二人なら捨てられる

 ――意味の分からない夢を見た。


 私は暗闇の中をおぼつかない足取りで歩く。

 人通りのない夜道を亡者のように。


 見慣れた景色のようにも、どこか遠い異界のようにも見えた。

 時折頭上に差しこむ眩しい光を避けて、またどこかに向かって歩いていく。 

 何かを考えようとするが、頭が上手く働かなかった。

 

 ――私はどこへ向かっているのだろう。


 ――私はどこからやってきたのだろう。


 ……わからない。


 ……わからない。


 …………よくわからないけど、なんだか疲れてしまった。



 処方された薬を飲み始めて一週間が経った。

 祖母のことを考えて不安になったり、仕事に集中できなかったりすることが減った気がした。


 医師からは病名を聞いていないので、自分自身の状態を詳しく知らなかった。

 日中は薬のおかげで楽になったものの、夜にアパートで一人でいると息が詰まりそうになった。

 

 そんな日々が続いていたところ、大学時代の友人に食事に誘われた。

 休日は寝てばかりいたので、たまには気分転換に外出しようと思った。


 友人のN美は医療関係の仕事に就いていた。

 誰にでも優しい大らかな性格なので、彼女に向いている仕事だと思った。


「……A子、どうしたの? あんまり元気ないじゃん」

 待ち合わせにやってきたN美は戸惑うような表情をしていた。

 私はそんなに体調が悪そうに見えるのかと不安を覚えた。


 二人で食事をする予定になっていたが、カフェでお茶をすることになった。

 N美は好物の焼肉に行きたかっただろうし、彼女の気づかいに優しさを感じた。


「実は……会社から心療内科へ行くように言われて……」

 いくら相手が学生時代の友人でも、打ち明けるのは抵抗があった。


「……そうなの、仕事で何かあった?」

 N美は悲しそうな顔で眉根を寄せた。


「ううん、仕事よりも……」

 この際祖母のことを話すべきか……。

 重すぎる話をしてN美に負担をかけたくないと思った。


「大丈夫だから、なんでも話して。そんなに元気ないの初めてだから心配なの」

 彼女は真っ直ぐな目で私を見た。


「わかった、ありがとう……」

 私は泣き出しそうなのを堪えながら、N美に打ち明けることにした。



「――おばあさんが亡くなってからそんなことがあったんだ……」

 私が話し終えると、N美は何かを考えるように下を向いた。


「変に思うかもしれないけど、その日記を読んでから何だか噛み合わなくなって……」

 

「そういえばA子が行ったM病院より、わたしが知ってる先生の病院に変えなよ。あんまり言わない方がいいことだけど、M病院はあんまり評判よくないから」

 そう言葉にすると、N美はスマートフォンを操作し始めた。


「O先生っていう精神科医のDクリニック。M病院みたいにアクセスは良くないけど、わりとこじんまりとしてるし、予約も取りやすいはずだから」

 M病院が産業医の紹介で予約を取りやすかったことを思い出し、そういった病院はすぐに予約がとれないものだと初めて理解した。


 N美に見せられた画面にO医師の写真が載っていた。

 白髪交じりの初老の男性が穏やかな笑みを浮かべていた。

  

「……それと、さっき言ってたノートだけど、今から一緒に行って捨てちゃう?」

 彼女の優しさはありがたかったが、そう考えるだけで恐ろしくなった。


「……そ、そうだね、ありがとう」

 一人では無理でも二人ならできるかもしれない。


 私たちは席を立ってカフェを出た。

 待ち合わせが夕方だったので、すでに日は落ち始めていた。


 

 私の部屋に着く頃には、ずいぶん暗くなっていた。

 鍵を開けて中に入ると、いつもどおりの部屋の様子が目に入った。


「すごい、まめに整理整頓してるんだね」

 お邪魔しますと言ってからN美が感想を口にした。


「うん、清潔にしてないと落ち着かなくて……」

 彼女の相手をしながら、気持ちはクローゼットの奥に向いていた。


 あの日、捨てるのが怖くて押しこんでしまった。

 そのままにしてどれぐらい経っただろう。


 クローゼットの扉を開けて、ノートを置いた場所に手を伸ばす。

 衣装ケースの奥の隙間、普段の生活では目に触れない場所。


 手探りで指を伸ばすと硬い感触があった。

 そっと掴んで、そのままクローゼットの外に出した。


 最後に見た時と同じ状態だった。くたびれた表紙の大学ノート。

 N美に見せるためにテーブルに置くと、彼女は興味深そうに見つめていた。


「……これ、これがそう?」


「……うん、間違いない、これがそうだよ」

 

