第52話 黒い車
キィーーーッ
鳴り響くのは車のブレーキ音。
何事かと目を向けてみる。
アパートの前に一台の黒い車が急停止したのだった。
ずいぶんと乱暴な運転だ。
詩冬は黒い車と入れ違いに、アパートの敷地を出ていった。
来たときは柚香といっしょだったが、帰りは一人ぼっちとなった。
胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちだ。
しかし柚香はこれから幸せを掴むのだ。
だからこれで良しとしなければならない。
自宅に向かってひたすら自転車を漕ぐ。
…… …… …… ……
…… …… …… ……
しばらくして車のエンジン音が聞こえてきた。
黒い車が後方から走ってくる。
さっきアパートの前で急停止した車に似ているが……。
黒い車は詩冬に並び、追い越そうとしている。
運転手の顔がハッキリと見えた。
詩冬の知っている人物だった。
ハンドルを握っているのは、マッチョ店長の華之江ではないか。
後部座席に柚香の姿が見えた。それから母ユズカの姿もあった。しかし追い越しは一瞬のことだったため、助手席にいる人物の顔までは確認できなかった。
遠ざかる黒い車を眺めながら考える――。
柚香たちはどこへ行くつもりなんだ?
その光景を別に変だとは思わなかった。
華之江が柚香たちと出かけるくらいは、たぶん普通にしてきたことだろう。
なぜなら彼は海道とともに、ユズカたちの面倒を見ているのだ。
黒い車は直進していった。
運転していた華之江は、詩冬には気づかなかったようだ。
会釈はおろか、目が合うこともなかった。
詩冬のスマホが鳴った。
卯月からの電話だった。
これはなんとも珍しい……。
スマホを耳に当てる。
『詩冬、いまどこ?』
「どこって、えっと、ここは……」
電話の声が卯月から別の男に代わった。
『海道だ』
「ああ、海道さん!」
代わった海道も、卯月と同じ質問をくり返す。
『いまどこにいるんだっ』
何やら慌ただしい口調だ。
「ユズカさんのアパートから帰るところです。ああ、そうだ。柚香が……」
詩冬には海道たちに報告すべきことがあった。霊体と実体の柚香が融合したことについてだ。さっそく伝えようとしたのだが、海道はその話を遮った。
『よく聞いてくれ。華之江がボクたちを裏切った。いま華之江は研究院の院長とともに、ユズカさんのアパートに向かってると思う。そっちがヤバい』
「へっ?」
まったく予期しなかった話に、聞き返すことしかできなかった。
海道が話し続ける。
『同僚から大変な情報を入手したんだ。内緒にしてたはずだった卯月ちゃんのケータイの存在を玖波院長が知り、そこからキミの家の住所を割りだしたってね。本当に間一髪のタイミングだったけど、卯月ちゃんに場所を移ってもらった。だけど今度は院長が華之江を連れて、ユズカさんのアパートへ向かったというんだ。華之江がユズカさんの住所を教えたのだろう。この卯月ちゃんのケータイ、すぐに壊して捨てるつもりだ。もうこの電話は通じなくなると思ってくれ』
とんでもない話だ。彼らがどれほど恐ろしい研究や実験を行なっているのかを、詩冬は身をもって知っている。これは由々しき事態だ。黒い車に乗っていた柚香とユズカの身が危ない。
「海道さん、だとすれば緊急事態です! ユズカさんと柚香が黒い車で連れ去られました。アパートから県道を真っ直ぐ南東に向かってます。この道を走っていったということは、おそらく高速のインターに向かうのだと思います」
『なんだって! ああ、遅かったかーーー。うわぁっ、さ、犀っ』
こんなときに電話が途中で切れてしまった。
詩冬のスマホのバッテリー切れだ。
役立たずのスマホを腹立たしく思い、漕いでいる自転車のハンドルを叩いた。
とにかく黒い車を追うしかなかった。必死に自転車を漕ぐ。
黒い車はかなり進んでいったことだろう。しかし幸いにも、この先に大きな国道と交差するポイントがある。タイミング次第では、彼らが赤信号に捕まってくれることもありうる。しかも大きな国道を横切る信号となれば、赤色の点灯時間は長いはずだ。もしかすると追いつけるかもしれない。
持っているすべての力を脚に注ぎ込み、ペダルを漕いで漕いで漕ぎまくる。
大きな国道との交差点が近づいてきた。
華之江の黒い車が見えた。
ラッキーなことに赤信号に引っかかってくれている。
詩冬はラストスパートをかけた。
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