第41話 長い修行


 詩冬は実験台に這いあがり、ちょこんと腰をかけた。


 ムッとした表情の海道が、詩冬の前に立つ。

 詩冬はきょとんとした。はて?


「キミ、酷いなあ。ボクを売ったね? 受付でボクの名前を告げるなんて、危うくボクに容疑がかかるところだったぞ」

「す、すみません……。でも海道さんもオレを見殺しにしようとしましたよね」


 海道が大声で笑う。


「ははは。やっぱりボクも、自分の身が一番大切なんだ」

「とにかく犀鶴さんが来てくれなかったら、大変なことになってました。犀鶴さんには感謝します。ありがとうございました」


 詩冬が犀鶴に低頭する。


「うむ」犀鶴は表情を変えずにうなずいた。


 詩冬はそんな犀鶴の顔を見て、あることを思いだした。

 あの登場の仕方のことだ。天井付近を飛び回るなんて、とても人間業ではなかった。


「犀鶴さん。さっきハエみたいに飛んでましたけど、あれはいったい……」

「ほっほっほっほ」


 犀鶴が奇妙な声で笑う。だが笑って誤魔化せるようなレベルのものではない。

 あれはなんだったのだろう?


「いくら犀鶴さんが偉大な高僧だからって、あんなの無茶苦茶過ぎますよ」


 すると犀鶴は重々しい表情で目を閉じた。


「ふむ。ワシはな、ここの施設で過去の資料を読みあさり、深刻かつ重大なことに気づいてしまったんじゃ。ワシ自身のことでのう」

「犀鶴さん自身のことで、ですか?」


 犀鶴は大きくうなずいた。


 同時に海道も詩冬にうなずいた。

 ということは海道も知っている話のようだ。


 犀鶴が説明を始める。


「ワシは高僧と呼ばれ、名僧と呼ばれるようになったあとも、さらに厳しい修行を重ねていった。そしてついにすべての迷いから脱したのじゃ」


「すべてての迷いからですか?」


「そうじゃ。『未来への不安』や『過去の苦しみ』、『人間関係の苦や煩い』、それから迷いを生むあらゆる『欲望』や『生』。それと……」


 ――えっ?


 詩冬は途中でおかしなことに気づいた。

 犀鶴の話において、『未来への不安』『過去の苦しみ』『人間関係の苦や煩い』『欲望』までは問題なかった。しかし……。


「ちょっと待った、犀鶴さん」


 犀鶴の話を止める。


「『生』って、それ脱しちゃダメでしょ?」


 犀鶴は遠い目をして、ぼそっと言う。


「うかつじゃった。修行に夢中じゃったので、つい……」

「えっ? 『つい』って。つい死んじゃったんですか!」


 詩冬は開いた口が塞がらない。


「うむ。ワシは死霊になっておったのじゃ。生前、厳しい修行を積んだことで、霊的にかなり強い陽性となっておってのう。そのためワシが死んでからも、大抵の者たちにはワシという霊が見えておったのじゃ。ワシ自身でさえ気づかぬくらい、生きた人間と同等の存在感があってのう。自分が生きているものだと思い込んでおった」


「それじゃつまり死んでいるにもかかわらず、最近までずっと生きてると思ってたわけですね」


「確かに冷静に考えてみるとな……。いくら過酷な修行を積んだからといって、無意識のうちにインドから日本まで飛んでこれるわけがなかった」


「き……気づかなかったんですか、それすらも?」


 死んだことに気づかない霊ならば、いままでたくさん会ってきた。

 しかしこんな無茶苦茶な霊の話は初めてだった。


 犀鶴は照れたように、指先でこめかみを掻いた。


「そう。気づかんかった。この施設の資料を見るまではのう」


 詩冬が感心する――。

 資料を見て気づくとは、さすが元研究者だ。


「死んだ霊の特徴とかの記述が、その資料にあったんですね」


 しかし犀鶴はかぶりを振るのだった。


「いいや、資料の日付を見たのじゃ。いつの間にか十六年も経っていてのう。ワシとしては、修行期間は一年程度のものと思っていたのじゃが……。そこで不思議に思い、この体を調べてみることとなった。そしてようやく自分の死を認識できたのじゃ」


 詩冬は呆れて絶句した――。

 資料の日付がキッカケだったとは。それって十六年も気づかなかったのか?


 犀鶴と詩冬の会話を聞きながら、海道が笑っている。


「そうですよ、犀鶴さん。もう十六年、いいえ、十七年が経っているんです。今朝も言いましたけど、一度奥さんに会いに行かれたらどうなんです?」


 詩冬は目を大きく見開いた――。


 奥さん!? 『奥さんに会いに行かれたら』って言うことは、あの柚香とはやっぱり別人だったのか。


 緊張しながら尋ねてみる。


「えっと……つまり柚香は奥さんじゃ……」


 海道がにっこりと微笑む。


「もちろんさ。犀鶴さんの奥さんは、あのお嬢ちゃんとは別人だよ」

「そっかぁー」


 海道がいたずらそうな目で詩冬の顔を覗き込む。


「キミ、嬉しそうだね」

「お、オレは別に嬉しいとかはないですけど……。でもきっと柚香のヤツ、犀鶴さんが旦那さんじゃなかったって聞いたら、ホッとするんじゃないかなあ」


 ぎょろっとした犀鶴の目に力が入った。詩冬を見据えている。


「ほう。おぬし、それはどういう意味かのう」

「えっ、じょ、冗談です!!」


 海道が笑う。そして犀鶴に顔を向けた。


「犀鶴さん。また今朝の話になりますけど、どうなんです? 奥さんに会いに行ってやってください。躊躇することなんてありませんよ」


「しかし……」犀鶴は口をつぐんでしまった。


「会いづらいんですか?」


「いや、ワシは……。まだやることが残っておってのう。そ、そうじゃった、そうじゃった。仕事の続きをせねばならん。では、また会おう」


 高く飛びあがり、天井を抜けていった。

 海道が天井を見あげる。


「待ってますよー、犀鶴さん!」

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