第19話 ショートケーキの無料券


「わっ、わっ、わっ。なんでお前が!」


 パジャマ姿の霊は磨りガラスから体を完全に抜けだした。


「そんなに驚かないでよ。ビックリしてるのは、こっちなんだから」

「柚香。まさか、ついてきたのか!」


 すると柚香は腰に手を当て、柳眉を逆立てた。


「はあ? あたしをストーカーのように言うつもりかしら。冗談じゃないっ。別の用事があって来たのよ!」

「そっか。別の用事とはな。だったらよかった」


 大きな首肯が返ってきた。


「そうよ。ここに来れば、あたしの記憶が戻るかもしれないって。犀鶴さんがそう言うからいっしょに……」


 犀鶴と柚香――なんとも意外な組み合わせだった。もちろん二人が仲良くするのはすばらしいことだ。詩冬としても歓迎したい。


「……そんなことより」

「おいおい、なんだよ。ちょっと顔怖いぞ、柚香」


 詩冬が座ったままのけぞる。

 何を怒っているのだろう。


「怖いかなー。これがあたしの素の顔だけど」

「そ、そんなはず……ないですよ?」


 柚香は口をへの字に曲げながら、詩冬の向かいのソファーに座った。


「あたしね、嘘つかれるのって、すっごく嫌いなの」

「オレは嘘なんてついてない……と思うけど」


 実際、思い当たる節などなかった。


「ケーキの無料券渡すんじゃなかったの? たったそのために、どうしてわざわざこんな遠くまで来てるのよ」


 今朝の話のことらしい。


「それは柚香の早とちりだ。よーく思いだしてみてくれ。きょうオレは無料券について、一言も口にしてないからな。嘘じゃない」


 それでも柚香は目を剥いたままだ。

 殺気をぎんぎんに放っている。


「あたしの記憶をとり戻すの、協力するって言ったくせに。嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき」


 ホント、面倒臭いヤツだ。

 ああ、犀鶴さん。こんな奥さんとはさっさと別れた方がいいかもですよ。


「仕方ないだろ。きょうはもともと約束があったんだ」


 それでもまだ睨んでいる。


 詩冬は視線を逸らした。

 しばらく沈黙に包まれたが、それを破ったのは柚香だった。


「あら、足音ね?」


 詩冬にも足音が聞こえてきた。


 状況から考えると卯月のものに間違いない。

 そうなると詩冬としては、柚香に構っている暇などない。

 いまさらながら慌て始めた――。


 ああ、そうだった。卯月さんは叔父さんを連れてきて、オレを紹介するつもりなんだ。ヤベぇ、どうしよう。なんて挨拶をしたらいいんだ? こういうのって初めてだし……。ああ、困るよな、急にって。


 脂汗を垂れ流す詩冬の顔を、柚香が不思議そうに覗き込む。


「何を動揺してるのかしら」

「うるせ。動揺なんかしてねえし」


 廊下の足音が止まる。

 ノック音のあと、ドアが開いた。


「お待たせしました」


 卯月が入ってくる。しかし叔父の姿はなかった。

 あれ? 紹介とか挨拶とかするんじゃ……なかったのか。

 詩冬としては、ホッとしたようなガッカリしたような気分だった。


 卯月は両手で盆を持っている。運んできたのはアイス珈琲だった。「どうぞ」とアイス珈琲をテーブルに置き、そのまま詩冬の隣に座る。


 やはり柚香のことが見えていないようだ。


「わ、悪いね。ありがとう」

「どういたしまして」


 ぐっと寄ってくる。

 腕に卯月の肩がぴったりとくっついた。

 とてもいい匂いがする。


 もしかして……。

 誘ってるのか。誘ってるのか。誘ってるのか。オレを誘ってるのか。


「バッカみたい。顔、真っ赤にしちゃって」と柚香。もちろん声が聞こえているのは詩冬だけのはずだ。


「ねえ、詩冬さん」


 卯月が呼んだ。

 顔が近い。近すぎる。

 詩冬は息を呑み込んだ。


「はっ、はい?」


「きょうはこんな遠くまで、ありがとうございます。詩冬さんがいらっしゃってくれて、わたしは本当に嬉しいです」


「こちらこそ。桃園郷って自然が綺麗で、文句なしのハイキングコースだったし。ここに来れてよかったよ」


 詩冬が笑顔を送ると、卯月も微笑み返してきた。

 全身が震えるほどキュートだった。


 詩冬の心臓が高鳴る。もう冷静ではいられなくなった。卯月の顔がまともに見られない。いままで経験したことがないほど体もコチコチだ。


 あー、たまらん。

 落ち着きをとり戻すべく、ソファーから立ちあがる。


「詩冬さん?」

「あ、オレ、ちょっと……トイレ」

「それでしたら、応接を出て左に歩きますと、左手に男子用がございます」

「わかった。ありがとう」


 慌てるように応接室を飛びだした。

 トイレに入ると、冷水で何度も顔を洗うのだった。

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