第44話 壊れた柚香


 詩冬が自宅に到着した頃、もう夕方になっていた。

 玄関のドアを開ける。


「柚香! 居るか?」


 しかし聞こえてきたのは、柚香ではなく深雪の声だった。


「詩冬? いままでずっとどこに行ってたの」

「ちょっと遠出を。姉貴は仕事、もう終わったのか」

「うん。きょういい天気だったから、会社休んで卯月ちゃんと遊園地行ってきたのよ。あと柚香ちゃんも誘ったんだけどね……」


 ――そんなことで会社を休んだのかよ。


 しかしいまはどうでもいい話だった。深雪にかまっている暇などない。

 急いで階段を駆けあがり、自分の部屋の戸を開け放つ。


「柚香っ」


 柚香がいた。デスク前の椅子に座っている。

 ふり向きもせず下を向いたままだ。


「行くぞ」


 詩冬は柚香の左手を取った。そして強引に引きあげる。


「詩冬、さっきノック忘れたでしょ」

「いいから早く来い!」

「ちょっと何よ」


 柚香の左手を引っぱった。部屋から出て階段をおりていく。


「急にどうしたの?」

「柚香は消えない。厳密には幽霊じゃないからだ」

「厳密には幽霊じゃない?」


 柚香が小首をかしげる。

 詩冬は玄関で靴を履き、ふたたび柚香の手を掴んだ。


「グズグズしてられないんだ。暗くならないうちに行くぞ」

「わ、わかったけど」


 深雪と卯月も玄関にやってきた。

 慌てたようなようすだ。会話が聞こえていたのだろう。


「詩冬、どういうこと。柚香ちゃんが幽霊じゃないって、本当なの?」

「そうらしいけど、オレもよくわからない。だからちょっと行ってくる」


 詩冬は柚香を連れて玄関を出た。

 海道の指示した場所に向かう。


 電車を乗り継ぎ、目的地の最寄り駅で下車。

 海道のメモのとおりに進んでいく。


 L字型の駅前商店街を抜けでて、さらに二ブロックほど過ぎた。

 三階建ての古いアパートがあった。そこの前で立ち止まる。


 もうすぐ柚香のことがわかるのだと思うと、なんだか緊張してきた。


 目的地はこのアパートの二〇二号室だ。

 外階段をのぼりかけたときだった――。


「ねえ、詩冬。もしあたしが……」


 柚香が途中で口をつぐむ。

 口ごもったまま下を向いた。


「ん、どうした?」

「もしあたしが幽霊じゃなくて……。本当はもっと恐ろしいバケモノだったら、詩冬はどうする?」


 細腕が微かに震えている。


「バーカ。お前がなんだろうと関係ない。前にも言ったはずだろ。もうオレたちの家族みたいなものだって」


 柚香はうなずくこともなく黙ったままだった。


 改めてアパートの外階段をのぼる。

 柚香は視線を落としつつも、しっかりついてきている。

 二〇二号室の前で足を止めた。


「さあ、ここだ」

「ここ? ここに誰が住んでるの?」


 詩冬はじっと柚香の目を見据えた。


「ここには柚香のお母さんがいる」

「えっ?」


 柚香は目を大きく見開き、耳を疑うかのような顔をした。


「お母さん……が?」


 柚香が数歩、後ずさりする。


「そうとも。柚香のお母さんが、このドアの向こうにいる」

「嘘よ……本当に?」


 柚香の声も肩も震えた。

 そんな柚香に詩冬が笑顔を送る。


「もう一つ、いいこと教えてあげようか」


 柚香はおそるおそる詩冬の顔をうかがった。

 詩冬が優しい眼差しで返す。


「柚香が犀鶴さんの奥さんじゃなかったことも判明したんだ」

「えっ……」


 柚香は大口を開けた。

 瞳の表面は潤みを帯び、目元が真っ赤に染まる。


 小さな深呼吸ののち、ごくりと唾を飲み込んだ。

 詩冬からの視線を避けるように俯く。


「……あたしが犀鶴さんと結婚していなくて、詩冬は……どう思った」

「よかったんじゃね?」

「ど、どうして」


 顔をふたたびあげ、返答を待っている。


「そりゃ、柚香があんなに嫌がってたんだからな。だから良かったと思う」


 鼻をすすり、目を細めた。

 淡々とした語調で言う。


「……へえ、優しいこと」

「なんだよ」

「別にっ」


 詩冬は指でこめかみを掻き、もったいぶるように横に向いた。


「んじゃ、さらにあと一つ教えてやるかな」

「ま、まだあるの?」


 柚香は不安げな表情を見せた。


「犀鶴さんは柚香の夫じゃなかったって話したよな?」

「そ、そうよ。詩冬がハッキリそう言った」


 詩冬がニヤリと含み笑いを見せる。


「夫じゃなくって、父親だ」

「ひえーーーーーーーーーーーーーーーーっ」


 柚香は金切声をあげた。


 顎をガクガク震わせ、視点は定まっていない。

 魂の抜けたような顔、というのはこのことを言うのだろうか。

 やがてピクリとも動かなくなった。


「お、おい。柚香。大丈夫か?」


 詩冬は心配になって、体を揺すってみたが、反応はなかった。

 もう一度、柚香を呼んだ。


「おーーーい」


 柚香はやっと動いたかと思うと、泥酔者のような千鳥足を始めた。


「ああ……あ……あ、あ。あーーー」


 もはや言葉になっていない。

 茫然とする柚香のようすを、詩冬はしばらく眺めていた。


「柚香って、反応がいちいち面白いヤツだなあ」

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