第51話 嫌な子


 柚香の母ユズカが詩冬を見据えている。彼女は何も言わずに黙っているが、詩冬は『もう少しだけいてほしい』と言われたような気がした。


 詩冬がふたたび腰をおろすと、ユズカは微かに首肯した。

 つまり『いてほしい』と言われたのは、気のせいではなかったようだ。


 壁に背をつけた娘の柚香に、母ユズカが視線を向ける。


「ゆずか」


 ゆっくりと膝で歩き、娘に近づいていく。

 柚香は首を横に振った。


「待って。来ないで。こっちへ来る前に聞いてほしいことがあるの」


 ユズカの膝が止めると、柚香は震えながら俯いた。


「あたし、どうしちゃったのかな……」


 しかしそれから何も言わなくなってしまった。

 ユズカも話の続きをじっと待っている。


 詩冬は二人を見守ることしかできない。

 もどかしい気持ちでいっぱいだった。


 ようやく柚香が顔をあげる。

 詩冬は耳を澄ました。どんな話を母に聞かせようというのか。


「お母さん……」


 詩冬の耳にはそんなふうに聞こえたが、声が小さすぎて断定はできない。

 柚香はまた口を閉じてしまった。


 皆、黙っている。誰も動かなくなった。

 いっさいの物音がしなくなった。吐息の音さえも。

 室内はまるで時間が止まったようだ。



 この沈黙はいつまで続くのか――詩冬は落ち着かない。

 いつからオレは静寂が苦手になってしまったのだろう?

 そう感じるようになったのは、きっと賑やかな生活に慣れ過ぎたせいだ。


 だったら柚香が悪い。あのオレのよく知っている柚香が悪い。

 最近ではずっとアイツが傍にいてくれたからだ。


 柚香……。


 霊体と実体の柚香が融合していったとき、二人の間でどんな会話が交わされたのだろう。霊体の柚香の言葉は、自分の実体にちゃんと届いたのか。


 もし届いたのならば実体の柚香は何を思った?

 霊体と実体が一つになったのは、実体が霊体のすべてを受け入れたからだよな? それとも違うのか? 何も受け入れてもらえなかったのか?


 考えごとをしていると、また柚香が口を開いた。


「お母さんに謝らなくちゃならないことがある……」


 ユズカの優しそうな眼差しが柚香を包む。

 柚香の双眸が小さく揺れた。


「……あたしはお母さんが嫌いだった……」


 なんてことを!


 聞いていた詩冬は、心臓の止まる思いがした。

 心配になって母ユズカの顔を確認する。

 彼女の表情に変化は見られなかった。ただ黙ったままだ。


 娘の柚香はさらにこんなことを言った。


「……お母さんの八枚の写真。二枚が破れてるけど、破いたのはあたしよ」


 母に向けている顔は悪びれたようすもない。


 破れた写真はユズカにとって大切なものだったはずだ。

 それでもユズカが怒りだすことはなかった。

 依然としてまるで人形のように動かない。


 逆に柚香の表情が険しくなった。


「怒るんだったら怒ってみなよ。怒らないの? どうせ感情なんかないのよね。写真を破かれたって、悲しくもならないのよね。だから写真を破いた。あたしは知ってた。お父さんの写真がたった一枚しかなかったのを……。そう、あの一枚しか。あたしがあの写真を破いたのは、お母さんにとって大切な宝物だったからよ」


 無言の母をじっと睨んでいる。

 しかしユズカに反応は見られない。怒りだす気配はまるでなかった。


「あたし、わざと破いたって言ってるのよ? だってお母さんに、あたしを嫌って欲しいと思っ……」


 急に柚香が口ごもった。

 何かに驚いたように、両目を大きく開けている。


「嘘……なに? またさっきと同じこの感覚……。あたしの中に誰かいるの?」


 柚香の赤みがかった目に涙が溜まっていく。

 予想もしなかった彼女の言葉に、詩冬はぐっと身を乗りだした。


「おい、柚香?」


 彼女は両手を自分自身に向けた。

 不思議そうに手底を眺めている。


「これってなんなの? 怒られたいと思ったのは、あたしの単なる甘え? 無理に嫌われようとしていたのは、お母さんがあたしを嫌いになるわけがないって、心の深部ではそう思ってるから? ちょっと待って……あなたは誰?」


 奇妙な独り言を口にしながら震えている。

 けれども詩冬は話の相手が誰なのかを知っていた。


「あたし、とんでもないことをしちゃったの?」


 柚香は深いショックを受けたように顔を伏せた。顔が髪に隠れる。


「嘘……嘘……嘘……嘘よ。あたしは……」


 ユズカが娘から視線を外すことはなかった。


「ゆずか。わたしの子。犀鶴の子。大切な子」


 顔をあげた柚香の目から、涙がこぼれ落ちた。


「お母さん……」


 ユズカが両手を広げる。

 胸に飛び込んでくる娘を抱き寄せた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 柚香が声をあげて泣きじゃくる。


「ゆずか。いい子。大丈夫」

「でもたった一枚のお父さんの写真……もう無い」

「平気。犀鶴にはいつか会えるから」

「あたし、嫌な子」

「ゆずかは、わたしと犀鶴の


 詩冬はゆっくり立ちあがった。

 もうここにいる必要はないと理解したのだ。


 一人で玄関へと行った。靴を履き、二〇二号室から出る。

 外階段をおりていき、アパートの駐輪場へ向かった。



 柚香は詩冬のことをもう覚えていない。

 寂しい気がするけれど、これで良かったのだ。

 だってあの二人がうち解けたのだから――。

 詩冬は自分に言い聞かせた。

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