第50話 すぐ帰るから


 柚香、起きてくれるよな? 起きないんだったら、消えた意味がないじゃん。

 頼む。目を覚ましてくれ。たとえ元の霊体に戻ったっていい。


 ずっそばにといて欲しいんだ。どんなことでもオレが面倒みるからよ。

 ああ、こんなことになるのなら、実体との融合を進めるべきではなかった……。



 ぽとっ



 手の甲に温かな滴が落ちた。

 目に溜まっていたものが、とうとう零れてしまったのだ。

 ……オレ、男のくせにみっともないな。



 柚香の母ユズカが詩冬を励ます。


「すぐ起きるから」


 しかし詩冬は柚香が目を覚ますように思えなかった。

 それでもユズカは確信したように、娘の寝顔を見つめている。


「ゆずか」


 どうしてユズカは柚香が起きると信じていられるのだろう。

 もう目を覚まさないかもしれないんだぞ?

 いくら待ったって無駄かもしれないんだぞ?


 返事のない娘を呼ぶ母の姿が、詩冬にはとても歯痒かった。


「お友達が心配してる」


 ユズカはそう言いながら、娘の額にそっと手を置いた。

 まるで赤ん坊をあやすように優しく撫でる。



 するとここで変化が起きた。

 柚香の眉がピクッと動いたのだ。



 詩冬は思わず「あっ」と声を出した。

 夢でも幻でもない。いま確かに動いたのだ。

 ユズカは自分の手を戻した。


 柚香の瞼がゆっくりと開いていく。


 体も動いた。柚香の右手が自分の目を擦る。

 眠りから覚めたばかりの柚香は、眩しそうに目を細めるのだった。

 華奢な上体を徐々に起こす。はがれ落ちる掛け布団。

 淡いピンク色のパジャマが見えた。



 詩冬は胸が熱くなった。

 この現実がまだ信じられない。それでも現実なのだ。

 やっと柚香との約束を果たしたことになる。

 二人の願いが叶った瞬間だ。



 柚香の視線は母ユズカのところで止まった。

 ユズカが娘に手を差しだす。


「ゆずか」


 ところが柚香はその手をパンッと払った。

 ユズカが手を引っ込める。


 それを見ていた詩冬は、黙っていられなかった。


「おい、柚香っ」


 柚香の目に詩冬が映る。


 彼女は掛け布団で身を包み、座った状態で後退りした。そのまま壁に背中を押しつけ、細身の体を震わせる。詩冬に怯えているようだ。


 どうして柚香はオレを怖がっているのだろう?

 詩冬にはそのワケが理解できない。


 まさか、もしかして……。


「オレのことわからないのか?」


 柚香は何も答えない。ただ身を縮め、怯えていた。まるで恐ろしいものを見ているかのように。


 詩冬がしょんぼり肩を落とす。


 眼前にいるのは誰なのか――? 詩冬の部屋にちゃっかり寓居していた柚香ではない。いつもアイス珈琲をタカろうとしていた柚香ではない。きょうこのアパートまでいっしょに来た柚香ではない。

 詩冬の知らない別の柚香だった。この事実を受け止めなければならない。


「ごめん、驚かせちゃったな。オレすぐ帰るから、もう怖がらなくていいよ」


 立ちあがって柚香に背を向けた。

 部屋を出ていこうと、足を小さく踏みだす。


 ――ん?


 右腕を掴まれた。

 掴んでいるのは柚香だ。


 まったく慮外の出来事にぽかんとする詩冬。


 柚香は慌てたように詩冬の腕を放した。てのひらを広げ、自分に向ける。それを不思議そうに見据えている。さっき詩冬の右腕を掴んだのは、自分の意思とは無関係だとでも言いたそうだ。


 彼女は手をおろした。ゆっくり顔をあげる。

 詩冬と目が合った。


 詩冬は精いっぱいの笑顔を返してやった。


 しかし柚香の表情に変化が生じるわけでもなかった。

 詩冬に対する警戒心は解けていないようだ。



「あなた誰?」



 柚香からの問い……。

 詩冬はできるかぎり優しく穏やかな口調で答えた。


「柚香の仲間だ」

「ユウカ?」

「そう。ユズカと書いてユウカだってさ。自分で言い張ってた」


 柚香が首をかしげる。


「あたしのこと? あたしがそう言ったの?」

「うん」

「……嘘。いつ、どこで?」


 やはり詩冬のことは何も覚えていないようだ。

 霊体だったときの記憶は、すっかり消え失せたらしい。


 詩冬が柚香に答える。


「いつだったかな……。もう一ヶ月以上前のことだ。オレの部屋で『ユウカ』って名乗ったんだぜ」


 柚香は小さく首を振った。


「あたし、あなたの部屋には行ったことがない」

「そっか。それじゃ、オレの記憶違いだったかもな」


 最後くらいは爽やかな笑顔で柚香と別れたかった。

 それなのに、ぎこちない笑みしか作れなくなっていた。

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