第49話 起きてくれ
どのくらい経っただろうか?
遠くから窓越しに学校の
じっと動かなかった柚香が顔をあげる。
ようやく踏ん切りがついたようだ。
「あたしやってみる。この子を説得しようと思う」
「うん。柚香、頑張れよ」
柚香は無言でうなずいた。母にも一礼する。
といっても姿が見えていないのは承知のうえだ。
そして片手を高く挙げた。
パーーーーンと、詩冬と最後のハイタッチを交わす。
すうっと宙に浮いた。
眠っている柚香の上から、覆い被さるような格好になる。
真下にいる自分に右手を伸ばした。
右手指先が額に触れる。
すなわち柚香が『もう一人の柚香』に触れたのだ。
「きゃっ」
柚香は先日のように、さっと手を引っ込めた。
詩冬が慌てて叫ぶ。
「柚香っ」
霊体の柚香を認識できないはずの母ユズカも、詩冬の大声を聞いたためだろう。身をぐっと乗りだして、眠っている娘の顔を覗き込むのだった。
詩冬はユズカの小さな表情の変化に気づいた。
子を心配する母親の顔……。なんとなくそんなふうに見えた。
「ゆずか」
ユズカが娘に呼びかけた。
霊体の柚香が、声の届かないはずの母に応える。
「大丈夫。ちょっと電気みたいなのが走っただけだから。待ってて、お母さん」
真下に向き直り、眠っている自分に声をかけた。
「お願い。あたしと一つになって」
ふたたび手をおろす。
寝床の自分に近づいていく指先。
微かに震えながらも、額にそっと触れた。
「うっ」
歯を食いしばりはしたものの、手を引っ込めることはしなかった。
しかし手はそこで止まり続けている。自分に触れたまま動かない。
霊体の柚香の顔は苦しそうだ。額から汗が流れ落ちていく。
彼女の体は静止したままだった。真下にいる柚香の体にも変化はない。
それでも二人の柚香のようすは、まるで互いに会話しているように見えた。
ただ表情だけはどちらも辛そうだ。
やがて霊体の柚香は小さな声を発した。
「生きたいの。生きてお母さんと話がしたい。それから生きて、し……」
途中で口を閉じ、唇を噛み締めた。瞼を閉じる。
「あたし生きる。絶対」
それから柚香は微動だにしなくなった。
そのまま約十五分が過ぎた。
詩冬はさすがにおかしいと思った。
堪らず柚香に手をかけようとしたが、その気持ちをぐっと抑え込んだ。
彼女に触れてはいけない。彼女の邪魔をしてはならない。
いまは見守ることしか許されないのだ。
オロオロしている自分に言い聞かせる――。
オレが弱気になってどうするってんだ。
この焦燥感に打ち勝たなくてはならない。
柚香の方がよっぽど頑張っているじゃないか。
さらに一時間が過ぎた。
その間、母ユズカの視線は娘のみに送られていた。
張りつめた空気の中、いよいよ霊体の柚香に異変が起きた。
俯せで浮いている霊体の柚香が、少しずつ透明になり始めたのだ。
まず彼女の足が消えた。さらに頭も胴体も見えなくなっていった。
そして右手だけが残った。その指先が『もう一人の柚香』の額に触れている。
「柚香?」
詩冬が思わず呼びかけてしまったが、返事はなかった。
最後に残った右手ですら、色も形も消えてゆく。
もしかすると二度と彼女を見ることがないのかもしれない。
詩冬はそう思い、瞬きすることさえ惜しんだ。
とうとう彼女は跡形もなく消えてしまった。
「柚香ぁーーーっ」
叫んだところで霊体の柚香の姿はもうない。
実体の柚香だけが残っている。
布団の中の彼女は、いまだに目を開かない。
彼女の中でどんな変化があったのか、外見からは何も知ることができない。
元気に起きあがるのを待つしかなかった。
しかし一向に目を覚ます気配はない。
――なあ、柚香。どうして起きてくれないんだよ。心と体が融合しただけだよな? 霊体だった柚香の存在だけが、消えたわけじゃないんだよな?
不安でたまらない。どうしようもない焦りが込みあげてきた。
「どうか起きてくれ……」
柚香は目を閉じたまま変化がない。
詩冬は背中を丸め、顔を歪ませた。
「ゆずかは大丈夫」
優しい声は彼女の母ユズカからだった。
詩冬が顔をあげる。母ユズカと目が合った。その眼差しはとても温かかった。
「ゆずかは幸せ。お友達ができて」
詩冬は心の中で母ユズカに礼を言った。
犀鶴に愛されていたユズカは、優しい心の持ち主だった。
詩冬はそれをはっきりと確信した。
ユズカが布団の中の柚香にそっと声をかける。
「ゆずか」
けれども娘からの反応はない。じっと待つしかなかった。
もし柚香が二度と目を開くことがなかったら、母ユズカはどうなってしまうのだろうか? 詩冬は母ユズカのことも心配になってきた。
万一、本当にそんな結末になろうものなら、彼女はただ泣くばかりだろうか? あるいは暴れ狂うのだろうか?
……暴れ狂うのはオレの方かもしれない。
どうか無事に目を覚ましてくれ。
祈るような気持ちで彼女を見守った。
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