2 密談②
「そもそもこの大陸は、魔族の領土であったのです。私は300年ていどしか生きていない若輩者ですので、あくまで伝え聞いた話となりますが……ベルゼビュート様は1000年の昔からこの暗黒大陸を統治しており、それから300年ほどが経過したのちに、人間たちが海の外からやってきたのだと伝えられています」
「ふむふむ。その頃から、人間たちは人魔の術式を体得していたのかな?」
「いえ。人間たちはきわめて無力な存在であり、大陸の片隅に生きることを懇願してきたのだそうです。決して魔族の領土は侵さず、つつましく生きていくことを誓うので、この暗黒大陸に住まわせてほしいと……ベルゼビュート様は寛大なお心でその願いを聞き届けましたが、人間たちはその温情を踏みにじることとなったのです」
冷たく、そして沈着な声で、ルイ=レヴァナントはそのように言いつのった。
「人間たちがいつ人魔の術式を体得したのか、それは不明です。ともあれ人間たちは、従順に従う芝居を続けながら、牙を研いでいたのでしょう。それが明らかにされたのは、およそ250年ほど前――人間たちの繁殖力に危惧を覚えられたベルゼビュート様が、当時の人間の王に子を生すことを差し控えるように命じたのです。しかし王は、自分こそがこの地の支配者であると宣言し、ベルゼビュート様のお言葉を退けることになりました」
「なるほど。でも、向こうの頼りは人魔の術式だけなんだろう? それだったら、自分の領地を守ることはできても、魔物の領地を侵すことはできないんじゃないのかな?」
「いえ。ひとたび人魔と化した人間は、領地の外に出ても術式が解けることはありません。人魔を人間に戻すことがかなうのは、魔術師のみであるのです。……そうして人間たちは大陸の各地に築いた城を中心として、少しずつ領地を広げ始めたのです」
「きひひ。だから俺たちも、こうやって一箇所に群れ集って生きていくしかなくなったってこったね。そうでもしなきゃ、人魔どもに各個撃破されて滅亡の道を辿ってたろうさ」
へらへらと笑いながら、ファー・ジャルグが補足説明をしてくれた。
その話を聞く限りでは、人間族が先に牙を剥いたように感じられる。僕は「うーん」と考え込むことになった。
「王都の農奴は30万人、市民だったら3万人って話だったよね。それじゃあ大陸全土における人間の総人口っていうのはどれぐらいなんだろう?」
「さ……正確な数はわかりかねますが、100万を下ることはないかと思われます」
「100万か。敵戦力って考えたら大した数だけど、大陸に住まう総人口って考えたら、ささやかな数なんじゃないかなあ? 僕なんて島国の生まれだけど、その100倍以上の人口だったはずだからね。それなのに、人間と魔物で領地争いをすることになっちゃったのかい?」
「この大陸は広大ですが、肥沃な領土には限りがあります。我々とて、強き力を保つには肉や酒が必要となるのですから、限りある肥沃な領土を人間たちに明け渡すことは許されないのです」
ルイ=レヴァナントは、至極ひややかな声で僕の意見を粉砕した。
「そして、人間の繁殖力をお考えください。人間を放置しておけば、数百年の間に驚くべき増殖を果たします。我々はいずれ遠からず、すべての領土を追われることとなるでしょう」
「時間が経てば経つほどに、こっちは不利になっていくって寸法だね。何せこっちで増えるのは、下級や中級の木っ端ばっかりなんだからさ!」
他人事のように笑いながら、ファー・ジャルグが口をはさんでくる。
それを無視して、ルイ=レヴァナントは言葉を重ねた。
「現段階で、我々の領土はさほど侵犯されていません。しかし、行く末には必ずや領土を追われることとなるのです。これでもまだ、人間は滅ぼすに値しないとお考えでしょうか?」
「うーん……だけどやっぱり、つつましく生きていくって約束を破ったのは人間の王であり、町や農園の人たちなんかはそれに従わされてるだけなんだよね? だったら、人間のすべてを滅ぼす必要はないんじゃないのかなあ」
考え考え、僕はそのように答えてみせた。
「それに、大陸中にはびこった100万人もの人間を皆殺しにするってのは、ちょっと現実味に欠ける気がしてしまうね」
「……とは、どういう意味でありましょう?」
「うん。そもそも厄介なのは、人魔の術式なんだよね? それさえなかったら、人間なんて魔族の敵ではないんだろう?」
「無論です。相手がただの人間であれば、たとえ万倍の数でも恐るるに値しません」
「だったらまずは、人魔の術式を無効化するすべを探るべきなんじゃないのかな。もしかしたら、王や魔術師を始末するだけで話は終わるかもしれないじゃないか」
