第6話 幸せな一歩へ <柚香の災難>


 詩冬の体がぶるっと震える。鳥肌が立った。

 怪しげな視線を感じる。誰かに見られているようだ。

 辺りをキョロキョロと辺りを見回した。


 ようすのおかしい詩冬に、柚香が気づく。


「詩冬、どうかしたの?」

「ちょっと寒気が……」


 きゃああああああああああああああああ!


 とつぜん絶叫したのは柚香だ。

 いったい彼女に何があったのだろう。


 詩冬が柚香の視線の先を確認する。そこは公園の中のようだ。滑り台のついたコンクリート山の横穴に、奇妙な人影を発見。公園で遊ぶ可愛い子供たちではない。一人のオッサンだ。


 乱れた髪に長い髭、そして奇抜な腰巻。ぎょろっとした目を詩冬に向けている。

 間違いない。きのう道を訊いてきた男だった。

 その男の怪しい風貌に、柚香が大声をあげたのも理解できる。


 なんと彼は詩冬に手招きを始めたではないか。

 柚香が耳元でささやく。


「きのうの人じゃない?」


 胡散臭そうに男を眺めている。


「ああ、そうみたいだな」

「本当に詩冬の知り合いとかじゃないの?」


 詩冬は声を大にして答える。


「当然だ! ただ道を訊かれただけだ」

「ねえ、ほら。こっちに歩いてくる」


 確かに詩冬たちの方に向かっているようにも思える。


 詩冬は祈った――。

 どうかこっちに来ないでくれ。


 そんな願いも虚しく、男の足は詩冬の前で止まるのだった。


「おぬし、きのうは世話になったのう」


 柚香が眉をひそめて、詩冬に確認する。


「世話したの?」


 詩冬は首を激しく振った。

 誤解なんてされたら堪ったもんじゃない。

 少なくとも、こっちとしては関わりたくないのだ。


「してない、してない。オレ、世話なんか一切してないから!」


 男が豪快に笑う。


「謙虚よのう」


 別に謙虚な気持ちで言ったわけではない。ただ関わりを認めたくなかったのだ。

 男が大声をあげる。


「ややっ」


 驚愕する彼の眼差しは、柚香に送られていた。

 もしかして霊である柚香が見えているのか。


 柚香は気味悪そうに顔を引きつらせている。

 彼女に代わって詩冬が尋ねてみた。


「オッサン、コイツが見えるんですか?」と柚香を指差す。


「コイツって何よ!」


 柚香は詩冬の指を払った。

 男は柚香の姿を眺めながら、感慨深そうにうなずいている。


「見えるとも。会いたかった。どれほど再会を願ってきたことか……」


 再会を願ってということは、すなわち柚香を知っていたことになる。


 詩冬は柚香に『記憶が戻るための協力』を約束していた。それで手掛かりになりそうなものを探すことになっていた。しかしこんなにも早く見知り越しの人物が現れるなんて、夢にも思っていなかったことだ。


 これで柚香の生前の記憶がいよいよ戻るかもしれない――目標達成が現実味を帯びてきた。


「すごいぞ! 柚香、よかったな。知り合いの登場だ!」


 詩冬は満面に笑みをたたえながら、柚香のこめかみを指先で小突いた。

 ところがまったく不可解なことに、彼女の顔には喜びの片鱗も見られなかった。


「どうしたんだよ、柚香? 記憶を戻す手掛かりがすぐそこにあるんだぞ」

「い、いえ。やっぱり記憶戻らない方がいいかも」


 詩冬には、まるで理解できない――。

 はあ? どうしちゃったんだ。記憶をとり戻したかったのではないのか。よくわからないヤツだ。女心とはやはり難しい。


 とりあえず男に確認する。


「ねえ、オッサン。再会ってことは、この柚香ユウカの知り合いってことですよね」


 男は眉間にシワを寄せた。


「これはユウカではない。ユズカと言うのじゃ。それにワシはオッサンではない。畏れ多くもこのワシは、高潔無比たる高僧にして名僧と呼ばれた犀鶴さいかくという名前がある」


