第4話 彼女の小さな忘れ物
ふとデスクの上に目がいった。
少女の腕輪がそこに置かれたままだ。
「あの、おっちょこちょい!」
詩冬がさっと窓を開ける。窓の外を見回してみた。
ずっと遠くに柚香の姿がある。
大声で呼べば聞こえるだろうか? いいや、たとえ聞こえようとも叫ぶのはやめておいた方がいい。独り言が多いことを近所の人々に知られており、これ以上評判を落としたくないのだ。
詩冬は柚香の腕輪を掴み、急いで玄関から外へ出た。
柚香の見えた方に向かって走る。
「確か、この辺だったな」
周囲を見回した。しかしもう柚香の姿はなかった。
「しょうがない。アイツはどうせまたウチに来るし、そのときにでも渡そう」
手にしている柚香の腕輪をちらっと目にした。金属製のはずなのに重さがない。幽霊の持ち物だからか。
ギュッと腕輪を握り締め、柚香の顔を思いだしていた。
「待たれいっ」
とつぜん大声で呼びかけられ、詩冬は心臓が止まりそうなほど驚愕した。声のもとを確認したところで、さらにまた驚愕してしまうのだった。
そこに鳥肌が立つほど怪しい風貌の人物が立っている。
ギョロッとした大きな目が特徴的な、背の低い男だった。年齢は見た目に判断しにくく、二十代だと言われても四十代だと言われても、ぜんぜん違和感はない。だらしなく乱れた長い髪に、仙人のような長い髭。よれよれの白シャツに、見慣れない腰巻。
そんな格好したヤツは、往々にして『生きている人間』のはずがない。詩冬は一目でこの男を霊だと認識するのだった。それにしてもただ霊を見ただけで、これほど度肝を抜かれたのは数年ぶりのことだ。
だけどさあ……。まったく溜息が出るぜ。
柚香に続くきょう二人目の霊だ。通りがかりの見知らぬ霊から、こう絶えず話しかけられては、さすがに身が持たなくなる。全身から疲労感がどっと押し寄せてきた。
怪しい風貌の霊が、じっと詩冬を見据えている。
霊の話につき合うのも面倒だ。ここは気づかぬフリがいい。霊など見えない者のフリをしながら、その男の脇を通り過ぎようとした。
「待たれいっ」
聞こえない、聞こえないぞ。
そう。何も聞こえないフリが一番だ。
「これこれ。待たれと言うに」
どうやら気づかぬフリは、バレバレだったらしい。
仕方なく足を止め、この怪しい男に横目を送ってみた。
「やっと止まってくれたか、若者よ」
また霊の不幸話を聞かされると思うと、憂鬱な気持ちになってくる。
怪しい男はコホンと咳払いし、ふたたび口を開くのだった。
「道を尋ねたいのじゃが、教えてくれぬか」
えっ、道?
生前の不幸話を延々と聞かせたがる霊には、これまで何度も会ってきた。
この霊は違うのか? しかしまだ気を許すわけにはいかない。
「道なんて訊いてどうするつもりだ? 呪いをかけるとか、敵討ちのためとかだったら、関わりたくないぞ」
詩冬は無愛想にそう答えた。
「呪い? 敵討ち? おぬし、何を言っておる」
「何を言っておるって、アンタが何するつもりなんだ」
するとその男は怪訝そうに目を細めた。
「個人的な用事を、何故おぬしに話さなければならぬのじゃ?」
「個人的な用事って、てか……」
詩冬が男の顔を覗き込んで観察する。
男は迫力のあるギョロッとした大きな目で、睨み返してきた。
「アンタ、まさか本当に生きている?」
「当たり前じゃ。死人が喋るか!」
生きた人間だなんて思いもしなかった。絶対に霊だと確信していた。
やはり霊と人間の区別ができなくなったのだ。
これはすべて霊感度上昇の弊害に他ならない。
ちなみに……。
この男はさっき『死人が喋るか!』とか言ってたけど、いままで会ってきた霊の多くはガンガン話しかけてきたんだよな。本当に容赦なんかまるでない。柚香もそうだったし。
とりあえず詫びのつもりで男に軽く頭をさげた。
「何をごちゃごちゃ言っておる。面白いヤツじゃな、おぬしは」
「道って、どこを探しているんですか」
「急に敬語になりよったのう。まあよい。実は国立生命研究局を探しておっての、だいたいこの辺のはずじゃったが」
詩冬が首をかしげる。
国立生命研究局? この町のことはよく知っているつもりだ。もしそんな施設があれば、名前くらいは聞いているはずなのだが。
「聞いたことないっすねえ」
「馬鹿な。本当に知らぬのか?」
男がぐっと顔を寄せてくる。
その分、詩冬はさがった。
「初耳ですね。もし本当にこの辺にあるんでしたら、交番とかで尋ねたらどうなんです?」
男は指先で顎を掻いた。
「交番か。まあ、よかろう。交番はどこじゃったかな」
詩冬は交番までの行き方を教えた。
「では交番へ行ってみるとしよう。礼をいうぞ、若者よ」
「どういたしまして」
「おやっ」
「どうかしました?」
男が見ているのは、詩冬の手にした腕輪だった。
詩冬は腕輪をさり気なく背中に隠した。
「ふむ。まさかの。なんでもない」
「?」
「では、さらばじゃ」
男は交番の方へ向かって歩きだした。
しかし……。
「おい」
詩冬を顧みるのだった。
まだ何か用があるのか。一度に言ってほしいものだ。
「おぬし、奇妙よのう」
アンタに言われたくねえよ。
その言葉をそのまま彼に返してやりたかった。
「おぬし、これまたずいぶんと異様な雰囲気を持っておる。霊的なオーラというべきか……。たとえば霊とかが見えたりなどせぬか?」
「いいえ」
馬鹿正直に『見える』なんて答えられるわけがない。
「そうか。ならばよい」
男はそれ以上何も言わず、立ち去っていった。
いったいなんなんだ、あの男は?
「詩冬ぉー」
その声は柚香だ。
柚香が上空から舞い降りてきた。
彼女が口を開く前に言ってやった。
「これだろ?」
腕輪を差しだす。
「そう、これこれ。サンクス! あたし、うっかりしてた」
柚香はふたたび宙に高く浮き、ぐるっと三六〇度回りながら辺りを見渡す。
「もういなくなったみたいね。さっきの人は詩冬の知り合い?」
詩冬は誤解のないように全力で否定した。
「違う! 知り合いなんかじゃねえ。ただ道を訊かれただけだ」
「よかった。ヤバそうな雰囲気持ってたもん。ああいう怪しい人には、ぜったい関わっちゃ駄目よ」
住宅街をパジャマ着てウロウロしているお前も、じゅうぶん怪しいけどな。
「ん? 詩冬、何か言った?」
「いいや、何も」
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