第8話 国立生命研究局
それから二日後のこと。土曜日の朝だった。
柚香が詩冬の部屋を訪ねてきた。もちろん玄関から入るなんてことはなく、窓ガラスを透り抜けてきたのだ。
「わっ!」
いきなり現れた柚香に、詩冬は驚愕の声をあげた。
広げていた雑誌をパッと背後に隠し、訊かれてもない説明を始めるのだった。
「こ、これは友達から借りた健全な雑誌で、でも別にオレが借りたかったわけではなくて、その……友達が『どうしても貸したい』とか言って、むっ、無理やり手渡してきたものなんだ。まったく興味なんかない。本当に」
詩冬の額から汗が垂れ落ちる。
「なに慌ててるの? ま、いいや。あのさ、手伝ってくれるでしょ?」
「お……おい。そんなことより、急に入ってくるなよな」
必死な詩冬の顔を見て、柚香は小首をかしげた。
「別にいいじゃない。ノックして部屋に入る霊なんて聞いたことないけど? そういえば、さっき慌てて隠したのって何?」
柚香が詩冬の後ろをのぞき込もうとしている。
「わっ、馬鹿。なんでもねえよ」
詩冬は体じゅうから汗がどっと噴きだした。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「そ、そんなことより手伝うって、なんの話だよ」
「あー、それはね」
柚香がベッドにちょこんと腰をかける。急に真顔になった。
「あたし、生前の記憶を
「おいおい、何をいまさら。それは前から目指してきたことだろ」
すると柚香が首を左右に振る。
やけにその表情には気合が入っていた。
「いままでとはぜんぜん違うの。今度は本気の本気ってこと! さっさと記憶をとり戻して、あたしがあんなオヤジの妻じゃないことを証明するの。さあ、詩冬。これからいっしょに作戦を練らなくちゃねっ」
これまで以上に熱かった。
その目つきも何やら攻撃的だ。
「まず詩冬。カフェ・ラナのアイス珈琲の無料券を持ってたでしょ? それであたしにアイス珈琲奢りなさい。作戦会議はあのカフェで行なうから」
「なんか勝手だな」
詩冬は不満の眼差しを送った。
しかし柚香はまったく気にしていないようだ。
「いいじゃない。あたし、これまでほとんど飲食してこなかったのよ。可哀想だとは思わないの?」
「幽霊だから仕方ないだろ。幽霊は飢えたりしないって、自分で言ってなかったっけ?」
「けど美味しいものは食べたいし、飲みたいの」
柚香のワガママには呆れてしまう。
しかしこのとき、背後に隠した雑誌のことを思いだした。
柚香をこの部屋から外へ連れだすチャンスではないか!
無料券で炭焼きアイス珈琲を奢ることに承諾した。
「わかった。そんじゃ外で待っててくれ、オレ、ちょっと着替えていくからさ」
詩冬は柚香が窓から出ていくのを確認し、雑誌を鞄に仕舞い込んだ。
着替えを簡単に済ませ、二階から階段をおりていく。
玄関のドアを開ける。
柚香が相変わらずのパジャマ姿で立っていた。
夏の強い陽射しが降り注ぐ。ときおり吹く乾いた風がとても気持ちいい。
柚香が顔をあげたときに髪が揺れた。まるで風になびいたように目に映った。
彼女の方から微風が甘い香りを運んできた。鼻孔がとても心地よかった。嗅細胞が大きな深呼吸を所望しているが、もちろんそんなことなどできるものか。
くそっ。コイツ、幽霊のくせに。しかも犀鶴さんの奥さんなんだよな……。
「ん? どうかしたの」
大きな黒瞳が詩冬の顔を確認する。
「べっ、別に」
詩冬はササッと歩きだした。
カフェ・ラナの看板が見えてきた。
しかし妙な気配を感じるが……。
なんだろう。この胸騒ぎ。
後ろを顧みた。柚香も同時にふり返る。
そこにいたのは犀鶴だった。
きゃあああああああああああああああ