 男の名前はともかく、柚香の正しい読み方が判明。

 詩冬はまるで自分のことのように喜んだ。


「よかったな、本当の名前がわかったぞ。ユズカだってさ」

「あ……あたしはユウカよ。人違いね」


 柚香は過剰なまでにかぶりを大きく振っている。


「オッサ……じゃなくて、えっと、なんとかムヒたる匂僧こうそうにして迷僧めいそうと呼ばれた犀鶴さん。あなたはコイツとどんな関係だったんです? コイツは犀鶴さんのなんなのですか?」


 犀鶴はもったいぶるようにゴホンと咳払いした。


「わが妻じゃ」


 きゃああああああああああああああああああ


 柚香の悲鳴は二度目となる。

 嬉しさのあまり意識が朦朧としてしまったのか、彼女は足をふらつかせ始めた。


「ユズカっ。よかったな、よかったな。旦那さんに会えて本当によかったな!」


 詩冬は大興奮だった。


 柚香も頭を抱えて……喜んで? なんだか変な喜び方だ。

 悲嘆しているようにも見えなくもない? いやいや、まさか。

 だって喜んでないわけがないじゃないか。きっと大喜びしているんだ!


「う……、う……、う……」


 体まで震わせ始めた。そんなに嬉しかったか。


 ギョロッとした犀鶴の目が、優しく柚香を包み込んでいる。

 柚香のうめき声は、いつの間にか泣き声に変わっていた。


 ようやくここで詩冬は、彼女のようすがおかしいことに気づき始めた。

 なんだか嬉し泣きでもなさそうだ。


「おい、ユズカ。どうした?」


 反応がない。


 犀鶴も困惑した顔をしている。

 そうだろう。当然だ。何故なら柚香は……。


 詩冬は犀鶴に彼女の現状を話すことにした。


「犀鶴さん。実は、コイツ……もとい奥さんは記憶を失っているんです。それで奥さんの記憶が戻るように、いろいろ手掛かりを探してたんですけど、なかなか見つからなくて……。こんな状況ですので、いきなり旦那さんが現れても、混乱するだけだと思います。あと、こんなことを言うのは心苦しいんですけど、いま目の前にいる奥さんは幽霊なんです」


「見ればわかる、幽霊くらい。じゃが、ユズカよ、ワシを思いだせぬのか……」


 犀鶴はガックリと肩を落とし、悲愴感を漂わせていた。

 しかしそれ以上に衝撃を受けているのは、なんといっても柚香のようだ。


「認めない。あたしはこの男の妻なんかじゃない! それにあたしの名はユウカ」


 耳と鼻先をピンク色に染めて涙を流している。


「あの。オッサ……犀鶴さん。そのボサボサの長い髪と髭、なんとかならないんですか。服装にしたって、もっときちんとしたのを身につけるべきです。旦那さんがそんな格好してたら、奥さんは嫌がるに決まってますよ」


 柚香が可哀想な気がしてきたので、詩冬は率直な気持ちを述べたのだった。


「誰が奥さんよっ!」


 柚香のグーのパンチが、詩冬の顔面をヒットした。


 いてててて。詩冬が手で顔面を押さえる。

 なんて理不尽な。こんなに柚香のことを気遣ってやってるのに。


 犀鶴の長く吐く息の音が聞こえた。

 その面持ちは実に寂しそうだった。


「ユズカは他人を外見で判断するような人間ではなかったのじゃが」

「するわ、あたし。外見で人を判断するっ。だから人違いよ。残念でしたね!」


 犀鶴が首を横に振る。


「いいや、おぬしはユズカじゃ。間違いない」

「認めない。絶対にありえない」


 このあと延々と人違いか否かで議論が続いた。


「あのさ。立ち話もなんだから、喫茶店でも入らないか? 柚香ユウカ、いや、ユズカさんも、さっきオレに何か奢れとか言ってたじゃん。仕方ないからきょうは奢るよ、珈琲くらい」


「誰がユズカさんよ!」

「落ち着いてくれ。そういえばすぐそこにカフェ・ラナとかいう店があったっけ」


 詩冬は柚香をなだめながら、二人をカフェ・ラナに連れていった。

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