第7話 ナンパ
カフェ・ラナは建物の二階にあった。店内はテーブル毎にパーテーションで仕切られており、座った客の顔が見えるのは、給仕する店員のみという内装だった。
詩冬たち三人が席につく。
炭焼アイス珈琲を三つ注文することになった。しかし店員に幽霊の柚香が見えるはずもないので、詩冬は「後からもう一人来る」といって誤魔化した。
さっきまでの白熱した議論はもうなくなっていた。
犀鶴も柚香もじっと口を閉じたままだ。
詩冬は軽くコホンと咳払いした。
「とりあえず……」と頭を掻きながら、犀鶴に尋ねてみる。「……ここにいるユズカさんがあなたの奥さんであるかどうかは別として、あなたの奥さんの話を聞かせてくれませんか?」
犀鶴から妻についての話を聞けば、柚香が生前の記憶をとり戻してくれるのではないか、という意図があった。
柚香には頑張って記憶をとり戻して欲しいと、詩冬は心から望んでいた。
「ふむ。事情があって話せぬことは多いのじゃが、話せる範囲では……」
犀鶴はいったん炭焼アイス珈琲をすすった。
このあと犀鶴が述べたことは、次の通りだった。
・犀鶴たち夫婦の姓は『久呂保』と書いて『くろほ』
・犀鶴の妻ユズカは、犀鶴以外に身内がいない
・妻ユズカは気立てが良く優しい女性だが、感情をあまり表には出さないタイプ
・妻ユズカは他人と話をするのが苦手
・見合いではなく恋愛結婚――しかも駆け落ち
・犀鶴たち夫婦は逃げるように異国へ旅立った
・その後、犀鶴は家族を幸せにする力を得ようと、妻ユズカを心配しながらも家に一人残し、一年ほど苦しい修行の旅に出かけた。それはすべて妻ユズカのためだった
とにかくユズカについて話す犀鶴の目は、実に生き生きとしていた。その熱い話しぶりは、心から妻のことを愛しているようだった。
その後の話として犀鶴が語るには、修行を終えて妻ユズカに会いに戻ったが、彼女は家から消えていたらしい。
犀鶴は絶望と悲しみで三日三晩泣き続けたという。
詩冬はしみじみ思った――。
柚香よ、こんなに想われていてお前は幸せ者だ。
柚香に穏やかな笑顔を向ける。
「どう、何か思いだしたか?」
柚香は俯きながら、首を左右に振った。
犀鶴の目がうつろになる。
「わがユズカよ」
犀鶴はそう呼びかけ、柚香の手を握り締めた。
「やめて!」
柚香が犀鶴の手を振り払う。
報われない犀鶴のようすに、詩冬は心を痛めた。
柚香にはもう少し時間が必要なのか。
およそ十分ほど沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのは柚香だった。
「もう出ましょ」
犀鶴が小さくうなずく。
詩冬たちは店を出ることにした。
立ちあがってレジに向かう。レジには大柄な男性店員がいた。ちょび髭を生やしたマッチョだ。歳は四十代半ばくらいか。
「千五十円になりますぅ」
体に似合わぬ甲高い声に、詩冬は寒気を覚えた。
とりあえず代金を支払い、犀鶴と柚香とともに自動ドアから出る。
ちょうどそのとき……。
詩冬たちとは入れ違いに、眼鏡をかけた少女が店内に入ってきた。
その少女は西洋人っぽい顔つきをしていた……というか西洋人なのだろう。腰まで届きそうな長い黒髪に真っ白な肌。うっすら曇ったように白みがかった眼鏡の奥には、パッチリとした大きな目。おそらく詩冬より若干年下と思われる顔立ち。
少女が顔をあげたところで、詩冬と目が合った。すると彼女は驚いたように、大きな目をさらに見開かせるのだった。
かけていた眼鏡をいったん外し、肉眼で詩冬の姿を確認。ふたたび眼鏡をかけ直す。
「失礼しました」
軽く頭をさげ、そそくさと店内へ入っていった。
詩冬が首をかしげる。
あの少女はなんだったのだろう。
外階段をおりきったところで、今度はマッチョ店員の甲高い声が聞こえてきた。
「お客様ぁー」
詩冬は身震いを起こした。
「な、何ですか?」
マッチョ店員は外階段を駆けおり、詩冬の前に立った。乙女のように恥ずかしげな瞳で微笑んでいる。
詩冬は思わず二歩後退してしまった。するとマッチョ店員は三歩前進し、『特別無料券』と記載された紙キレを差しだした。
「お客様。只今キャンペーンを行なっておりまして、次回、炭焼きアイス珈琲が無料となります」
「そ、それはどうも」
でもどうして彼は内股なんだ?
とりあえず詩冬は特別無料券を貰っておいた。
マッチョ店員の目が、ちらちらと犀鶴の顔をうかがっている。
そして体に似合わぬ柔らかい声で、犀鶴に「あの……」と声をかけた。
「そちらのシブーいオジ様。以前どこかでお会いしませんでしたか?」
店員は過度に長いまつ毛で、パチパチと瞬きを繰り返す。
詩冬はふと思った――。
もしかしてナンパか?
犀鶴が
「はて。そのような記憶はない」
残念ながら犀鶴には、その気がなかったらしい。
そもそも奥さんの前だ。
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