第30話 ドリー


 海道がコホンと咳払いする。


「さて、今回の本題はユズカちゃんのことではないんだ。ぜひとも詩冬くんに……それからユズカちゃんにも、この卯月ちゃんのことを話しておきたいんだ。覚えているかい? 卯月ちゃんは被験体として生まれてきた――そこまではすでに話していたよね」


 詩冬と柚香は無言でうなずいた。

 卯月が研究用のサンプルだったというのは、きのう初めて聞かされたことだ。

 詩冬がきょうここに来たのは、それについてもっと聞きたかったからだ。


 海道が続きを話す前に、卯月がぼそりと言った。


「そう。わたしは戸籍的にも生物学的にも、普通の人間とはいえない」


 詩冬にはあまりにも衝撃的だった。


「ちょっと待ってくれ。このポンコツな脳ミソがなかなか理解しようとしてくれねえよ。いったいどういうことだ。普通の人間じゃないってなんだよ。幽霊だとでも言うのか」


「幽霊? そんなのではない。人工的に作られたサンプルよ」


 卯月が無色透明な表情で答えた。

 人工的に作られた……そんな悲しげなことを淡々と口にしたのだ。


「まさかロボットだとか、アンドロイドだとでも言うのか」

「ヴァーーー―カ」


 年下の卯月が蔑んだ眼差しを送りつけている。


「じゃあ、なんだっていうんだよ」


 返答はない。詩冬を無視して珈琲に砂糖を入れる。


「よしっ、ここからはボクが説明しよう」


 代わりに海道が話してくれるらしい。


「詩冬くん。一般には父方のDNAと母方のDNAの二つが合わさって、赤ちゃんが生まれてくるよね?」


 詩冬でも知っていることだ。


「そうですけど?」

「だけど卯月ちゃんの場合は違う。四人のDNAから一つの生命を作ったんだ」

「四人のDNAから?」


 詩冬はきょとんとして首をかしげた。

 いまいちイメージが湧かない。


「もっとわかりやすく説明すると、そうだなあ……。お爺ちゃんとお婆ちゃんは、合わせて四人になるよね? 孫のDNAはその四人に由来している。でも普通は祖父母と孫の間に、父母というワン・クッションが入る。でも受精卵が形成されるまでに、そのワン・クッションを人工的に済まして生まれてきたのが卯月ちゃんなんだ」


 卯月は表情をいっさい変えずにいる。

 ただ退屈そうに窓の外を眺めていた。


 この事実を背負いながら毎日を過ごしている卯月のことを思うと、詩冬は心がチクチクと痛くなってきた。

 

「無茶苦茶な話だな」


 詩冬はそんな言葉を漏らし、ぼんやりと卯月の横顔を眺めた。

 海道が首肯する。


「そうだよ、無茶苦茶さ。あの施設においては、このことだってほんの一部に過ぎない。例えば一つのDNAから一つの生命を作ったこともあったんだ。いまでいうクローンだね」


「ああ、羊のドリーのパクリっていうことね」と柚香。


 一応、話を聞いていたようだ。

 海道は嬉しそうに首を振った。


「実はね、クローン誕生はドリーよりもずっと早く成功してたんだ。単に世間へ公表してなかっただけさ。人間のクローンだって、あそこの施設だけじゃない。世界にはボクが知っているだけで、既に十九体の人間のクローンが生まれている。この類の研究はね、倫理的な問題があって公表されないだけなのさ」


 詩冬はその話に憤りを覚えた。そんなひどい研究をするような連中は、人間というものをなんだと思っているのだろう。


 卯月が『戸籍的にも生物学的にも、普通の人間とはいえない』と言っていたが、それを頭の中で何度も反芻した。でもやはり納得なんてできるわけがなかった。

 ――人間のDNAから生まれてきたのなら、やっぱり卯月は普通の人間じゃないか。


 ここでふと気づいたことがあった。

 海道の話にひっかかりを覚えたのだ。


「さっき卯月サンは『戸籍的にも』って言ってましたけど、それじゃ、どうやって中学に通ってたんですか? 戸籍がないと入学時にいろいろ問題があるじゃないですか」


 海道がかぶりを振る。


「いいや、たいした問題はなかった。むしろ政府の方から学校へ通わせるように通知してきたんだ。あそこの施設は政府と腐れ縁のようなものがあって、その縁がまだ完全に切れてない。裏で政府の手が回ってきたわけだ」


「政府と腐れ縁のようなものねえ」 


「そうそう。桃園郷の玖波究院の前身が、国立生命研究局の研究試験所でね、実はちょうどこの場所に本局があったんだよ」


 すると柚香が冷やかにつぶやく。


「ずいぶんマヌケでどうしようもない本局だったのね。詩冬の住んでる町にあったんでしょ? それなのに霊的陽性の詩冬を、発見も捕獲もできなかったなんて」


「おい。まるでオレが捕まえられた方が良かったみたいな物言いだな」

「それは誤解よ。だって詩冬がいなかったらタカる相手がいないもん」

「お前なあ……」


 詩冬が柚香の炭焼アイス珈琲を奪う。


「水でも飲んでろ」


 するとテーブルの下から柚香の蹴りがきた。

 炭焼アイス珈琲はふたたび柚香のもとへ。


 柚香が詩冬を睨みつけている。


「それよりあたしの腕、いつまで握っているつもり? 詩冬っていやらしい」

「わっ」


 詩冬は慌てて柚香の腕を放した。

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