第26話 鴨と葱と柚香のお腹


 男は澄ました顔で視線を室内に戻した。


「ん?」


 手術台のようなベッドに、その視線が止まる。瞬きをくり返した。

 かけていた真晶石の眼鏡を指先で浮かせ、少しだけ目から離す。


「これは……」と男は目を丸くした。


 どうやら柚香を発見してしまったようだ。

 不思議そうに柚香のもとへと近づいていく。

 途中でちらりと詩冬を一瞥した。


「ほう。室内にはキミだけでなく、もう一人お客さんがいたわけか……。ふむ、だいたいわかったぞ。これは『霊的陽性のキミ』と『キミにとり憑いた霊』の組み合わせ、といったところだね? すごいや。鴨が葱を背負ってねえ」


「誰が鴨と葱だ! そんな喩え方はやめろ。オレは人間だし、そいつだってヒトと同じ心を持ってるんだ」


 男は詩冬の言葉なんて耳に入っていないようすだ。

 顔をほころばせながら、ベッドに横たわる柚香を眺めている。

 室内の空気が怪しげに振動する中、彼女の方へと両手を伸ばした。


「さあ、まずは幽霊さんのお顔を拝見」

「やめろ!」


 詩冬の声など構わずに、柚香の顔を自分に向けるのだった。


「あっ!」


 大声をあげたかと思うと、そのまま固まってしまった。

 三十秒ほどの沈黙ののち、ようやくまた言葉を発した。


「ユ、ユズカちゃん? まさかっ、どうしてだ!」


 驚いたのはその男だけではなかった。

 男の発した言葉に、ベッドの柚香が驚愕している。

 もちろん詩冬だって同じだ。


 その男は柚香を知っていた? しかもユズカと呼んだ……。

 どういうことだ。

 

 落ち着きをとり戻した男は、再度柚香に声をかけるのだった。


「ユズカちゃんだね」


「……!?」ベッドの柚香はただ息を呑むばかり。


「ボクがわかるかい?」


 男は穏やかで柔らかな話し方を意識しているようだ。


 しかし柚香は左右に小さく首を振った。

 怯えながら警戒している。


「怖がらなくても大丈夫だよ。いつもボクはユズカちゃんの味方じゃないか。でもユズカちゃんが何故こんなところに……」


 詩冬がものすごい剣幕で、横から口を出す。


「おい、アンタはいったい何者なんだ!」

「ボクの名は海道一登。このユズカちゃんのことはよく知っている」


 詩冬はピンときた――。この海道一登という男は、ベッドに横たわる柚香のことを、犀鶴の妻『ユズカ』だと思い込んでいるのではないか?


 犀鶴の妻『ユズカ』は、国立研究局でサンプルにされていた。もしここが詩冬の推測どおり、その研究局と関係がある施設ならば、海道の話と噛み合ってくる。犀鶴の妻『ユズカ』の外見は、おそらく柚香にそっくりなのだろう。もちろん二人が同一人物の可能性もなくはないのだが……。


 少なくとも海道という男は『ユズカ』の味方だと言った。この男が柚香を『ユズカ』だと思い込んでいる限り、彼女に対して悪いようにはしないはずだ。


 詩冬は海道という人物をうまく利用できそうな気がしてきた。

 これはチャンスかもしれない。


「ならば教えてくれ。その幽霊の身元について。実はそいつ……記憶がないんだ」


 大きく反応したのは柚香だった。すっかり弱り切っているはずなのに、鬼のような形相で声を絞りだすように叫ぶ。


「詩冬! 人違いに決まってるでしょっ。こんな施設にあたしを知ってる人がいるわけないじゃない」


 霊体である柚香の声は、海道に聞こえていないようだ。

 しかし海道は詩冬の話に、目を大きく見開いていた。


「記憶がない? ふむ、そういうことだったか。記憶がねえ……」


 難しそうな顔で考え込む。

 そして何か納得したように、うなずくのだった。


「……そっか、そっか。そうなると、いまは何も教えられないな。教えるにはもう少しようすを見る必要がある。もちろんユズカちゃんのためだ。でもいずれはちゃんと話せると思うよ……」


 柚香に向けていた視線を、詩冬に戻す。


「……ちゃんと話すためには、キミの力も必要になるんだろうな」

「オレの力も必要? それってどういうことだ」

「だ・か・ら、いまは言えないんだ」と海道は首を左右に振った。



「うぅーーーーーっ」


 柚香の呻き声が、詩冬の耳に飛び込んできた。

 彼女は全身を震わせ、そして悶え、苦しそうに両手を胸に当てている。


「柚香っ」と詩冬。


 しかし返事はない。

 海道が柚香の顔をぐっと覗き込む。


「これはいけない」


 すぐさま部屋の隅へと移動し、壁にかけられたリモコンのスイッチを押した。

 途端に詩冬の耳鳴りが治まった。柚香の悶えも止まっていた。


「ユズカちゃん?」


 海道が心配そうに柚香のもとへと戻っていく。


 柚香は一人で上体を起こした。座った状態で不思議そうに周囲を見回し、最終的にその視線は海道の顔で止まった。


 海道がにっこり微笑むと、柚香はすぐに顔を横に向けた。

 ゆっくり宙に浮きあがる。飛べるほど回復したようだ。

 おそらく空気の揺れが治まったことに関係するのだろう。


「詩冬っ」


 ふわりと詩冬のもとへやってきた。スッキリしたような顔つきだった。

 先ほどまで苦しんでいたのがまるで嘘みたいだ。


 詩冬を椅子に固定していた縄を解く。


「サンキュー。これで自由になった。それより柚香はもう大丈夫なのか?」

「うん。あたし、もう大丈夫。詩冬……」


 柚香が俯く。何か言いたそうだ。


「どうしたんだ、柚香?」

「ううん、なんでもない」


 彼女のパジャマの腹部には染みができていた。

 大きなメスで霊液を採取されたときのものだろう。


「痛かっただろ?」


 柚香の腹部に優しく手を置く。


「きゃっ」


 強烈な喉輪のどわが詩冬に入った。

 詩冬の意識は一瞬、ぶっ飛んだ。


「ごめんなさい、つい反射的に……。あれっ、詩冬? ねえ、ちょっとしっかりして! 大丈夫?」


 この暴力女め。

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