第20話 ふたりきり


 詩冬が廊下に出ていき、卯月と柚香がそこに残された。

 彼の足音は次第に遠くなり、やがて応接室まで届かなくなった。


 柚香はふわりと宙に浮きながら、卯月のようすを眺めた。

 卯月がソファーに座る。かったるそうに足を前に放りだした。


「幽霊さん。こんなところまで、ついてきたの?」


 その一言に柚香はハッとした。

 卯月に霊は見えないのではなかったのか。


 澄まし顔でアイス珈琲のストローに口をつける卯月。

 一口二口と吸ったあと、視線はしっかり柚香に向けられた。


「『えっ、あたしが見えてるの!?』なんて顔してるわね」


 卯月に柚香の姿が見えているのは間違いない。

 柚香は卯月の態度に怒りが込みあげてきた。


「最初からあたしのことが見えてたわけ? あなた何を考えてるの? 詩冬をどうするつもり?」


「何言ってるのか、わかんないわ。実際、幽霊さんの姿は見えてるけど、口がパクパクと動いてるだけ。声までは聞こえてこないの」


「あたしの声が聞こえてない? あたしのことが見えてるのに」


 それならばと柚香はマーカーペンを取った。

 テーブル横のホワイトボードに書き始める。


『これなら、わかるでしょ』


 青字で書かれた。


「まあ、筆談ね」

『シトーのこと、どう思っているの? からかってるだけでしょ』


 最初の『シ』と『ト』の二文字は、ずいぶんと乱暴に書かれている。

 その次の横棒も無駄に長く、しかも少し曲がっていた。


「詩冬さんのこと? ああいう要領の悪そうな男、わたしのタイプじゃないわね」


 柚香は続けてホワイトボードに何かを書きだそうとするが、力が入りすぎてマーカーペンを落としてしまった。


「あらら、幽霊さん。どうなさいました?」


 卯月が愉快そうに笑う。


 バンッ


 柚香はホワイトボードを叩いた。

 唇を噛み締め、卯月を睨みつける。


「それがあなたの本性なのね。詩冬を一体どうするつもりよ!」

「おバカさん? 口をパクパクさせても聞こえない、って言ったじゃないの」


 柚香は卯月の言葉に、本気でカチンときたようだ。

 両手を伸ばして卯月に飛びかかる。


 しかし卯月は無防備な体勢のまま、アイス珈琲の融けた氷をすするのだった。


 柚香の指先が卯月に届いた……かと思われたが、その体を透り抜けてしまった。

 もう一度手を伸ばしてみるが、やはり卯月の体に触れることができない。


「あら、ごめんなさい。わたしの体質はちょっと変わっててね、残念なことに霊にはまったく触れることができないの。霊的陽性の詩冬さんとは真逆ね。極度の霊的陰性ってところかしら」


 物や人間の体を透り抜けてしまうのは、霊ならば基本的に当然のことだ。それでも霊が触れようと思いさえすれば、まったく触れられないわけでもない。

 実際、柚香はこれまで物やヒトの体に対し、触れたいという意思があれば、物理的接触など簡単にできていた。先ほども普通に青マーカーペンを手に取っていたのだ。


 しかしどうしたことか、この卯月だけは触れることができない。

 柚香は不可解に思いつつも、再度卯月に掴みかかろうと試みる。

 何度もくり返した。それでも無駄だった。

 いくら頑張っても、手が透り抜けてしまうのだ。


「なんなのよ。この子、どうして手で触れられないわけ? もし本当に詩冬と真逆の体質だったら、あたしのことが見えないはずじゃない」


 この矛盾をはらんだ状況に、頭が混乱してくる。

 それでも諦めるつもりはなかった。次の手を考える。


「どんなに頑張っても、あなたの体を抜けちゃうわけね? じゃ、これでどうかしら」


 応接室の真ん中に置かれたテーブルに、全神経を集中させた。


「んぐぐぐ」


 テーブルがカタカタと揺れ始める。

 そして数センチほど浮きあがった。



 ドスン



 テーブルは無情にもすぐに床へ落ちてしまった。柚香の口から溜め息が漏れる。離れた位置からテーブルを動かすことは、結局ほとんどできなかった。


「ふうん、ポルターガイスト? その変な霊力でテーブルを持ちあげて、わたしにぶつける気だったのかしら。でも見事に失敗ね」


「見てなさい!」


 今度は近くにあった折りたたみ椅子を、自らの両手で持ちあげる。

 すると卯月が手元の本を投げつけてきた。


「痛いっ」


 柚香は折りたたみ椅子から手を放した。

 顔面を押さえて、その場に屈み込む。


 卯月はそれを見て嘲笑した。


「普通ならば物をあなたに投げても、その体を透り抜けるだけで、当たることなんてないわね。でもあなたはさっき椅子を持ちあげていた。つまり霊体が物に対して物理的作用を起こしていたわけ。そんなときだからこそ、投げた本はあなたを透り抜けられずに、その顔に当たったの。勉強になった?」


 ふたたび柚香はマーカーペンをとった。

 ホワイトボードに文字を力強く書きなぐる。


『シトーをどうするつもり?』


「どうして詩冬さんをそんなに心配するのかなあ? 詩冬さんは、あなたのことなんか興味ないのにね。可哀想な幽霊さん」


『シトーを連れて帰る』


「でも詩冬さんは、あなたの言うこと聞くかしら。わたしの言うことなら聞いてくれるでしょうけど」

「なんですって」


 卯月が首を横にふる。


「聞こえませーん。実体の無い幽霊さんより、生身の女の子の方がいいに決まってるじゃない?」


『あんたみたいなガキンチョに 詩冬が本気になるワケないでしょ』


「そうかなぁー。わたしがね、顔を近づけただけであのバカ、息遣いが荒くなるのよ。面白ったら。少なくとも幽霊さんよりわたしの方を気に入ってるようね」


『別にシトーがあなたをどう思うかなんてカンケーない』


 ――そうよ、そんなことは関係ない!


「へぇー、そう?」


『シトーをどうするつもり? いい加減に答えなさい』


 卯月は勿体ぶるように、柚香から目を逸らす。組んだ手底を天井に向け、大きく伸びをした。


「それはねえ。詩冬さんにちょっとだけ、わたしの実験につき合ってほしいと思って。霊的陽性の人間サンプルを手に入れるのってね、凄いことなのよ」


『ヒトを何だと思ってるの!』


 柚香が柳眉を逆立てる。

 からかうように目を細める卯月。


「霊的陽性の人体の仕組み、あっちこっちいろいろ調べてみたいの」


『いやらしいわね ヘンタイ』


「わたしね、実験大好き!」



 ここで柚香がハッとする。

 犀鶴が言っていたことを思いだしたのだ。

 ――まさかここって、あの?


 もちろん国立生命研究局のことだ。

 でもここって国立……。


 柚香も犀鶴を連れてここへ来るとき、正門の『玖波究院』という看板を目にしていたのだ。


 ノックの音が聞こえた。

 詩冬が戻ってきたようだ。

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