ルイ=レヴァナントは長椅子に姿勢正しく座したまま、わずかに身じろぎした。
「……それは、かつて私がベルゼビュート様に提言した言葉となります」
「あ、そうなの? 当時の暗黒神は、それを聞き届けなかったのかな?」
「はい。人間族のごとき下等の存在に、小癪な策謀など不要であると、ベルゼビュート様は一蹴されました」
「脳筋だなあ。同胞の被害を減らすためなら、いくらでも策謀を練るべきだと思うけど」
僕は、痒くもない頭をかくことにした。
「それじゃあこれまでは、ずっと真正面から戦いを挑んできたわけだね。戦績は、どんなもんなんだろう?」
「おおよそは、辺境の領土を奪い合うための小競り合いに終始していますが……20年前の大きな戦いにおいて、ベルゼビュート様率いる魔獣兵団と蛇神兵団はグラフィス公爵領に総攻撃をかけて、それを陥落せしめました。この中央区域に残されるのは、王都ジェルドラド、ウィザーン公爵領、そしてデイフォロス公爵領のみとなります」
「ふむふむ。いちおう健闘はできているわけか」
「ただし、その戦いにおいて、兵団は3割の同胞を失うこととなりました。残る団員は、およそ700名ていどとなります」
僕は思わず、ずっこけそうになってしまった。
「ひとつの領地を陥落させるのに3割の戦死者って、被害甚大じゃないか! それともそのグラフィス公爵領ってのは、ひときわ大きな領地だったのかい?」
「いえ。規模としては、先日にベルゼビュート様が足を踏み入れたデイフォロス公爵領と同程度となりましょう」
「だったら、なおさらだ。そんな戦いを繰り返していたら、すぐにこっちが全滅してしまうよ」
しかも、繁殖力では人間のほうがまさるのである。こちらの戦力が回復する頃には、相手の戦力がそれ以上に増幅しているはずであった。
「論外だよ、論外。だいたい、3割の戦死者で生存者が700名ってことは、もともとの総数は1000名ていどだったってことだろう? それで、10万の農奴と1万の市民を抱える公爵領に真正面からぶつかるなんて、無謀の極みじゃないか」
「……それもまた、かつて私がベルゼビュート様に提言した言葉となります」
「うーん。先代の暗黒神は、猪突猛進を信条にしていたのかなあ」
すると、ファー・ジャルグが「きひひ」と笑い声をあげた。
「数日前までの暗黒神様は、破壊欲と色欲の権化だったねえ。100年前までの暗黒神様は、怠惰と食欲の権化だったけどさ」
僕は思わず、身を乗り出すことになった。
「それじゃあやっぱり、暗黒神は100年ごとに人格が入れ替わってるってことなんじゃないのかい? そんなあやふやな存在を君主として崇めるのは、あまりに危険なんじゃないかなあ?」
「とはいえ、あんたはこの世界で最強最悪の存在だからねえ。おいそれと、たてつくような魔物はいやしないさ。阿呆な魔神族を除けば、さ」
僕は深く、思い悩んだ。
しかしそれも、あまり長い時間のことではなかった。
「……僕にはべつだん、これまでの暗黒神のやり口に従う義理はない。僕が進むべき道は、ふたつにひとつみたいだね」
「ふうん? どんな道と、どんな道だい?」
「すべての責任を放棄して、何もしないで過ごすという道か――自分の納得がいく生き方を模索する、という道だね」
ファー・ジャルグは寝台の上で寝転ぶと、そのまま頬杖をついて自堕落な体勢を取った。
「なんだい、そりゃ。何もしないなら100年前までのあんただし、自分の好きにするんなら数日前までのあんただね」
「でも僕は、数日前までの暗黒神とは、別の人格なんだ。人間たちと正面から戦うつもりなんて、これっぽっちもないよ」
「では、どうされようというのです?」
ルイ=レヴァナントが冷たい瞳に圧力を込めて、僕を見据えてきた。
僕は相応の覚悟を固めつつ、それに応じてみせる。
「まずは、人魔の術式を無効化する手段を探る。それさえ解明できれば、人間たちと争う必要はなくなるんだろうからね」
「しかし、人間族を放置しておくことはかないません。あれだけの繁殖力を有する存在を放置しておけば、けっきょく我々の領土を侵犯されてしまいましょう」
「それはそれで、打開策を考えるよ。不毛の大地を開墾させたりすれば、どれだけ人間が増えても共存共栄を目指せるかもしれないじゃないか。とにかくまずは、武力を必要としない世界を目指したいところだね」
ルイ=レヴァナントの瞳は、いよいよ冷たく冴えわたっていった。
「しかし、そのようなことが可能なのでしょうか? 人魔の術式は、我々にとっても大いなる謎であるのです。いったいどのようにして、人魔の術式を無効化する手段を探ろうというのです?」
