第53話 信号


 詩冬はラストスパートをかけた。

 あと約五十メートル。もう少しだ。


 交差点の信号が青に変わった。

 柚香たちを乗せた黒い車が発進する。


 それでも諦めずに必死に漕いだ。

 発車直後の車はそれほど速くはない。


 黒い車に近づいていく。

 あと三メートル程となった。


「柚香ぁーーーーー」


 後部座席の柚香がふり返る。声が届いてくれたのか。

 柚香の目が詩冬を捕らえた。


 だが黒い車は徐々に加速し、詩冬を引き離していった。

 それでも追いつこうと必死に自転車を漕ぐ。


 やはり車というものは速い。早くも十数メートル引き離されてしまった。


 リアウィンドウ越しに、口を動かしている柚香が見える。

 詩冬に向かって何を叫んでいるみたいだ。

 しかしこれほど距離があっては、柚香の声など聞こえるはずもない。


 柚香が口を大きく開ける。

 まるで何かに驚愕しているかのようだった。

 彼女は何を見たのだろうか。


 それと同時に――。


 後方から詩冬を追い越していくミニバンがあった。

 ミニバンが突然、詩冬の前方へと左折してくる。明らかにその車の不注意だ。

 ただし詩冬が華之江の黒い車に気を取られ過ぎていたのも事実だった。


 左折するミニバンが、直進する詩冬の自転車に接触。

 むろん自転車ばかりではなく、詩冬自身も重傷は避けられない。



「うわっ!」



 どうしたことだろう。

 体がふわっと浮いた。


 漕いでいた自転車は、悲惨な姿に変わり果てた。

 その光景を高い位置から俯瞰している。



「な……なんだ」



 もしかして自分が命を落とし、死霊にでもなったのか――と不安になった。

 だけどなんだか息苦しい。どうして息苦しいのだろう?


 徐々に状況を理解していった。

 いま誰かに後ろ襟を掴まれて、引っぱりあげられている。


 そんな、まさか。


 ふり向いてみる。

 不可解なことに柚香がいた。

 そこにいるはずがない柚香だ。


「柚香……」

「危ないでしょ。自転車はしっかり注意して漕ぎなさいよね、このバカ詩冬!」


 柳眉を逆立てて怒っている。

 間違いなく詩冬のよく知っている柚香だった。


 でもどうして柚香が飛んでいるのだろう。

 実体の柚香と融合して一つになったはずだが。


「あの、柚香?」

「何よ」

「どうしたんだ、お前……」


 すると詩冬の耳元で大声をあげる。


「そんなの知らないっ。こっちが聞きたいくらいよ! ただ詩冬が車にはねられそうになったから、危ないっと思って……。そしたらあたしが体から抜けでちゃったみたい」


 口をギュッと固く結び、詩冬の体ごとグルグルと回りだした。


「おい、やめろ、柚香。死ぬぅーーー」

「あんたが心配させるから、体から抜けだしちゃったのよ」


 そんなことを言われても、不可抗力のようなものだ。


「わ、わかった、謝るから、やめてくれー」

「もしまた元の体に戻らなかったら、あたしのこと責任取ってもらうからね」


 目の回った詩冬は、吐き気を催してきた。


「そ、それより……とにかく……黒い車を追おう……ぜ」

「まあ、そうねぇ」


 柚香の回転がようやく止まる。

 詩冬たちは空から黒い車を追いかけた。


 この日、空飛ぶ物体詩冬を目撃した人は少なくないかもしれない。

 町外れであっても、いまは真っ昼間なのだ。


「ところで……」詩冬を抱えながら柚香が尋ねる。「どうして詩冬はあたしたちを自転車で追いかけてたの?」


 華之江が裏切ったことをまだ知らないようだ。

 詩冬は海道から電話で聞いたことをすべて話してやった。


「本当? 華之江さんが裏切ったなんて信じられない」

「まったくだ。オレだって信じられなかった」



 黒い車に追いついてきた。

 詩冬を抱えた柚香が降下を始める。



 びゅん



 詩冬と柚香を背後から抜き去っていく物体があった。

 風を切るスピード感は、まるで矢のようだった。


 詩冬の体が大きく揺れる。

 空飛ぶ物体に驚いた柚香が、飛行バランスを崩したからだ。


「ビックリしたっ。いまのは何かしら」


 その物体は一瞬のうちに、華之江の運転する黒い車の前に着地した。人型を為した物体だ。まるで両手を広げたような恰好で、黒い車を待ち構えているようにも見える。



 キィーーーッ



 ブレーキ音が響き渡った。それでも車は急に止まれない。

 まさに人型の物体と衝突しようとしていた。


 黒い車がその物体に当たる。

 その物体が黒い車を受け止めたようだ。


 ゴンという衝突音よりも、タイヤの擦れる音の方が遥かに大きかった。

 とにかく車は完全に停止した。


 虚ろだった物体の輪郭が次第に明瞭になっていく。

 あれは間違いなく人間だ。顔までハッキリしてきた。


 詩冬がそれをじっと見据える。


 どこか見覚えを感じた。

 しかし……。


 さらっとした髪。涼しげな目。背丈は低いがハンサム風だ。

 大きめの白衣を身にまとっていた。


 初めて見る顔だった――。

 いいや、初めてではないぞ。


 犀鶴だ。


 身なりをきちんと整えた犀鶴に間違いない。

 ボサボサだった髪はきれいにカットされ、長い髭も剃られていた。

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