほど、N先生のところ。薬は何が出てるか分かります?」

 O医師は何かを察したように何度かうなずいた。


「はい、写真に撮ってあります」

 私はスマートフォンを操作して、撮影した写真を見せた。


「……あの人の頭の中を見てみたいもんだな」

 O医師は呟くように口にして一瞬だけ険しい表情になった。


「……先生、私が出された薬はあんまり良くないんですか?」


「いや、良くないことはないんだけど、寝る前の薬に関してはあんまり出さないタイプですね。……えーと、そのへんになかったかな……」

 医師は机の引き出しから下敷きみたいなプレートを取り出した。


「睡眠薬には色々種類があって、強弱から持続時間、ピークの違いがあります」

 そのプレートには横文字で薬の名前がいくつか書かれていて、それぞれ階層ごとに分かれていた。


「……そうなんですね、知りませんでした」

 私は素人なので、せいぜい二、三種類かと思っていたが、そこには十種類近い薬が並んでいた。


「それで、Tさんに出されたのがこれ」

 指さされた場所に見覚えのある名前があった。


「さくっと眠れるのは眠れるけど、もう少し新しい世代が今どきの主流ですよ」


「……そうなんですか」

 医師の話を聞きながら、M病院に行った時は薬についての説明がほとんどなかったことを思い出した。


「それに副作用で入眠後の幻覚があるから、それもすすめにくい理由なんだよね」

 そういって医師は私に出されている薬の名前を指先でトントンとつついた。


「……ところで、他に出されてる薬は大丈夫でしょうか?」

 私は心配な気持ちになっていた。


「うんまあ、そうですねえ、ちょっと強いかなとは」

 医師は私の質問に答えながらパソコンを操作した。


「……とりあえず、今日は血液検査をやっときましょう。今のところ、うつ症状がひどいような印象はさほど受けないので、もうちょっと軽めの薬に切り替えてみようと思います」

 

 それから数分間話して診察は終了した。

 看護師から採血をされた後、受付で会計を済ませた。


 ホテルに戻ってから確認すると、M病院で出されたものとは違う種類だった。

 私はO医師を信じてよい気持ちになっていたので、新しい薬を使うことにした。

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