犀鶴を視界に映した柚香は、今回もまた悲鳴をあげるのだった。
「急に現れたらビックリするじゃない。何よ。嫌がらせのつもり? あたし、アンタなんかとは無関係だからね」
「そんなに驚かんでくれぬか。当分の間はユズカのことを、そっとしておこうと決めたのじゃ。ユズカ自身でワシを思いだしてくれるまではな。それを伝えたかったのじゃ」
犀鶴の声にはまったく元気がない。
詩冬は犀鶴のことが不憫に思えてならなかった。
だから心に誓った――。
何がなんでも柚香に記憶を取り戻させる。
犀鶴のためにも。また柚香のためにも。
ところで。
「迷僧の犀鶴さん。そういえばナントカ研究局は見つかったんですか?」
彼は交番できちんと教えてもらえただろうか。
「ああ、国立生命研究局か。あれはもう無いそうじゃ」
「探してたのに残念でしたね」
「残念ではないのじゃが」
その口調は淡々としており、がっかりしたようすも見られない。
柚香が詩冬の袖をギュッと引っぱる。
「さっさと行きましょ」
「おう、そうだな」
犀鶴の目が鋭い。
詩冬はすぐに理解した――。
犀鶴が怒るのも無理はない。彼の妻を連れて歩くのだから。
そりゃ睨むだろうさ。
「おぬし」
「はいっ」
詩冬の背中がぴくりとする。
「ユズカの霊がすこぶる鮮明に見えておるとはのう」
「み、見えてますけど……」
誤解されたくなかった――。
信じてくれ。他人の奥さんなんかに、誰が手を出すものか!
まあ、柚香は顔だけ見れば、結構可愛いかもしれないけど……。
だからって、こんな気が強くて面倒臭いヤツ、タイプでもなんでもないから。
おっと失礼。他人の奥さんを悪く言うもんじゃないな。
犀鶴が両腕を組む。
「それならば国立生命研究局がなくなってよかった」
「えっ、よかったんですか」
探してたはずでは?
詩冬は首をかしげた。
「聞くがいい。国立生命研究局は、国立とはいえ恐ろしい組織じゃ。人間倫理から外れるようなタブーをくり返し行なってきたのじゃ」
「タブー?」
犀鶴がゆっくり首肯する。
「そうじゃ。哺乳動物への人脳移植、人間細胞の人為的遺伝子改造、遺伝子移植による生命体再生などをやっておった」
柚香が大きくアクビする。かなり退屈そうだ。
しかし犀鶴の話はエンジンがかかってきた。
「そこはのう、もともとは超能力や霊といったものを、科学で解明すべく作られた研究組織なのじゃ。良いか、おぬし。もし常にハッキリと霊が見えることを知られようものならば、たちまち捕らえられ、研究サンプルとされてしまったじゃろう。アイツらは人としての倫理観などは持ち合わせておらぬのでな。おぬしのようなサンプルをかき集め、頭蓋骨にドリルで穴を開け……(略)」
もし現在もその研究局が存続していたら、霊感の強い詩冬は研究サンプルの対象だったそうだ。ぞっとするような話に鳥肌が立った。嘘であると信じたかった。
「犀鶴さん、どこでそんな話を聞いたんですか? そんなのガセに決まってます」
「ワシはそこの研究員じゃった。しかしその非道なやり方に堪えられなくなり、妻を連れて研究局をとびだした。それで追っ手から逃れるため、チベットの山奥へと渡ったのじゃ」
犀鶴たち夫妻が異国の地へと旅立った理由はそれらしい。それほどおぞましい研究を続けていたら、気が狂いそうになっても不思議ではない。
詩冬は犀鶴の気持ちが痛いほどよくわかった。
ここで気づいたことがあった。
もしかして……。
「柚香……もとい奥さんも研究員だったんですか?」
「いいや、ユズカはサンプルの方じゃ」
――サンプル!?
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