第23話 卯月と柚香


「おい、柚香?」


 柚香からの返事はない。

 彼女はあひる座りになり、両手で頭を抱えた。

 さらに「うっ」と声をあげ、上半身を前方に伏す。


「柚香っ」


 詩冬は柚香に駆け寄り、肩にそっと手を当てる。


「大丈夫か?」


 柚香は前かがみに伏したまま動かない。

 詩冬が卯月を顧みる。


「卯月さん、手に持っているスイッチは何?」

「心配なさらなくても大丈夫です。霊力を消耗させるものでも、魂をすり減らすものでもありません。もちろん人体にも害はありません」


 卯月はソファーから立ちあがった。

 冷やかな双眸がじっと柚香を見据えている。


 詩冬はハッとして声をあげた。

 卯月のやろうとしていることが、わかりかけてきたのだ。


「やめてくれ!」

「あら。詩冬さんは実体のない幽霊さんの味方をしますの?」

「卯月さん。この幽霊は……柚香は、実体は無くても心があるんだ」


 卯月は詩冬のもとへ歩み寄り、甘えるような声でねだった。


「お願い、詩冬さん。わたしに協力して」


 詩冬の手を握り締めてきた。

 小さな顔も近づいてくる。

 甘い香りが、詩冬の鼻孔をくすぐった。


「う、卯月さん……」


「どちらがタイプなの? 詩冬さんが選ぶのはどっち? 実体のない幽霊さんと、生身の人間のわ・た・し」



 つぶらな黒瞳が誘惑している。

 不安そうな瞬きが誘惑している。

 しっとりした髪の艶が誘惑している。

 弱々しい吐息が誘惑している。

 眩しすぎる嬌笑が誘惑している。



 手で髪を掻き流すと、耳元が露わになった。そこから卑怯なくらい妖艶なフェロモンを発している。再度、詩冬の手を握り締めてきた。


 詩冬の頭はクラクラし、胸はバクバクと音を立てている。

 もうどうしていいのか……。

 幽霊の柚香と生身の卯月さんの比較?


 そりゃ卯月さんの圧勝じゃないか。


 だって柚香のヤツ、ときどき飛び蹴りしてくるんだぜ。

 控え目な卯月さんなら、絶対そんなことはしない。


 ルックス的には……そりゃ、柚香のレベルの高さは認めるさ。だけどハーフ特有のエキゾチックな魅力というのだろうか。この個性美に打ち勝てる者はなかなかいないぞ。



 それから……。



 スタイル  ―― 柚香の負け。相手はまだ中学生だっていうのに。

 色気    ―― 柚香の完敗。おーい、柚香。中学生に負けてるぞ?

 礼儀正しさ ―― うん。もちろん柚香の負け。

 淑やかさ  ―― 絶対に柚香の負け。



 それから、えっと……。



 素直さ   ―― 柚香の負け。

 手を貸してやりたい度

       ―― これがいまの問題だ。もう少し考えてみるか。

 腹を割って話せる度

       ―― 柚香の勝ち?

 対等な関係度―― 柚香の勝ちかぁ。

 いっしょにいて疲れないのは

       ―― 柚香の勝……あれ?

 親近感   ―― 柚……なんだ?

 付き合いの長さ

       ―― おい……。



 ちょっと待った。



 なんだよ。途中から変だぞ、これ。

 オレ、実は柚香に勝たせたいなんて思ってないか?


 タイプなのは卯月さんに決まってるだろ。

 それなのに……。


 あー! くそっ。すべて、すべて、すべて柚香が悪い。柚香が放っておいても構わないヤツだったら、こんなモヤモヤしなくって済むんだ。


 冷静になろう。いまオレは何を考えている?

 そう……。オレは最低だったな。



「卯月さん。やっぱりオレ、どっちなんてない」


「はあ?」驚愕のあまり目をパチパチする卯月。「実体のない幽霊さんと、同レベルということですか……。わたし、そんなに魅力がなかったのですね」


「そ、そういうわけじゃ……」


 彼女は傷心したような表情を見せ、視線を床に落とした。


「わたし、詩冬さんとでしたら、いいお友達になれると思ってました。わたしはいつもずっと独りぼっちでした。学校でもそうです。もし詩冬さんまでも離れていってしまいましたら、わたし……」


 言葉を詰まらせた。

 俯いた顔が髪に隠れ、表情はもう確認できない。


 独りぼっち――その言葉が詩冬の耳に強く残った。


 いま視界の片隅に柚香の姿がある。


「卯月さん。独りぼっちなのは、そこのパジャマを着た幽霊だって同じさ。そいつの名前は柚香っていうんだ。ううん、違うな。ぜんぜん同じじゃない。だって卯月さんは独りぼっちじゃないからね。卯月さんにはこの病院のオーナーという身内がいる。だけど柚香は本当に独りぼっちなんだ。だからオレ、いつも近くにいられるような……あいつの信頼できる仲間になってやりたいんだ」


 柚香は床に伏した状態から、ほんの少しだけ顔をあげた。


「詩冬……」


「何よ。それ」と卯月も顔をあげた。


「卯月ちゃん。かなり自信があったみたいだったけど、結局のところ、詩冬はあなたの言いなりにはならなかったわね」


 と柚香が口元をほころばせる。

 しかしふたたび苦しそうに上体を伏すのだった。


 詩冬も不快な耳鳴りが止まらない。

 あのリモコンのスイッチのせいなのは間違いない。


 卯月は柚香を横目で睨み、「ちっ」と舌を打った。

 彼女の顔からは柔和な笑みがすっかり消えていた。


「あー、あ。肩こっちゃうわ」


 首を右に左にグキッと鳴らしながら交互にほぐす。


「えっ、卯月さん……?」

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