第25話 ハイキング日和


 詩冬と柚香は部屋に残された。

 しばらく沈黙が続いた。


 二、三十分ほど経過してからドアが開いた。


 室内に入ってきたのは、白衣姿の人物だった。といっても卯月ではない。見た感じ三十歳前後の男だ。

 その男が室内を見回す。椅子に固定された詩冬に気づいたようだ。


「キミはこんなところで、何をやっているのかね?」


 詩冬は何も答えなかった。

 再度、男が辺りを見回す。


「ん? 耳鳴りがする……。この部屋、蛍光灯がつけっぱなしだったから入ってみたけど、ふうん、そういうことか。卯月ちゃんがここに帰ってきたんだね」


 詩冬が睨みつける。


 しかし男はまったく気にするようすもなく、白みがかったレンズの眼鏡を懐から取りだした。その眼鏡をかけ、詩冬に目を向ける。


「ほう、これは珍しい。キミは霊的陽性なのか。なるほど、そういうことだとは」


 男が詩冬の全身を嘗め回すように見ている。

 詩冬は気色悪さに、鳥肌が立った。


「おい、なんだっつうんだよ!」


 すると男が白い歯をこぼす。


「この眼鏡のレンズはね、真晶石という人工鉱物からできているんだ。このレンズを透して霊的陽性の人物を見ると、その全身を覆う霊波まで見えるんだよ」


 真晶石のレンズを透せば霊が見られる、ということならば卯月が言っていた。

 この男によれば、霊的陽性かどうかまでも識別できるらしい。


 詩冬はカフェ・ラナで卯月と出会ったときのことを思いだした――。

 なるほど。あのとき真晶石の眼鏡をかけていた卯月は、偶然にも霊的陽性のを見つけることになったのだ。それでオレをサンプルとして欲し、近づいてきたものだと考えられる。


 男はまだ柚香の存在に気づいていないようだ。ひたすら詩冬の顔を眺めている。


「やるなあ、卯月ちゃんは。よくキミを確保できたものだ。うん、卯月ちゃんは確かに器量いいしね。キミは卯月ちゃんの魅力に惹きつけられて、ここへ来てしまったのかな?」


 男は笑い声をあげ、何度も自分でうなずいた。


「そっか、そっか。卯月ちゃんはもう中学生だもんな。女の子はコワイな」

「ふざけるな!」


 詩冬は強引に椅子から立ちあがろうとした。

 両腕に力を入れ、両足で踏ん張る。


「ほう。すごい気力だ。ここから抜けられるといいね」


 男は感心したように詩冬を眺めている。


「くっそ、オレをどうするつもりなんだ!」


「それはボクも知らないなあ。キミはボクではなく卯月ちゃんの被験体だからね。でも被験体といったって、心配しなくていいと思うよ。卯月ちゃんならば、あまり悪いようにはしないだろうから。あの子はいい子なんだ」


 詩冬がきょとんとする。

 ――いい子だと?


「おい、これを見てみろっ。オレの右腕の関節部分だ」


 動けない詩冬は視線を自分の右手に送り、採血跡の場所を男に示そうとした。

 男が右腕の関節部分を覗き込む。


「ほう、綺麗に取れてるね。卯月ちゃんはどこで練習したんだろう。もしかして自分の腕で採血の練習したのかな」


 その話に詩冬は驚愕した。

 ――自分の腕で練習? いやいや、だからってやって許されるわけがねえ。


「勝手に他人の血を取っておいて、お前らのその言い方は何だ! まったくのマッド・サイエンティストだな」


 男は愉快そうにまた笑った。


「うん、ピッタリくる呼び方だ。いいと思うよ。マッド・サイエンティスト。ただね、ボクや卯月ちゃんは、それでもまだ良心的な方かもしれないよ。キミを人間として扱っているだけマシだと思う」


「これで人間として扱ってるつもりかよ!」


 まったく勝手すぎる。もしこれを人間扱いだとするのならば、他の研究者はいったいどんなことをやっているのだ。


 詩冬は犀鶴から聞いた恐ろしい施設の話を思いだした――。

 もしや、ここはあの研究局と何か関係があるのか?


「卯月ちゃんがキミを無理に被験体にしたことは、ボクからお詫びをする」

「詫びたいのなら、オレをこの椅子から解放しろ!」


 縄で縛られた状態でカタカタと椅子を揺らすと、男は指で顎の辺りを掻きながら天井を見あげた。


「椅子から解放する……勝手にそんなことしたら、卯月ちゃんに怒られちゃうからなあ。うーん、やっぱりボクにはできない。でも生命に関わることになれば、キミを助けると思うけどね」


「ははん、命だけは保障するってことか!」


「命だけってことは……。うーん、どうだろう。だけどここにはね、その命すら保障されない人間もいるんだよ」


 男は平然とした顔で、とんでもないことを言い放った。

 命も保障されない人間――その言葉に詩冬はぞっとした。


「どういうことだ? 卯月のヤツ、ヒトを殺すこともあるのか」


「おいおい、キミ。卯月ちゃんのことを『良心的な方』だと言ったばかりだぞ。この玖波究院では、卯月ちゃん自身が命の保障をされていないのさ」


 なに!?

 さっぱり意味がわからない。


 命の保障がされていないとはどういうことだ?

 男の話が本当ならば、卯月も施設の被害者ということになる。


 男は淡々とした口調で話を続けた。


「卯月ちゃんはね、もともと被験体として生まれてきたんだ。初めから実験用サンプルだったというわけだ」

「な、なんだって? 院長の姪じゃないのか。それ、おかしいだろ」


 男は詩冬の反応を楽しんでいるようすだ。


「そう、おかしいよね。ボクもおかしいと思う」

「だったらどうして卯月がサンプルなんだよ」

「うーん……それは企業秘密ってとこだな」


 男は何事もなかったように窓の外を眺めた。

 外の光が眩しいのか、目を少し細めるのだった。


「きょうはいい天気だね。ハイキング日和だ」

「くっそ、シカトかよ」

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