第45話 二〇二号室の鍵


 詩冬が二〇二号室の呼鈴を押す。

 しばらく待っても応答がない。留守なのだろうか。

 もう一度呼鈴を押してみたが、やはり同じだった。


「なーんだ。留守みたいだぞ」

「残念だけど仕方ないかな。きょうのところは帰りましょ」


 踵を返しかけたとき、二人は背後の人影に気づいた。

 いつからいたのだろう。


 その人物は無言のまま、二人の脇を素通りした。家鍵をドアの鍵穴へ差し込む。

 霊体である柚香以上に、存在感がないような人物だった。

 詩冬と柚香はきょとんとしながら、その人物のようすを眺めていた。


 ガチャ


 鍵が開いたようだ。

 ここで詩冬は声をかけた。


「あのう……」


 その人物がふり向く。髪に隠れていた顔が露わになった。


 詩冬がハッとする。

 その人物の顔はあまりにも柚香とそっくりだった。


 驚くほど若々しい。柚香の母ならば年齢もそれなりのはずだが、どう見ても三十前にしか思えない。しかし能面のように無表情だ。


「あの……。オレたち、海道さんの紹介でここに来ました。あなたは犀鶴さんの奥さんですよね?」


 その人物は微かに首肯した。

 詩冬が自己紹介を始める。


「オレ、詩冬って言います。んで、こっちが柚香ゆうか……いいえ、ユズカさんです」


 その人物はうつろな瞳を小さく左右させるものの、柚香と目を合わせることはしなかった。やはり柚香の姿が見えていないのだろう。普通の人には彼女が認識できないのだ。


「ごめん、柚香。手を握るぞ」


 詩冬は右手で柚香の左手首を掴んだ。

 これで彼女の姿は一般人にも見えるはずだ。


 その人物の目がゆっくりと柚香に向く。

 いきなり柚香の可視化を目にしても、特に驚いたようすはなかった。


「お、おかあ……さん……?」


 柚香が『母』に呼びかける。

 その人物は柚香を見据えた。そしてほんの少し首をかしげる。


「ゆずか?」


 初めて小さな声を発してくれた。

 詩冬はほんの少しホッとした。


 だが娘の柚香は微かに震えているようだ。眼前に立つその人物に向かって、おどおどした口調ながら自分のことを打ち明ける。


「あたし、記憶が無いんです。あなたはあたしの……」


 柚香の話の途中で、その人物が言う。


「入って」


 ドアが開かれた。


「こちら」


 柚香の母は屋内にさっさと入っていった。

 ふり返ることもなく、廊下とつながった台所を過ぎていく。


 詩冬と柚香は呆気にとられたが、あがらせてもらうことにした。

 柚香を待たせて、靴を脱ぐ。


「お邪魔しまーす」


 突き当たりの左手に居間があった。

 柚香の母は二人の客を居間に通し、さらに奥の襖を開けた。


 奥の部屋に布団が敷かれている。

 詩冬と柚香は、思わず声をあげた。



「「あっ」」



 布団の中に少女が眠っていた。

 しかもその顔は柚香と瓜二つだった。

 年齢も柚香と同じくらいだ。


 まさか……本物の柚香なのか……。

 だとしたらこれは魂の抜けた柚香の死体なのか?


 詩冬は布団の少女に近づき、上からその顔を覗き込む。

 少女は死人ではなかった。血色のいい、生きた少女だった。


「そうか……本当だったんだ。海道さんの話の意味がわかった」


 詩冬はそう呟き、柚香に微笑む。


「お前はやっぱり幽霊じゃなかったんだ。生き霊……っていうのかな? 呼び方はともかく、柚香は生きてたんだよ」

「この子があたし……。あたし、死んでなかった?」


 柚香も眠っている少女に近寄った。

 怯えるように、眠った顔を覗く。


 ごくりと唾を飲み込んだ。

 眠った少女の顔をそのまま見つめている。


「うん。この子は生きてる。あたしに間違いない……」


 詩冬はうなずいた。

 そして心の中で語りかける――。


 柚香、よかったな。本当に生きているんだぞ。


 柚香の母は襖の手前でじっと黙している。

 詩冬が彼女に再確認する。


「もう一度訊きますけど、あなたは犀鶴さんの奥さんであるユズカさんですね?」


「はい」


「そこに眠っているのは、あなたと犀鶴さんの娘さんである柚香ゆうか……ユズカさんですね?」


 柚香の母ユズカは首肯した。

 詩冬が続けて言う。


「おそらく玄関の外で見た柚……ユズカさんの姿は、いまは見えていないと思います」


 柚香の母ユズカは無言のまま、僅かに首を上下させた。


「オレには不思議な力があるんです。普通の人には見えないはずの霊体も、オレが強く触れている間は皆に視認できます。それじゃ見ててください。これからもう一度、さっきのユズカさんに触れてみます」


 詩冬が柚香に手を伸ばす。


「柚香、頼むぞ」


 柚香も詩冬にそっと手を伸ばしてきた。


 二人の手が握り合う。


「ゆずか」母ユズカが柚香の名を呼ぶ。


 どうやら見えたらしい。


「いまここに現れた彼女は、あなたの娘のユズカさんに間違いありませんよね?」

「はい」


 詩冬は柚香の手を握ったまま、眠っている少女を別の手で指差した。


「そこに眠っている人も、娘のユズカさんですよね?」


 母ユズカはうなずいた。


「ずっと眠り続けたままなんですか?」

「一ヶ月半、ずっと」


 時間的な辻褄も合わないことはない。


「なあ、柚香。そこに眠っているのが実体で、お前がその『魂』というか『意識』みたいなものだとしか思えない。つまりお前がそこの実体と一つになれば、目を覚ますんじゃないのかな」


「あたしもハッキリ感じるの。あの子はあたし自身の体だって。だからあたしが帰る場所は、そこで眠っているあたしの中。ぜんぶ詩冬のいうとおり。二つのあたしが一つになれば、きっとすべてが元どおりになる。記憶も思いだせるのね……」


 詩冬と柚香は互いに見つめ合った。

 二人でいっしょに目指してきたゴールがそこに見えているのだ。

 感慨深いものが込みあげてきた。

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