第21話 卯月のアイス珈琲
トイレで落ち着きをとり戻した詩冬は、ふたたび応接室へと入っていった。
「ごめん。お待たせ」
卯月があどけない笑顔を見せる。
眼鏡レンズの奥に見える大きな瞳が、詩冬にはとても可愛らしく思えた。
いい感じの雰囲気になりかかろうとしたところで、横から慌しく柚香が叫ぶ。
「詩冬!」
ところが同時に、卯月も甘えるように口を開くのだった。
「詩冬さん。わたし胸騒ぎするんです。お化けの気配のような。ちょっと怖い」
さらに寄ってきて、詩冬の胸に顔をうずめる。
詩冬は焦った。この胸の高鳴りを聞かれたらどうしようかと。
ふたたび柚香が叫ぶ。
「その小娘はねっ」
柚香が何に興奮しているかなど、詩冬は知る由もなかった。
ただ卯月が何かに怯えているのは明白だし、怯える対象については察しがつく。
卯月の両肩に優しく手を置いた。
「お化け?」
卯月がこくりとうなずく。
詩冬は柚香を睨みつけた。
両者の視線がぶつかり合う。
「何よ」と柚香。
詩冬は返答などせずに、卯月の耳元でささやいた。
「いるとしたらブッサイクで、気が強くて、ストーカーみたいな幽……」
まだ話し終わらないうちに、柚香のジャンピング平手打ちが飛んできた。
「もう知らない! 実験でも解剖でもされればいい、バカ詩冬ぉーーーっ」
柚香は部屋を飛びだしていった。
詩冬はヒリヒリと痛む左頬に手を当てた。
あの暴力女め!
「卯月さん、大丈夫だよ。お化けなんていないから」
「ホント?」
上目遣いで体を震わせる卯月に、ゆっくり首肯してやった。
二人はソファーに向き合って座った。
「そういえば詩冬さん。まだ殆どアイス珈琲飲んでいらっしゃらないみたいですけど、お口に合いませんでしたか? おさげしますね」
「待って待って。これから貰おうと思ってたんだ。いっただきまーす!」
詩冬は一気に飲み干した。
「うはぁー、やっぱり卯月さんのアイス珈琲はうめぇー」
「ありがとうございます、詩冬さん」
その感謝の言葉が本当は何を意味するのか、詩冬にわかるはずもなく、単にアイス珈琲を褒めたことだと勘違いしていた。
卯月が微笑んでいる。怪しげに目を細めて。
詩冬は目を擦った。急に睡魔が襲ってきたのだ。
これをハイキングの疲労によるものだと考えた。
ソファーの背もたれに体をあずけると、いつの間にか眠ってしまった。
◆ ◆ ◆
「アッタマくる。人がせっかく親切に……」
柚香がぶつぶつ言いながら、天井や壁を透り抜ける。
入っていった部屋は三階の保管書室だ。
「犀鶴さーん、どこぉー。まだいるのぉー?」
書棚に囲まれた保管書室をウロウロする。
犀鶴を見つけた。じっと書物を閲読している。
「犀鶴さん!」
背中から声をかけるが返事はない。
犀鶴の読んでいる書籍を覗きみる。
そこには『人体解剖』の文字があった。
ふと卯月の言葉を思い返した――実験。
やっぱりね。ここってあの国立の研究所と何か関係がありそう。
再度、犀鶴の耳元で大声をあげる。
「ねえ、教えて! この施設ってなんなの」
「ふむ」
犀鶴が空返事する。
熱心に書の文字を追うばかりだ。
「ねえ、聞いてる? ここってどこ?」
「ふむ」
「ふむ、じゃないっ」
柚香は犀鶴の後ろ襟を鷲掴みにし、そのまま強引に持ちあげた。
「あたしが訊いてるんだから、さっさと答えなさい!」
「いま大変な事実がわかったのじゃ。あとで聞かせてやるから待っておれ」
ふり返った犀鶴の目は真剣そのものだ。
柚香が犀鶴から手を放す。
ふたたび犀鶴は書に視線を注ぎ込むのだった。
どのくらい時間が経過しただろうか。
やがて柚香は待ちくたびれてきた。
「ねえ、犀鶴さん。まだぁー? この玖波究院ってまさか……」
犀鶴は一区切りついたのか、ようやく柚香に向いた。
「そうじゃ。ここは以前、国立生命研究局配下の研究試験所じゃった」
「思ったとおりね。ヤバい実験や研究をやってきたというアレだったとは」
犀鶴の眼光が鋭くなった。
「では正直に言おう。ユズカをここへ連れてくることに、実のところ躊躇もあったのじゃが、ショック療法で記憶が戻るかと思ってのう。そう。ここは以前、ユズカが被験体にされておったところじゃ」
柚香が溜息をつく。
「何がショック療法よ。バカ言わないで。あたしと犀鶴さんの奥さんは、まったくの別人だから! せっかくこんな僻地まで足を運んだのに、徒労だったわけね。だけどそんなことより、ここって現在でもあのヤバい研究を続けてるの?」
「おそらく続いておろう。じゃが、その話はもう少し待っておれ。まだ調べるべきことが多すぎる」
研究は続いているそうだ。
柚香は保管書室から飛びだした。さっきまで詩冬の言動に腹を立てていたことなど、もうどうでもよくなった。とにかく詩冬が危ない――。
ところが応接室に戻ってみると、すでに詩冬の姿はなかった。
卯月もいない。
「どこ? 詩冬……」
柚香が広い施設を探し回る。
建物内部を一部屋ずつ確認していくしかなかった。
「あたし、馬鹿だった。詩冬を一人残してくるべきじゃなかった」
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