第16話 夏休み初日


 いよいよ夏休み初日の朝がやってきた。

 たまらなく待ち遠しかった日だ。


 卯月との待ち合わせは、カフェ・ラナの最寄り駅。さらにはそこの改札前。

 朝食を早めに済ませて家を出発した。


 駅へ向かって歩いていたそのときだった――。


「しぃーとおっ」


 頭上から柚香の声が聞こえてきた。

 ふり仰いでみれば、柚香が浮かんでいた。きょうは何やら機嫌がよさそうだ。

 詩冬が片手をあげて応答する。


「オッス、犀鶴夫人」


 上方斜め四五度の角度から、柚香が両足を揃えて急降下。

 柚香のドロップキックが詩冬の顔面を直撃した。

 詩冬が転倒。


「あら、詩冬。ごめんなさ~い」


 謝罪の言葉に心はこもっていなかった。


「ゆ、柚香っ。加減くらいしろよな」


 何事もなかったように柚香が詩冬の顔を覗き込む。


「ねえ、詩冬はきょうから夏休みだったよね。こんなに朝早くどうしたの?」


 卯月とのハイキングについては、まだ何も話していなかった。

 話す必要なんてないと思っていたからだ。


「まあ、ちょっとな」


「詩冬があたしの記憶の手掛かりを探してくれること、本当の本当の本当に感謝してるのよ。でさ、夏休みになったんだから、じゅうぶんな時間があるでしょ。さっそく作戦会議をまた始めない?」


 柚香の顔からは屈託のない笑みが零れていた。


「作戦会議かぁ。よしっ、あしたやろうぜ」

「ん? きょうは」


 柚香が小首を傾げる。


「きょうはちょっとな。これから用事があってさ」

「用事?」

「そう。用事」

「……」


 眉根を寄せてじっと考え込む柚香。


「あー、そういうこと。あのハーフの子ね。卯月ちゃんっていうんだっけ? 例のケーキの無料券、届けに行くんだー」


 ここで詩冬が思いだす――。

 そっか。柚香はまだ知らなかったんだっけ。無料券ならとっくに手渡したし、その場ですぐに使っちゃったんだよな。


 汚物でも見るような視線を詩冬に注ぐ柚香。


「悪いけど笑えてくる。無料券を口実にしてまで会いにいくなんて。詩冬って可哀想。あの子にからかわれてるだけってこと、まったく気づいてないみたいね。そのデレ~ッとした顔、すっごくマヌケっぽい」


 詩冬がムッとする。


「なんとでも言ってろ」

「あたしは止めないけど。本当に会いに行くの?」

「余計なお世話だ」

「バッカねえー。勝手にすれば」


 柚香は空高く飛び、遥か彼方へと消えていった。



 ……  ……  ……  ……

 ……  ……  ……  ……



 駅に到着。


 待合わせの二十分前だが、もうそこには卯月の姿があった。彼女は白を基調とした涼しげな服装だ。つばの大きな帽子が可愛らしい。いつかの白っぽい眼鏡はかけていなかった。


「ごめん、オレの方が遅かったみたいで」

「わたしが早く着き過ぎてしまっただけですから」

「ところで卯月さんの故郷って、どこまでの切符を買えばいいのかな?」

「こちらです」


 卯月が伸ばした手には、往復の特急券と乗車券が握られていた。すでに買っておいたようだ。

 目的地は『桃園郷駅』と記載がある。初めて見る駅名だった。


「料金払うよ。いくら?」

「いいえ。わたしがお誘いしましたので、切符のご料金のことは気になさらないでください」

「それは悪いよ。払うから」


 しかし卯月は頑なに拒否するのだった。

 仕方なく詩冬が切符をそのまま受けとる。


「なんだか悪いな。女の子にタダでもらうなんて。ありが……」


 礼を言い終える直前だった。


「きぁーーーーーーーーーーー」


 突然、卯月が悲鳴をあげる。


「卯月さん?」


 視線の先は詩冬の背後のようだ。


 どうしたのだろうと、ふり返ってみる。

 ぎょろっとした大きな目が詩冬を見据えていた。


 ボサボサの長い髪に長い髭。薄汚い服装――。

 犀鶴だった。


「いっ、いつの間に……。なんのつもりですか、アンタは!」と詩冬。


 犀鶴は詩冬の手にしていた切符をサッと奪いとった。

 切符に目を通す。


「ふむ。桃園郷駅じゃな」

「アンタには関係ありません」


 詩冬は切符を犀鶴から奪い返した。

 まったく油断も隙もあったもんじゃない。


 犀鶴が怪しげな喜色を浮かべる。


「奇遇じゃな。ワシも桃園郷へ行くところじゃった」

「嘘つけ! ついて来んな」

「ワシは嘘などついておらん。おぬしたち、もしやデートか」


 詩冬を見あげ、爪先立ちで顔を寄せてきた。


「うるさいっ」

「遠くまでデートに行くのならば、保護者の同行も必要じゃろう。仕方ないのう。それならばワシが……」

「保護者の同行は要らねえし、そもそもあんたは保護者じゃねえし!」


 こめかみに青筋を立てながら怒鳴ると、犀鶴の大きな目がきらりと鋭く光るのだった。


「ほう。『保護者』の部分と『同行』の必要性は否定しておるが、『デート』については否定せんのか」

「わっ、黙れ! 帰れ」

「うおっ、ほっ、ほっ、ほっ。同行などという野暮なことはせん。冗談じゃ」


 犀鶴は奇妙な声で笑いながら去っていった。

 卯月が不思議そうな目で、詩冬を見あげる。


「さっきのお方、詩冬さんのお知り合いですか」

「まさか。あれは通りすがりの疫病神だ」

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