第27話 柚香の驚愕


 詩冬の正面に海道一登が立つ。


「キミがこのユズカちゃんを、ずっと支えてきてくれてたんだね?」


 その男の口から白い歯が見えた。

 詩冬の隣で柚香がTシャツを引っぱる。


「相手にしちゃ駄目。ぐずぐずなんてしてられない。早く逃げなくちゃ。だってここは例の国立生命研究局だった施設なのよ」


 ここがくだんの施設だったことに、詩冬は驚きもしなかった。

 なんとなく推測していたとおりだったからだ。


 とにかく言われずとも、すぐに逃げるつもりだった。

 こんなところに長居はしたくない。


「そうだな。とっとと立ち去ろうぜ」

「おいおい、ちょっと待ってくれ」


 海道一登は困った顔で二人を呼び止めた。


 しかし柚香は海道の話などまったく聞いていない。

 詩冬のTシャツから手を離す。


「あっ、でも詩冬。帰る前に犀鶴さんも連れ……」


 彼女は話の途中にもかかわらず、突然、口を開けたまま固まってしまった。

 少し間を置いたのち、改めて声を出す。



 きゃああああああああああああああああ



 その甲高い悲鳴は何事だろうか。

 まるで真夜中に“幽霊”でも見たかのような驚愕っぷりだ。


「ワシがどうかしたか」


 怪しい身なりの男が戸口に立っていた。

 驚き覚めやらぬ顔で柚香が尋ねる。


「い、いつの間に……?」

「ずっとここにおったわい。そんなに驚かんでもよかろう」


 いやいや、平静でいられるわけがない。ただでさえそんな不気味な外見なのだ。突然ひょっこり現れれば、柚香だろうと誰だろうと皆、ギョッとしてしまうさ。海道も目をパチクリさせているではないか。


 戸口の男が哄笑する。


「うぉっほっほっほ。誰もワシに気づかんようじゃったな。無理もない。畏れ多くもこのワシは、頂天立地たる……」


 話を遮るように詩冬が溜息をつく――。

 まったくもう、犀鶴さんは。


「はいはい、わかりました。迷僧なんですよね? とにかくオレたちはすぐここを出ますんで、犀鶴さんもいっしょに帰りましょう」


 すると海道は自分の耳を疑うように、詩冬の言葉を聞き返した。


「えっ、犀鶴さん――! キミ、確かにそう言ったね。まさかこの人が?」


 海道は犀鶴の顔をしげしげと見つめるのだった。

 何も答えない詩冬に、海道がもう一度尋ねる。


「ねえ、キミっ! 彼は本当に犀鶴さんなのか?」


 詩冬が無言の首肯で返す。


 海道は急に畏まった仕草を見せた。

 足をそろえ、背筋をピンと伸ばす。


「犀鶴さん……あなたにお会いできるとは。私は海道一登と申します。お目にかかれて光栄です。この施設で研究員をしております。あなたのことは、華之江さんからよく聞かされておりました」


「おお、華之江のう。ヤツは元気にしておるか?」


 犀鶴は昔を懐かしむように、遠い目で天井を見あげた。


「はい。元気なんてものではございません。とにかくとんでもない感じです」


 犀鶴が何度もうなずく。

 詩冬はじれったそうに横から口を挟んだ。


「犀鶴さん、何してるんですか! 早くここから出発しますよ」

「おぬしたちは先に帰っておれ。ワシはもう少しここに残って調べものをする」


 しかし犀鶴を置いて帰るわけにはいかない。

 何故ならここは国立生命研究局だった施設なのだ。

 詩冬がもう一度言う。


「いいですか、犀鶴さん? あなたは奥さんの件で、追われている身じゃないですか。ここは危険だと思います。早く立ち去らないと」


 犀鶴は首を横に振った。


「ワシなら問題ない」

「それじゃ先に行きますよ。本当にいいんですね?」

「構わぬ。そうしてくれ」


 柚香が詩冬の手を引く。一刻も早く立ち去りたいらしい。


「犀鶴さんもそう言ってるんだし。あたしたちは先に帰りましょ」

「でも……。まあ、しゃーないか」


 するとふたたび海道が詩冬を呼び止める。


「ああ、ちょっと待ってくれないか」

「誰が待つかってんだ。オレも柚香も被験体になんかならねーよ」

「卯月ちゃんには悪いけど、そのことはもういい。キミに重要な話があるんだ」

「重要な話?」

「そうだ。あした話ができないだろうか? キミの家は卯月ちゃんの住む町に近いのかな? それならばそっちの方で話そう」


 白衣のポケットからペンとメモ帳を取り出した。

 ささっとメモ帳に文字をしたため、そのページを切って詩冬に渡す。


 詩冬はとりあえず海道からメモを受け取った。

 そこには見慣れた固有名詞が並んでいた。

 詩冬の自宅と同じ町。そして……。


『……丁目○番○号 ○○ビル2階 「カフェ・ラナ」』


 マッチョ店長のいるカフェだった。


「あしたの正午、絶対に来てくれ。待ってるよ」


 ――そう言われてもなあ。

 詩冬は返事することもなく、柚香とともに部屋から出ていった。

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