第10話 あの子の独り言


 詩冬は柚香とカフェ・ラナに入った。


「あらー、お客様。いらっしゃいませ。本日も有難うございます」


 どうやら詩冬はマッチョ店員に顔を覚えられてしまったらしい。


 ブロック毎にパーテーションで仕切られたテーブルについた。

 今回も店員には『あとでもう一人来るから』と告げ、炭焼きアイス珈琲を二つ頼んだ。それからショートケーキの一番安いヤツも。


 柚香が詩冬と向かい合わせに座る。


「ホントになんなのかしら! 犀鶴さんって」


 柚香の不機嫌はまだ直っていないようだが、とっとと始めることにした。もちろん柚香の記憶をとり戻すための作戦会議のことだ。


 しかしあれこれ考えても、なかなかいい案が浮かんでこない。

 そんなときマッチョ店員の甲高い声が聞こえた。


「いらっしゃいませ」


 新しい客がこの店に入ってきたらしい。

 しかも詩冬たちに近い席に座ったようだ。


 しばらくして炭焼きアイス珈琲が運ばれてきた。

 テーブルから店員が去った頃、ぶつぶつと独り言が耳に届いた。


 女の子の声だ。さっきの客に間違いない。

 声がする方の仕切り壁パーテーションに、柚香は目を向けた。


「周りに人がいるのに独り言だなんて、まるで詩冬みたいね」

「うるせ」


 小さな独り言が続く。

 勉強をしているらしい。科目は歴史のようだ。


 詩冬としては聞くつもりなどなかったが、聞こえてくるのだから仕方がない。


「えっとぉー、次の問題は八九四年? あ、わかった。『吐くよ八九四ウグイス』だからこれは簡単。平安京に都が移った年ね。でもちょっと汚らしい感じの語呂だわ。正解は……あ、間違ってた。遣唐使廃止の年だったかぁ」


 アホか。


「むむむ。遣唐使って……そっかぁ、ずばりスパルタクスの乱と関係あるのかもしれない。そうよ! あたし、あったまいい!」


 詩冬はさっと立ちあがり、思わず声の主に言ってやった。


「それケントウシ違いだ!」


 仕切り壁の上から顔を出すと、隣のブロックで勉強している少女と目が合ってしまった。


 彼女は外国人留学生のように思われる。西洋人っぽい顔つきに真っ白な肌。腰まで届きそうな長い黒髪。そして白みを帯びた眼鏡レンズの奥には、パッチリとした大きな瞳……どこか見覚えのある顔だった。


 その顔を思いだした。

 前回、このカフェを出ていったときにすれ違った少女だ。


 詩冬の顔を少女が見あげている。

 彼女が首をかしげたところで、詩冬はハッと我に返った。


「すいません。ちょっと聞こえちゃったもんで」


 すかさず詫びを入れ、仕切り壁から身を隠すように腰をおろした。


「バッカねー」


 柚香からの軽蔑の眼差しが痛かった。



 さて、どうしたことだろう?

 仕切り壁の向こうの少女が、詩冬のいるブロックへやってきたのだ。


「あのー」


 もしかして先ほどのクレームか。

 詩冬はストローを口から離した。


 外国人風の少女は、鉛筆と本とノート抱えながら、テーブルの横に立っている。


「お兄さん。お勉強、教えてくださいませんか」


「「お兄さん!?」」


 詩冬と柚香は同時に叫んだ。

 もちろん柚香の声は普通の人間には届かないだろうけど。


「わたし、歴史音痴なもので、その……お邪魔でしょうか」


 この展開はなんだ?


 しかしいまは柚香と作戦会議の真っ最中だ。

 少女からの依頼は断るしかない。


「ごめん。あとから人が来るんで」

「それではその人が来るまで、お勉強を見ていただけませんか」


 あどけない瞳が詩冬を見つめている。

 深々と頭をさげてきた。


「そ、そんな、頭なんかさげないで」

「わぁっ、嬉しいです! ありがとうございます。わたし、日本の歴史が苦手で本当に困っていました」


 ちょっと待った。そんな意味で言ったんじゃないんだが。


 詩冬がそれを言葉にするよりも早く、少女は詩冬の向かい席に回ってしまった。

 ちょうど柚香の座っている位置に腰をかける。


 少女と柚香の体が重なった。

 柚香のことが見えていない証拠だ。


 柚香はムッとした表情で、少女の座った場所から体を横にずらした。

 もちろん少女に悪気なんてない。霊を認識できないため仕方がないのだ。


 柚香が頬杖をつく。詩冬を見据える目つきには、底知れぬ威圧感があった。

 詩冬は恐ろしくなった。もはや柚香の顔が見られない。


 いまからでも相席を断らなくてはならない。

 少女のいる正面を向く。


 不安そうな少女の瞳。じっと詩冬を見つめている。断られることを察したのだろうか。心の準備ができているのならば、詩冬としても少しは気が楽だ。

 いまからきちんと断る――。


 しかし先に口を開いたのは少女だった。


「お兄さんの待っている人って、もしかして恋人さんですか?」

「ち、違います」


 何を急に……びっくりしたじゃないか。

 本当は誰も待っていないけど。


 少女はニコリと微笑んだ。


「恋人さん待ちでしたら、マズいですものね。よかったです」


 いや、よくない。

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