第31話 いまはごめんなさい
海道の話はまだ続き、こんなことを語ってくれた――。
国立生命研究局は解体され、この町にあった本局の建物も取り壊された。
だが桃園郷の研究施設だけは残され、研究はひそかに続けられた。
解体後、研究の中心人物だった男が、桃園郷の現場施設をそのまま引き継いだ。その男が前院長であり、現院長の父でもある。また卯月にとっては『生みの母』の父にあたる。そして『生みの母』の兄が現院長だ。
卯月は四人のDNAから生まれたわけだが、出産のために子宮を提供した『生みの母』およびその夫からもDNAが供給されていた。しかし両者とも研究局解体前に死亡している。
「そっか。すると四つのDNAのうち残り二つは誰の……」
詩冬は慌てて自分の口を塞いだ。無神経な質問だと思ったからだ。
しかし卯月はこう答えた。
「外国人研究員の夫婦だと聞いているけど、わたしは会ったことがないし、興味もない。それにもう日本にはいないらしい」
ここで海道がゴホンと咳払いする。
「話を戻そうか。さっき言ったとおり、いまでも完全に政府から縁が切られたわけじゃなくてね、これらの研究は政府の半公認なんだ。卯月ちゃんは小さい頃から、あの場所で実験用サンプル扱いだ。気の毒に思う。特に毎年夏になると、辛い実験を施設で受けることになっている」
「辛い実験とは?」詩冬が尋ねる。
海道はじっと口を噤んでしまった。
話すことさえ、おぞましいものなのか。
それでも詩冬は知りたかった。
もう一度海道に尋ねてみる。
「何をされるんですか?」
ようやく海道が口を開く。
「毎日、薬を飲まされたり、注射をうたれたり……。卯月ちゃんは、そのたび痛みに悲鳴をあげるし、苦しみにのたうち回るんだ。嘔吐や失神の繰り返しだよ。解剖だってされるしね、体にはとんでもなく負担がかかる。だから……」
話しづらそうに視線を落とす。
それでも、すぐにキリッと表情が引き締まった。
「だから詩冬くん。卯月ちゃんのことをキミにお願いしたい」
「え? お願いしたいって……」
詩冬は思わぬ話の展開にきょとんとした。
自分にできそうなことなんて、あるようには思えない。
「そろそろ限界にきてると思う。ボクは研究のために倫理的タブーをいろいろ犯してきた。だから正義ぶったことを言える立場じゃない。でも一個人の命に関わるような実験や研究には賛同できない。ところが数日前、卯月ちゃんの研究において、ある実験に着手することが決定されたんだ。これまでとは比較にならないほど危険で恐ろしい実験となる。だから卯月ちゃんをさらってってくれないか? 大事な話とはこのことなんだ」
卯月が立ちあがり、テーブルをバンと叩く。
「海道! 勝手に話を進めないで。さらうって何? わたしは却下よ」
詩冬は卯月のこんな大声を初めて聞いた。
険相な顔で海道を睨んでいる。
「どんな実験だろうと覚悟はできてる。なぜならわたしは人間じゃない。いまさら何を恐れるって?」
海道はそんな卯月の話を聞き流し、詩冬からの返答を待っている。
「わかりました。卯月はオレが匿います」
卯月は納得していないようすだ。
「この男ってバカなの? 海道、こんなバカを信用するつもり? 逃げきれるとでも思ってるわけ? 大勢の追っ手が捕まえにくるのよ」
海道は微笑みながら卯月の言葉にうなずいた。
「その気になれば逃げきれるさ。逃げきったサンプルもいくつかある。結局は卯月ちゃん次第なんだけどなあ」
「無理よ。一生逃げ続けろって言うの?」
海道が穏やかな口調で卯月に答える。
「あの施設にはね、ボクと同じ考えの研究者が少なからずいるんだ。彼らもキミを守ってくれるだろう。あとはボクたちと玖波院長との戦いだね。卯月ちゃんだって本当はそこから逃げたいと思っているはずだ」
「……無理に決まってる」
卯月が首を左右させる。
しかし海道は口元をほころばせるのだった。
「『無理に決まってる』かあ。よかった。それって本当は逃げたいという意味だからね」
卯月は唇を噛み、海道から目を逸らした。
このとき詩冬の腕をぎゅっと掴む手があった。
パジャマ姿の柚香だ。
「あたしの声、聞こえてるかしら。詩冬に触れてれば聞こえるはずよね?」
姿を見せたパジャマ霊に、海道と卯月は顔を向けた。
「聞こえてるようね。ならば訊くけど、警察には頼まないの? 詩冬が連れ去るより、よっぽど真っ当な方法じゃない」
卯月が呆れ顔する。
「ヴァーーーーカ」
それが柚香への返事のようだ。
柚香がムッとする。
「な、何よっ」
海道も愉快そうに声を殺しながら笑っている。
「ユズカちゃん。さっきも言ったとおり、あそこの施設は政府との腐れ縁があってね。要するに、いまは警察なんかまるで役に立たないんだ」
「だったらどうしてその役目が詩冬なのよ。あの店長さんだっていいじゃない!」
柚香がカウンターの方に指を向ける。
ちょうどそのとき、皆の耳に足音が聞こえてきた。
やってきたのはマッチョ店長の華之江だ。
注文した炭焼アイス珈琲を盆に載せている。
「まー、ごめんなさいね。私、女性アレルギーなの。それで女の子を家に入れられないわけ。本当にごめんなさい」
華之江は甲高い声で詫びを入れた。
「……」
柚香は返す言葉が見つからなかった。
「ということだ、詩冬くん。頼んだよ」と海道。
卯月がそっぽを向く。
詩冬はそんな彼女の横顔を眺めながら海道に答える。
「了解です。まあ、任せてください。なんたってオレにゃ、頼りになる守護霊みたいなものが憑いてるんです」
ちらっと柚香に視線を送る。
しかし彼女から返事はない。
じっと頬杖をついているだけだ。
「協力ありがとうな、柚香」
拒否しなかった柚香に、詩冬は礼を述べた。
海道は嬉々とした表情で、椅子から立ちあがった。
「じゃあ決まりだね。必ず逃げ切ってくれ。ボクと華之江さんは応援しているよ。卯月ちゃん、せっかく生まれてきた命だ。大切にするんだぞ」
華之江が最後に言う。
「ユズカちゃん。あなたの秘密については、後日必ずちゃんと話すからね。でもいまはごめんなさい」
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