「それはまあ、やっぱり人間の領地に忍び込んで、あれこれ探るしかないんじゃないかな。この前は失敗しちゃったけど、手の甲の紋章さえ再現できれば、もうちょっと上手くやれると思うんだよね」
ルイ=レヴァナントはしばし黙考した末に、2本の指を立てた右手を顔の横まで持ち上げた。
すると、すっかり置物と化していた2名の従僕が、音もなく進み出てくる。黒いマントを纏った、10歳ぐらいの男女である。
「従僕よ、その手を我が君にさらすがいい」
ルイ=レヴァナントの命令に従って、ふたりはマントの下から右手を差しのべた。
その手の甲に刻まれていたのは――赤と青の、紋章である。
「ええ? どうして魔物に、人間の紋章が刻まれているんだい?」
「この者たちは、リビングデッドです。人間の屍骸が、魔物として生まれ変わったのです」
確かに彼らは、生者と思えぬような虚ろな眼差しをしていた。肌は青白いし、幼い顔には表情というものが欠落してしまっている。どちらもなかなか可愛らしい顔立ちをしているので、これが生ける屍というのは、ずいぶん痛ましい話であった。
「リビングデッドが生まれれば、すべて不死兵団へと送り届けられることとなります。しかしこの両名だけは、私の従僕という名目で召し抱えることが許されました。出自はどちらも、デイフォロス公爵領となります」
「うん。確かにこれは、僕があの場所で見た紋章と同じものだと思うよ」
少女の手には赤黒い紋章が、少年の手には深い青色の紋章が刻みつけられている。赤いほうが丸形、青いほうが菱形を基調にしているというのも、僕の記憶の通りであった。
そしてもう一点、これは初めての発見であるが――赤黒い紋章は焼き印であり、青い紋章は刺青であるようだった。
「変化の術式をわきまえた魔物であれば、この紋章を己の肉体に再現させることは可能でしょう。……ですが本当に、人間になりすまして人間の領土を探索しようというおつもりなのですか?」
「うん。いまのところ、それより有効な手段はないと考えているよ」
「そうですか。しかし、魔獣兵団長と蛇神兵団長が、そのような策謀を許すことはないでしょう」
従僕たちを下がらせながら、ルイ=レヴァナントはそのように言いたてた。
「あのおふたりはもともと猛々しい気性をしている上に、破壊欲の権化であられたベルゼビュート様にすっかり感化されているのです。人間族との共存共栄など、決して肯んじないかと思われます」
「それは困るなあ。僕ひとりで、こんな大仕事を成し遂げられるとは思えないからね」
「……そもそもベルゼビュート様は、どうして人間族との共存共栄などに固執されるのでしょう? 貴方はやはり、人間の味方でありたいという願いを胸に秘めておられるのでしょうか?」
ルイ=レヴァナントの瞳は、氷の刃物みたいに鋭い光をたたえている。
だから僕は、現時点における自分の素直な心情を伝えておくことにした。
「僕は無条件に、人間を救いたいと願っているわけではないよ。そりゃあもともとは人間として生きていた身なんだから、肩入れしたいっていう気持ちは否めないところだけど……でも、ここは僕が生まれ育った世界じゃない。君にも言われた通り、人間というものに救う価値があるかどうか、それをきちんと見極めたいんだ」
「……では、何故に人魔の術式を打ち砕こうというのです? 人魔の術式を失えば、人間たちから魔族にあらがうすべは失われるのですよ」
「それはだから、逆らうことのできない人たちを道具扱いする、現在の身分制度ってものが気に食わないからだよ」
ガラス玉のように虚ろな目をした農園の少女や男たちの姿を思い出しながら、僕はそのように答えてみせた。
「人魔の術式を打ち破って、人間の王を打倒できれば、それ以外の人たちは自分の意思で進むべき道を選べるはずだ。それでもなお魔族に逆らうのか、それとも魔族との共存共栄を望むのか、彼らには自分の意思でそれを選んでもらいたいんだよ」
僕は身を乗り出して、ルイ=レヴァナントの冷たい白皙を注視した。
「だからなんとか、兵団長たちを説得できないかなあ? いきなり共存共栄なんて話を持ち出すのは難しいとしても、人魔の術式を打ち砕くことを最優先に考えたい。魔族の陣営にとっても、これが最善の策だと思うんだよね」
ルイ=レヴァナントの無表情には、これっぽっちの動きも見られなかった。
しかし、その青ざめた唇からは、予想外の言葉が飛び出すことになった。
「我が君のご命令とあらば、なんなりと」
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