第3話 柚子の香り


「すごいぞ。いい手掛かりになりそうじゃないか」


 少女が捲った右裾からでてきたのは、金属製の腕輪だった。

 二匹の蛇が絡み合った形に見える。


「これがいい手掛かりに?」

「ああ、そうさ」

「そうだといいんだけど」


 少女は腕輪をふたたび裾の中に仕舞おうとする。


「ちょっと待った」


 詩冬はそう言い、少女の右手をとった。


「きゃっ何よ」

「いいからじっとしててくれ」


 腕輪に触れてみる。少女の右手を持ちあげた。

 そしてその腕輪をさまざまな角度から観察する。


「なんか、いやらしい……」

「うるせ、手掛かり探してるんだろっ。見てるのは腕輪だけだ」

「それじゃ待って。この腕輪、外したことなかったんだけどね」


 少女が腕輪を右手から外す。

 詩冬は少女から腕輪を受けとった。


 ん? これって。


「おい、すごいぞ」


 腕輪の裏側に、五つの文字が刻み込まれていた。



『柚香 生きて』



 大発見だ。

 刻まれた文字を少女に見せる。


「この最初の二文字、きっとお前の名前だ! 手掛かりとしてポイント高いぞ」

「あたしの名前……」

「きっとそうだ。そうに決まってる」


 少女に笑顔で首肯した。


「いったい誰が、あたしに『生きて』って」

「ご両親じゃないのかな。あるいはつき合ってた人とか」


 少女は腕輪を固く握り締めた。


「どんな思いでこれを……。でも結局あたし死んじゃったのね」


 白い細指が五つの文字をなぞる。


「ユズ(柚)とカオリ(香)って書くのかぁ。するとあたしの名前って……」


 少女がその名を口にする前に、詩冬が満面の笑みで声に出す。


「ユズカか。いい名前じゃん」


「ユズカねえ……。だけどユカともユウカとも読めるでしょ? あたしユウカがいいな。よしっ、決めた。あたしユウカ。いまからユウカよ。あんたもわかった?」


 そんなにハッキリと宣言して大丈夫か。もし後になってユズカまたはユカだと判明したらどうするつもりだ?

 でも彼女がそれで喜んでいるのだから、まあ、いいとしようか。


「で、あんたは?」


 柚香は身を乗り出すようにして、詩冬の眼前にあるデスクに両手をついた。


「は?」


 詩冬がきょとんとする。

 じれったそうな顔の柚香。


「名前よ、あんたの。あんた誰?」

「オレの?」


 柚香が無言でうなずく。


「そういえば、まだ名乗ってなかったっけ。オレは更科詩冬」

「ふうん、シトーっていうんだー。ちょっと変わった名前ねえ」


 部屋の外から声が聞こえてきた。


「詩冬、お友達が来てたの?」


 ノックのあった直後、部屋の戸が開いた。

 詩冬の返事など待ってはくれなかった。


「あれ? 詩冬、誰としゃべってたの」


 若い女が部屋に入ってきた。盆にジュースとカステラを二つずつ乗せている。


「ノックまではいい。だけど戸を開けるのは、返事してからにしてくれよな」

「なーんだ。詩冬がカノジョでも連れてきたのかと思っちゃった。ジュースとカステラ、二人分持ってきてやったのに」


 詩冬がぷうっと膨れる。


「うるせ、イヤミか?」

「じゃあ、一つ返してもらおうっと」


 若い女は一人分のジュースとカステラを持って部屋から出ていった。

 詩冬が戸を閉める。


「さっきの人は? だいぶ若そうだから、お母さんのはずはないし」

「てっきり留守だと思ってたけど、いま帰ってきたところかな。あれは姉貴だ。うちは親父がいなくて、おふくろはドイツに駐在勤務しててさ。その間ずっと姉貴と二人暮しなんだ」


 詩冬の姉は今年の春に短大を卒業し、会社勤めを始めたばかりのOLだ。母の長期不在中、家事は詩冬と分担している。

 普段はもう少し遅い時間に帰ってくるのだが、この日は珍しく残業が無かったようだ。


「しっかりしてそうなお姉さんね」

「そうでもないぞ」


 柚香の視線はカステラに向いていた。


「それ食えよ。ジュースもいっしょに。一応、柚香も客だったしな」

「別にそういうつもりじゃなかったけど。でもせっかくだから貰っちゃおっかな」


 まずはジュースのグラスを手にとり、ストローで吸い始める。


「うーん。冷たくて美味しい」


 無邪気に至福の笑みを浮かべている。


「美味しいって感じるのか? 幽霊でも」


「うん、美味しい。幽霊になってから初めて物を口にしたのよ。これまでお腹が空いたり、喉が渇いたりとかはなかったけれど、やっぱり美味しいものは美味しい」


 グラスの中でジュースの水位が徐々にさがっていく。


「幽霊が飲んでもジュースって減るもんなんだな」

「当たり前じゃない」


 ふうん、そういうものか。


 柚香はほぼ氷だけが残ったグラスを床に置いた。すると今度はカステラをあっという間に平らげてしまった。空となった小皿にフォークを乗せると、意味ありげにニヤっと微笑んでみせるのだった。

 詩冬は嫌な予感しかしなかった。


「あのさ、詩冬。面白そうだから、あんたに憑依してあげるね。えっと……そう、守護霊。守護霊よ」


 おい、待て。


「ここに居着くつもりか?」


「別に丸一日、二十四時間ずっといるわけじゃないから安心して。美味しいものが食べたくなったときとかに、詩冬のようすを見にきてやるだけだから」


「要するにタカリたいんだろ。オレは遠慮する」


 柚香は再度ストローに口をつけた。グラスの中で溶けた氷の残りをちゅるちゅると吸い、詩冬の言葉を無視するかのごとく窓の景色に目をやった。


「きれいな空」

「シカトかよ」


 柚香はゆっくり腰をあげた。ふわりと飛び、窓枠に座る。


「他人とこんなにたくさん話ができるとは思わなかった」


 独り言のように呟いたのち、まっすぐ詩冬に指を向けた。


「いい? 約束よ。あたしが誰なのか、いっしょに探し当てるの。いきなりあんたの家にあがり込んだのは悪かったと思う。だからきょうはこの辺で」


 柚香は「じゃあ」と一言残すと、背中から窓ガラスを透り抜け、大空へと舞いあがった。


 遠くに消えつつある彼女の姿を、詩冬は窓ガラス越しに眺めた――。

 あのルックス……もしうちのクラスにいたら、野郎どもからは一番人気になってたかもな。まあ、どうでもいいことか。

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