 きっと、N美にはただのノートにしか見えないだろう。

 私も最初に目にした時は似たような感想だった。


「ちょっと、読んでみてもいい?」


「えっ、えーと、N美が読んでみたいなら……」

 どう答えるべきか分からなかったが、彼女が読んだところで直接的なダメージを受けることはないだろう。


「何か気持ち悪いことは書いてないよね、大丈夫?」


「ううん、それはないかな……」

 私の答えを聞いてから、N美は素早い動作でノートを手に取った。


「……ふーん、A子のおばあちゃん、字がきれいだね」


「私も最初に同じことを思った。それに書き方が整ってるから、まさかそんなことが書いてあるなんて……」

 

「ああっ、これはたしかに……」

 N美はじっとノートを眺めていた。


「細かいことまではわからないけど、A子が女に生まれてきたから自分はみじめになった、そういうふうにしか読めないんだけど……」

 彼女は途中まで読んだ後、ノートをテーブルに戻した。


「そうだね、私もそういうふうにしか考えれない」

 もしかしたらノートのことだけなら、こんなにダメージを受けなかったかもしれない。しかし、私は祖母が忌み子と言ってきたことを思い出してしまった。


「……ひどすぎるよね。孫に対して、そんなことを考えちゃう人がいるなんて」


「正直、よく分からなくて……。うちのおばあちゃんは心の病気だからそうなったのか、病気じゃなくてそういう性格なだけだったのかも……」

 それは分からなかった。ちゃんと会話をした記憶はほとんどなかったから。

 だから、祖母の人となりも記憶に残っていなかった。


「まあどっちみち、捨てるしかないよね。ゴミ袋ってこの辺は可燃用なの?」


「あっ、うん、可燃でいいと思う」

 私は立ち上がって、引き出しからゴミ袋を取り出した。


「……いいよ、自分で捨てられるから」

 N美にやらせるのは何か違うと思った。

 ノートをつかんでゴミ袋に放りこんでしまうと、心の中で凝り固まったものが軽くなる気がした。

 

「このままゴミ出しのところに置いてきたいんだけど、N美ついてきてくれる?」


「うん、もちろん」


 私たちは部屋を出て、数十メートル先のゴミステーションに歩き始めた。

 本当は夜明け前のゴミ出しは禁止だったが、もうこれ以上部屋に置いておきたくなかった。


 周囲に人の気配がないことを確認して、静かに着地するようにそっと投げ入れた。

 中身が軽いせいか大きな音は立たなかった。


 N美に視線を送ってから来た道をもどった。

 後ろめたさとすっきりした気持ちが混ざり合い、何だか複雑な心境だった。


「……あっ、ごめん。夜の分の薬飲まないと」

 部屋に戻ってからまだ飲んでいなかったことに気がついた。

 ノートのことで頭がいっぱいだったみたいだ。


「そっか、わたしのことは気にしなくていいよ」

 N美はそういってからスマートフォンを操作しだした。


 本当は食後に服用するものだが、時間がずれてしまったのは仕方がない。

 私はコップに水を注いでから、薬の数と種類を確認して飲みこんだ。


「――あれ、けっこう出てるんだ? まだM病院に行き始めたばっかだよね」

 職業的な感覚なのか、N美は薬の内容が気に留まったようだった。


「えっ……これって多いの?」

 私は彼女の言葉に不安な気持ちを抱いた。


「精神は専門じゃないけど、ちょっと多いかな……ごめん、心配にさせて」

 N美は申し訳なさそうな表情を見せながら、手にしたスマートフォンをポケットにしまった。


 M病院で診察を受けた日に出されたのは三種類の薬。

 夕食後が二種類、寝る前に飲むものが一種類。


 もう少し薬が出そうだったので、仕事に支障が出るのは困ると伝えて断ったことを思い出した。

 以前、花粉症の治療薬を試した時に、眠すぎて仕事に集中できないことがあって心配だったから。


 彼女が言うように何種類も飲むのは違和感があるような気がしてきた。

 ――まずは早めに新しい病院の予約を取ろう。


 私たちはそれからしばらくの間、会話を楽しんだ。

 N美が終電の時間近くまで部屋にいてくれたのはありがたかった。


 彼女が帰ってしまうと、部屋に一人でいることが何だか怖くなった。

 私は抗うすべを持たず、寝る前の薬を喉に流しこんで布団をかぶった。


 ――大丈夫、きっと大丈夫。ノートを捨てることができた。

 

 ――もう大丈夫、もう…………。

 

 見えない何かに全身を引きずられるように、私の意識は遠のいていった。

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