第48話 ユズカの気持ち


 顔を出した卯月に、詩冬が言う。


「頼むっ、診てくれ! 柚香のようすが変なんだ」


 卯月が真顔になった。いったん深雪の部屋に引っ込んでから、白レンズ眼鏡をかけてふたたび現れた。詩冬の部屋に駆け込む。


「詩冬、柚香の顔を上に向けて」

「こんな感じでいいのか?」


 詩冬は柚香を腕に抱えながら上向きにした。


「それでいい」


 卯月がその顔を覗き込む。


「卯月、どうだ? わかるか?」

「死霊ならばともかく、生き霊を診るのは初めて。だけど、ひどく弱っていることだけは確か」


 詩冬は柚香の体を揺すった。

 いったいどうなっちゃうんだ……?


「しっかりしてくれ、柚香!柚香!柚香!」


 隣で卯月が言う。


「わたしは生き霊の研究を専門にしているわけではない。だから推測でしかないけど、遠からず柚香は消滅する……。それらしい兆候が現れている」


 柚香が消えるっていうのか?

 その言葉が詩冬の胸をグサっと突き刺した。胸の激痛に歯を食いしばる。


 柚香の目が開いた。

 詩冬が声をあげる。


「柚香っ」


 柚香の不安定な視線が周囲を探っている。いまにも泣きだしそうな情けない顔の詩冬と目が合った。彼の抱える腕から抜け、ふわりと宙に浮かぶ。足を片方ずつ伸ばし、ゆっくりと床に立った。笑顔を見せている。


「そんな顔しないで。あたしは大丈夫。ただちょっと疲れちゃったみたい」


 嘘つけ。笑顔が下手クソすぎる。

 詩冬は柚香の手首を強く握り、ぐいっと引っぱった。


「詩冬。痛い」

「いいから来い」


 柚香の手を引ながら、階段をおりる。

 そのまま玄関に向かった。


「詩冬、柚香の実家に?」


 声をかけたのは卯月だ。

 階段の上から見おろしている。


「そのつもりだ」

「だけど……。いいえ、それが正解だと思う。無駄かどうかはともかく、いまはそれしかない。早く柚香を連れてって」


 詩冬が首肯する。


「お前もいっしょに来るか?」


 卯月は首を横にふった。


「そっか」


 詩冬は自転車をひっぱりだしてきた。

 電車に連れ込むのは、少々難しそうだからだ。


「柚香、オレに掴まってくれ」

「……うん」



   ◇



 犀鶴の妻ユズカのアパートまでやってきた。

 裏庭の駐輪場に自転車を止める。


「具合はどうだ」

「さっきより回復したと思う」

「ならば良かった」


 柚香を背中に負ぶおうとすると、彼女は首を横に振った。大丈夫だと言う。建物の外階段を二人でのぼり、二階の外廊下を歩いていった。それでもまだ柚香のことが心配だった。途中、彼女をチラチラと確認してみるが、しっかりと前へ進んでいた。


 いよいよ二〇二号室の前に立った。

 柚香が不安そうに詩冬のTシャツの袖を掴む。


 彼女は詩冬に言われずとも、これからやることを理解していた。


「あたし、できるかしら……」

「できるさ。もっとリラックスしていこうぜ。今度あっちの柚香に拒絶されたら、逆にグーでブッ飛ばして、体をのっとってやるくらいの気持ちでかかりゃいい」

「……まるで悪霊」

「そうそう、悪霊でいいんだ」


 詩冬が呼鈴を鳴らす。

 部屋のドアが開き、柚香の母ユズカが現れた。

 無表情なユズカに、詩冬が挨拶する。


「こんにちは、ユズカさん。また来ました」


 隣に立つ柚香の手を握った。ユズカに娘の姿を見せるためだ。

 ユズカの瞳が彼女に向かう。


「ゆずか」とユズカ。


 柚香は母に軽く会釈した。

 ユズカはしばらく娘を見つめていた。


「入って」


 そう言ってそのまま奥へと歩いていく。

 詩冬たちは中にあがらせてもらい、ユズカのあとから居間へ行った。


 ユズカが居間の奥にある襖を開く。

 布団に眠り続ける柚香の姿が見えた。


 柚香は緊張してきたのだろうか。

 握っている手に力が増した。


 二人で布団の脇に腰をおろす。

 繋ぎ合っていた手はここで放された。


「柚香、できるか?」


 返事はなかった。じっと動かない。

 だからといって急がせるつもりはまったくない。

 柚香が行動を起こすのをゆっくり待つことにした。


 しばらく続いた沈黙のあと、柚香は独り言のように呟いた。


「あたし、気があまり進まなくなった」


 その声は震えていた。


「どうしたんだ」

「この前、眠っているこの子に触れてみて、わかったことがあったの」

「わかったことって? 話してくれないか」


 柚香がコクっと首肯する。

 キリッと目尻を上げ、思い切ったように口を開けた。


「キライなの。そこに眠っている『もう一人のあたし』は、母のことが」


 そんなことを言いだしたので詩冬はヒヤっとしたが、いまの声は母ユズカには聞こえていないはずだ。幸いにも互いの手は放されていたのだ。


「あたしって、イヤな子でしょ?」


 柚香がじっと詩冬の顔をうかがっている。

 反応を待っているようだ。


「でもそれは眠ってる方の柚香の話だろ? こっちのお前とは違うじゃん」

「どうかなあ。同じかもしれない……」


 首を左右させながら、顔を曇らせる。


「……あたしの想像してきたお母さんは、もっと普通の人だった。それなのに、あの人はまるで感情のないロボットみたい。娘に愛情なんか本当に持ってるのかな」


 詩冬は柚香の気持ちが理解できないわけでもなかった。

 柚香の母ユズカの顔にちらっと目をやった。


 ――ユズカさん、あなたは柚香のことをどう思ってるんですか?


 しばらく考えた。

 そこにいる母親は娘に愛情を持っているのだろうかと。


 ぎゅっと目を瞑って三十秒あまり。


 そしてパッと見開き、口角を吊りあげた。

 柚香ににっこりと微笑を見せる。


「そんなのはさあ、要らない心配だぜ。ユズカさんはちゃんと感情を持ってるし、柚香への愛情だって持ってる。それについてオレは確信してるんだ」


 訝しむような顔の柚香。

 しかし黙って詩冬の話の続きを待っている。


「わからないかな。写真、覚えているか。あそこに写っていたのは、ユズカさんと柚香とたぶん犀鶴さんだ。家族の写真を大切に仕舞ってたんだ。大事な写真だとも言ってたじゃん。確かに破れた写真もあったけど、ちゃんとセロハンテープで補修されてた。要らない写真だったらそんなことはしないぜ」


 柚香はまだ納得していないようすだ。

 詩冬が少し考え込む。


「じゃあさ、柚香。その腕輪になんて書いてあったっけ?」


 柚香が持っている右腕の腕輪ことだ。

 彼女は腕輪に刻まれた言葉を口にした。


『柚香 生きて』


「うん、そうだよな。柚香もわかってるんだろ、誰がそれを刻んだのか」


 柚香は視線を床に落とした。

 そのまま時が流れていく。

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