産業医との面談

 普段ならありえないミスをしてから、ささいな失敗が続くようになっていた。

 今までの働きぶりが幻だったかのように集中力が散漫になり、ミスがミスを呼ぶ悪循環に陥っていた。


 職場に行くのが負担になり始めた頃、会社のストレスチェックに引っかかってしまった。初めてのことに戸惑っていると、産業医との個人面談を受けるように指示された。


 日々の業務では用事などなかったので、産業医の印象はかろうじて顔を思い出せる程度だった。面談室は勤務先とは別のフロアで、あまり行く機会のないエリアだった。


 予定の時間に部屋に入ると産業医が席に座っていた。

 普段ならミーティングに使うような場所で医者に会うのは不思議な気分がした。


「Tさんだね?」

 朴訥で丸メガネをかけたおとなしそうな中年男性、そんな印象を受けた。


「……はい、そうです。本日はよろしくお願いいたします」


「ああっ、そんなにかしこまらなくていいよ」

 そういって産業医は椅子に座るように促した。


「産業医のKです。ストレスチェックに引っかかったのと、最近Tさんの調子がよろしくないと伺って、一度面談になったわけなんだけど……」

 Kは私の様子を観察してから、手元の資料を確かめるように眺めた。


「実際のところ、どうなのかな。眠れてる? 食事はちゃんと取れてる?」


「いえ、寝不足ですし、あまり食欲が出なくて……」

 私には元気なふりを装うほど気力は残っていなかった。


「うんうん、そうだよね。顔色も良くないし、一度提携している病院で診てもらってもいいかな?」

 Kは一枚の紙をこちらに差し出した。


「はい、M病院ですか……」

 聞いたことのない病院だった。


「僕の立場ではできること、できないことがあるから。とりあえず、そこで診察受けて、また後日結果なり、近況なりを報告してもらえる?」

 穏やかで親しみの持てる口調だったが、断れる雰囲気ではないことを察した。


「……分かりました」

 私は差し出された紙を手にとった。


「今どき、精神、心療内科は予約取りにくいけど、僕の紹介だといってもらえば問題ないから」

 Kはそう言い終えると足早に部屋から出ていった。


「……あれ、精神って……」

 M病院の説明を確かめる。たしかに精神科、心療内科と書かれていた。

 唐突な出来事に地面がゆらぐような感覚がした。


 私は会社からそういう状態だと思われているのか。

 そう思えてしまうと胸に虚しさが募った。


 ポツリポツリとフロアマットに涙が落ちた。

 もうどうしていいのか分からない……。私は行くしかないのかもしれない。


 

 M病院への予約はすんなりとれた。

 産業医Kの名前を出せば問題ないというのも本当のようだった。


 個人面談から一週間後。私はM病院にやってきた。

 最寄り駅から二駅先で、改札から歩いてすぐの距離にあった。


 雑居ビルの一階に大きめの看板があって迷わずに到着した。

 受付で名前を告げると待合室で待つように言われた。

 週末ということもあって、大半の椅子が埋まっていた。


「おはようございます、Tさん」

 受付をしてから十分後ぐらいに、白衣を羽織った女性がやってきた。

 精神科医には女医もいるのだなと思った。


「これから、普段の生活や健康状態をお聞きしたいので、こちらにお願いします」

「は、はい……」

 私は促されるままに彼女の後ろに続いた。


 私たちは待合室と別の場所にある個室に入った。

 白地の椅子が二脚と小さな角机がおいてあるだけのシンプルな部屋だった。


「臨床心理士のRといいます」

 お互いに椅子に腰かけた後、白衣の女性が話し始めた。

 てっきり彼女は医師だと思っていたので、これから何が始まるのかよく分からなくなっていた。


 それからRは色々な質問を向けてきたが、見ず知らずの相手に自分のことを話すのは抵抗があった。

 性欲の有無や生理がきているかという質問は、聞き手が女性でなければ部屋を出ていたかもしれない。


 心身を消耗するような時間の後、もう一度待合室で待つように言われた。

 部屋を出て待合室に戻ると、最初と同じように人口密度は高いままだった。


 私は空いた椅子に腰かけてから、小さなため息をついた。

 ……用事を済ませて早く帰りたい。


 ふと、近くの椅子にお婆さんが座っているのに気づいた。

 お年寄りも受診するんだと思った後、なるべく考えないようにしていたことを思い出してしまった。


 ――亡くなったばかりの祖母のことだ。

 そのことが頭に浮かぶだけで、ただただ恐ろしかった。


 祖母と同じように心の病になったかもしれない自分。

 祖母が言ったように、疎まれた存在の自分。


 椅子に腰かけているのに、地面が波を打っているような錯覚がした。

 私は目まいを抑えるように額に手を当てて下を向いた。


 最悪な気分が落ち着いた頃、診察の順番が回ってきた。

 指示された部屋に入ると、三十代ぐらいの男性がパソコンの画面を眺めていた。


「どうも、はじめまして。院長のNです」

 私が椅子に座ると、彼はこちらに向き直って挨拶をした。


「……よろしくお願いします」

 気分が悪いせいか声が出しづらかった。


「K先生のご紹介なんですね」

 Nはにこやかな顔でいった。


「はい、うち会社の産業医で……」


「そうですか、そうですか」

 彼は何かを確かめるように画面に目を向けた。

 同じように見やると、そこには私のことが書かれていると気づいた。


「心理検査の結果だけだと微妙なところですが、うつと言えばうつなんですよね」

 Nの言葉に耳をふさぎたくなった。


「私が……」

 そこから先は口に出せなかった。


「最近の薬は副作用も少ないですし、精神的な症状によく効くので一度出しておきますね。何かあれば診察の時にいってください」

 私を安心させようとしているのか、医師は柔らかい表情を向けてきた。


「薬……薬ですか」

 治療のために必要なのかもしれないが、感情的に受け入れがたい提案だった。

 長年病んでいた祖母の姿が脳裏をよぎった。


 ――本当にそれでよくなるのか。

 ――ちっとも良くならなかった祖母は何なのか。


 自分のものとは思えないような黒い感情がどこからか湧き出していた。

 その感情に圧倒されてしまいそうなことが恐ろしかった。


「わか、わかりました……し、失礼します」

 私は思わず部屋を出ていた。


 それ以降の記憶は途絶えてしまい、気がつくとアパートの自分の部屋にいた。

 心配になって荷物を確認すると、薬局で処方された薬が入った袋があった。

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