第11話 折りたたみ式携帯電話
テーブル越しの正面に座った少女のノートが、ちらりと詩冬の視界に映った。
玖波卯月
ノートの表紙にそんな手書きの記載があった。
きっと少女の名前だ。外国人のような外見だが、日本人だったか。
少女は詩冬の視線に気づいたらしい。
ノートを手にとり、『玖波卯月』と書かれた表紙を見せてきた。
「わたしは『くば・うづき』といいます。でも正式には『卯月・クリスティーナ・ガルシーア・玖波』です。父がスペイン人で母が日本人です。現在、日本の中学校に通ってます」
外国人っぽい顔立ちはハーフのためのようだ。
玖波卯月という少女が詩冬に尋ねる。
「お兄さんは何とおっしゃるんですか?」
「お、オレは詩冬……」
「詩冬さんとおっしゃるのですね。いいお名前ですわ」
「なんで下の名前で答えるのよ。バカじゃないの?」
そんなふうに毒づいたのは柚香だ。
やはり卯月という少女の耳には、いまの声も届いていないらしい。
「わぁ、美味しそうなケーキ」
卯月が柚香のケーキにスプーンをつけかける。
彼女の手は寸でのところで止まった。
「きゃっ! やだ、ごめんなさい。ついうっかり、他人様のケーキを食べてしまうところでした」
「いいよ、いいよ。構わないから食べて。待ち合わせの人はまだ来そうにないし、あとで注文し直すからさ」
卯月がペコリと頭をさげる。
「あのー。当然、お代はわたしが払いますので」
「別にいいって。そのくらい奢るさ」
柚香がフッと鼻で笑う。だが目は笑っていない。
「へえ、詩冬ってずいぶん優しかったのねえ」
すっかり悪人ヅラとなった柚香の隣には、天使のように微笑む卯月がいる。そんな無邪気な笑顔が見られるのならば、ショートケーキなんて安いものだ。
「本当ですか。ありがとうございます。それでは詩冬さん、お言葉に甘えさせていただきます」
卯月はケーキを美味しそうに食べ始めた。
それからちょっとした雑談になった。
卯月は詩冬のことをあれこれと訊いてきた。高校生活や家族のこと。それから休日の過ごし方など。肝心な『歴史の勉強を見てもらうこと』などは、もうすっかり忘却の彼方のようだ。
詩冬も卯月との時間が楽しくて、つい忘れてしまっていたことがある。そう。この場には柚香もいたのだ。ハッとそれを思いだし、背筋が凍りついた。
視界の片隅には不機嫌そうな柚香の顔があった。
かなり苛立っているようすだ。殺気すら感じてくる。
「あの、卯月さん。そろそろ友達が来る頃なんだ」
本当はもっと彼女とおしゃべりしていたかった。
「まあ、ごめんなさい。すっかり長居してしまって。詩冬さん、本当に楽しい時間を過ごさせていただきました。それから……」
卯月は『折りたたみ式の携帯電話』を取りだした。スマホではなかった。そしてノートのページ一枚を切りとり、さらに半分の大きさに切った。携帯電話の画面を見ながら何かを書きなぐると、その紙を差しだしてきた。記載されているのは電話番号とメールアドレスだった。
「……また会ってください」
卯月が詩冬に一礼をする。詩冬の手前から勘定書を抜きとり、素早くレジへと向かっていった。
彼女が店を出る。その直後、詩冬は炭焼きアイス珈琲の無料券があったことを思いだした。ショートケーキの代金も、本当は詩冬が払うはずだったのだが……。
バンっ
大きな音がした。柚香がテーブルを叩いたのだ。
詩冬の全身から汗が噴きだす。
「ゆ……柚香、ケーキ食うだろ? 注文し直すよ」
「いらない。食べたくない」
この世のものとは思えないほど恐ろしい形相だった。
ああ、幽霊なんだっけ。
「そんな怒らないでくれよ」
「怒ってない! あんたこそ、まさかモテたなんて勘違いしてないでしょうね?」
「別に勘違いなんてしてねえよ」
言われてみて、詩冬は思った。
あれ? もしかしてオレってモテてたのか。
てことは、さっきのって逆ナン!?
顔がにやけそうになるのを必死に堪えた。
「詩冬はからかわれたのよ。あんな中学生の小娘にデレデレしちゃってさ。みっともないったら」
「まさか妬いてるのか? 柚香だって、犀鶴さんっていう旦那さんがいるんだろ」
パチーーーーン
柚香の強烈な平手打ちをまともに食らった。一瞬、星が見えた。霊が見えることならば珍しくもないが、真っ昼間から星が見えたのは初めてだった。
「店、出る」
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