戻された日記
ぼやけた視界の中で目を覚ました。
深い眠りについていたはずなのに、意識が泥の中にいるように重かった。
少しの間、自分がどこにいるのか分からなくなった。
そしてしばらくして、自室のベッドにいることを思い出した。
ふいにN美が言っていた言葉を思い返した。
――まだM病院に行き始めたばっかだよね。
私は自分の中で噛み合わなかったことが解ける感覚に気づいた。
……もしかして、寝る前の薬って……。
まどろみの覚めない身体を引きずって、テーブルの上のレジ袋を手に取る。
その中から処方された薬の説明を引き抜いた。
「……私、なんで気づかなかったんだろう」
そこには一言、寝つきを良くする薬ですと書かれていた。
寝る前に飲んでいたのは、ようするに睡眠薬ということだった。
はっきりしないままだった意識が氷を押し当てられたように覚めていった。
――M病院に行った時に断っておけばよかった。
他の薬のことはよく分からないが、私は睡眠薬というものに良くないイメージを抱いていた。
一緒に住んでいた頃、祖母が夢遊病者のように廊下を何度か歩いていた。
その様子がとても不気味で父にたずねると、おばあちゃんは睡眠薬を飲んでるからああなってるだけだとたしなめられる経験があった。
祖母と同じ薬を飲んでいると考えると、絶望的な感情が湧き上がってきた。
自分もいずれ狂ってしまい、病院の片隅で老いながら死んでいくのか。
そんなのはイヤだと思ったが、望まれない存在の自分にはお似合いとも思った。
――あれ、私ってこんなに自分を卑下する性格だった……?
意味のない自問自答を繰り返すうちに出社する時間が近づいていた。
最悪な気分のまま、身支度をして重たい心と身体を背負うように家を出た。
十分に働かない頭で仕事を始めたところで、上司がこちらに歩いてきた。
しばらく失敗続きだったせいか、上司のことが怖く感じるようになっていた。
「Tさん、ちょっといい?」
「……は、はい」
上司は私に用事があったみたいだ。
一見、穏やかそうに見えるが、どこか冷たさを感じさせる表情だった。
二人でオフィス内の個室に入ると、席につくように促された。
彼が何を話そうとしているかはだいたい予想がついていた。
「病院、行ったんだよね? 診断結果はどんなふうだった?」
「……はい、結果は詳しく聞いてないんですけど、薬が出されました」
どう伝えるべきか迷ったが、そのまま話すしかなかった。
「いや、上司として部下の健康管理も仕事の一つだからね。少し前に他の部署で休職になったやつがいて、人事の連中はメンタル不調に敏感なんだ」
上司は少し迷惑そうな顔をして、手にした書類に目を向けた。
「……ご心配おかけして、申し訳ありません」
私は自分に言葉を選ぶ権利がないような感覚をいだいた。
「病気のことだから計画的にとはいかないかもしれないけど、不調が続くようなら、早めの受診、早めの申し出を頼むよ」
上司は言うべきことは言ったといった様子で、そそくさと部屋を出ていった。
きっと、彼にとって単に手間のかかる作業だったのだろう。
自分が職場の邪魔者になるようなら、会社を辞めた方がいいかもしれない。
そう考えると悲しい気持ちになったが、不思議と涙は出なかった。
長時間残業のない職場であっても、定時に帰れることは少なかった。
ただ、この日は定時で帰るように指示があった。
私は申し訳なさと後ろめたさを感じながらタイムカードを切った。
何を考えても悪いことしか浮かんできそうになかったので、なるべく何も考えないようにした。
私は職場を出て最寄り駅に向かった。
特に寄り道をする気分でもなくて、そのまま部屋に帰ろうと思った。
ふいに夕暮れの街並みを少し冷たい風が通り抜けた。
いつの間にか夏の気配が遠ざかり始めていた。
祖母が亡くなってから余裕がなかった。
時間だけが流れていき、前に進めないような感覚にとらわれていた。
それでも、少なくともN美のおかげでノートを捨てることができた。
いずれ時間が解決してくれるだろう。
自分でもどこか都合のいい考えだと分かっていたが、難しいことを考えられるほど元気でもなかった。
アパートに着く頃には辺りは薄暗くなっていた。
等間隔に並んだ街頭に明かりがついている。
ゴミステーションを遠目に確かめると、今日の回収は済んだみたいで空だった。
少し足取りが軽くなるのを感じながら歩を進めた。
「……あれ、ポストに何か入ってる」
通り過ぎるつもりで見やったところ、ポストの口から何かがはみ出ていた。
それはビニール袋に覆われた回覧板のように見えた。
ここは賃貸アパートでそんなものは回っていなかった。
私は不審に思いながらポストに近づいていった。
それが何かを確かめようと手を伸ばした――。
「ひっ――」
ありえない状況に頭の回転が追いつかなかった。
「……そんな、な、なんで……」
そこにあったのは捨てたはずのノートだった。
――誰が何のためにこんなところへ?
全身に鳥肌が立つような寒気を感じた。
悪い夢を見ているみたいにひどく現実感がない。
それでも、私はパニックになりかけながら冷静に考えようとした。
……ただ、どれだけ考えてもその答えは出なかった。
「ど、どうしよう……」
「――こんばんは」
ふいに声をかけられて腰が抜けそうになった。
「こ、こんばんは……」
声の主は同じアパートの住人だった。
私の様子を見てわずかに怪訝そうな顔をしたが、そのまま歩き去った。
少しだけ近隣の住民が嫌がらせで置いた可能性を考えてみた。
しかし、トラブルが起きたことはなかったので、その可能性は低いと思った。
考えるまでもなく、N美がこんなひどいことをするはずがない。
――じゃあ、誰が?
私は自分の部屋で夜を過ごすことが怖くなった。
こんなことがありえるなら、何が起きてもおかしくないと想像していた。
私はその場を離れて急ぎ足で部屋に入った。
着替えや化粧道具をバッグに詰めこむと、逃げ出すように部屋を出た。
職場の近くに就活や研修で泊まったビジネスホテルがあった。
そこなら今からでも空いているかもしれない。
私は来た道を引き返して駅に向かって歩いた。
アパートを離れると少し落ち着きはしたが、寒気は続いたままだった。
N美に連絡しようと思いついたところで、余計な心配をかけたくないと思いとどまった。捨てたはずのノートがポストに入っていたなんて言えるはずない。
それに会社が私を病院送りにしたように、友人の彼女に軽蔑されたくなかった。
心のどこかで亡くなった祖母が私を苦しめようとしていると感じた。
たとえそれが真実であっても、悪魔の囁きに耳を貸したくはなかった。
そんなオカルトめいたことを考えるのは正気ではないはずだ。
きっとそうなれば、祖母の周囲の人間が去っていたように、私の周りからも人はいなくなるだろう。
孤独に対する恐怖が私を冷静にさせた。
それと同時に理性を保てなければ、いよいよおかしくなってしまうのではと震え上がるような感覚も抱いていた。
私は最寄り駅に着くと改札を通って、職場方面に向かう電車に乗った。
明るい場所で周囲に人がいるだけでこんなに安心できるとは思わなかった。
私は目的の駅で下車すると、今晩泊まるつもりのビジネスホテルに向かって歩き出した。
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