第22話 卯月の眼鏡


 詩冬は目を覚ました。


「あれっ、ここは?」


 寝ていたソファーから上体を起こした。辺りを見回す。


 部屋の奥に人がいた。その人物は後ろ向きに座っていたが、詩冬の方へとふり返る。卯月だった。白衣を羽織っている。


「卯月さん?」


 彼女は椅子から立ちあがり、近づいてきた。


 詩冬は右手関節部にかゆみを感じていた。

 そこに目をやると、ガーゼが貼られている。


 これ、どうしたんだ……?


 右手のガーゼを剥がしてみた。

 そこには小さな血の痕――注射の痕らしきものがあった。


 卯月が詩冬の正面に立ち、ペコッと頭をさげる。


「ごめんなさい」


 何のことで謝っているのか、詩冬にはわからない。ただ右腕の注射痕らしきものが気になった。もしかしてこの痕って、犯人は……。


「えっと、卯月さん?」


 卯月が詩冬の右腕を手に取る。


「ご協力、感謝します」

「感謝しますって……まさか、この血痕のこと?」


 卯月の顔が近づいてきた。

 艶めかしい双眸が詩冬を見据えている。


「詩冬さん。もう一つ協力してほしいことがありますの」


 詩冬の真横に腰をかけてきた。

 いい匂いがしてくるから困る。

 協力とはなんだろう。


 寄り添う小さな肩が、頭の中を混乱させる。

 詩冬は心を落ち着かせるべく、大きく深呼吸した――。


 理性を保て。冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ。よしっ!


 思いきって卯月に尋ねてみようとする。


「あのう……」

「少しの間だけ、こうしていてくださいますか?」


 横から卯月が顔をのぞいてきた。

 詩冬の肩と腕に、長い髪がかかる。


「へ? はいっ」


 詩冬はそれ以上、何も言えなくなった。

 腕に卯月の体がぴったりとくっついたまま時間が流れた。

 どのくらい時間が流れただろうか。


 カタカタ


「ん?」


 詩冬は顔をあげた。そして卯月も。


「ようやく来ましたわ」


 ノックもなく壁を抜けて入ってきたのは柚香だった。

 柚香と卯月の目が合う。


 柚香の視線は真横にスライドし、詩冬のところで止まった。


「詩冬、何やってるの?」


 柚香が部屋の中央に着地。目が据わっていた。のっしのっしと詩冬に近づいてくる。なにやら得体の知れぬ迫力があった。


 詩冬は普段、いわゆる『お化け』などを見たとしても、決して怖がることなどない。だがこのときばかりは違っていた。迫りくる霊体の威圧感で、背筋に寒さを覚えるのだった。


 卯月が耳元で囁く。


「詩冬さん、お願い。このままわたしの実験にご協力してくださらない?」


 ものをねだるような瞳。

 ちなみに卯月の口から『協力』という言葉が出てきたのは、これで三度目だ。


「えっと……協力って?」

「わたし、今度は幽霊の採血がしたいのです。正確には採血というより、霊液をほんのちょっともらうだけですけど」


 詩冬は意味がわからず、首をかしげる。


「はあ?」

「いますのでしょ? この部屋に幽霊さんが」


 卯月の視線は柚香に向いていた。

 だが普通の人に見えるはずがない。

 霊的陽性でなければ見えないはずだ。


「あのう、卯月さん。もしかしてあそこの霊が見えてるとか?」


 卯月は詩冬に視線を戻し、眼鏡の縁に指を当てて微笑んだ。


「この眼鏡です。真晶石という人工鉱物を素材としたレンズを使用しています。この特殊なレンズを透して見れば、霊感のまったくないわたしのような人間でも、霊を見ることが可能なのです。一般社会には未公表ですけど、その割に結構広まってますの」


「そ、それじゃあ……」


 詩冬が柚香を指差す。


 卯月はゆっくりと頷いた。

 そして宙に浮いた柚香を見あげ、うやうやしく会釈をする。


「幽霊さん、いらっしゃい。お待ちしておりましたのよ」


 彼女は白衣のポケットからリモコンを取りだし、そのスイッチを入れた。

 途端に室内の空気が振動し始めた。


 詩冬はつーんと響く耳鳴りに襲われた。状況がさっぱり理解できず、ただ辺りをキョロキョロするばかりだった。


 柚香が膝を床につける。


「おい、柚香?」

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