第2章 忌まわしき人間世界
1 出奔
しばらくの後、僕は無事に暗黒神の城から脱出を果たしていた。
魔物たちは、まだ大広間で祝宴を楽しんでいるのだろう。見張りらしい見張りもほとんど見かけることはなかったので、あちこち道に迷いつつ、誰にも見とがめられることはなかった。
城の出口は、険しい岩山の断崖にぽっかりと空いていた。
鍾乳洞の外も、世界は闇に包まれている。現在の刻限は、夜であったのだ。
しかし空には、たくさんの星がきらめいていた。
冷たい風が、そよそよと頬をなぶっていく。地底の奥深くでは味わうことのできなかった、外界の肌ざわりだ。それを心地好く感じながら、僕は岩山を下りることにした。
洞穴は断崖の途中に口を開けていたので、並の人間がそこを下りようとしたならば、フル装備の登山用品が必要であっただろう。しかし、16歳ていどの細っこい少年の外見でありながら、この義體というものには甚大なる力があふれかえっていた。というか、これこそが暗黒神の有する魔力というやつであるのだ。僕は粗末な革の靴を履いた足で、その断崖を難なく滑り降りることができた。
そうして山麓に到着すると、次に待ちかまえるは樹海である。
しかし僕は驚くほどに夜目がきいたので、かすかな月明かりだけでも周囲の様子を把握することができた。
背後を振り返ると、星空を背景にして岩山の影が黒く浮かびあがっている。
魔物たちは僕の脱走に気づくことなく、暗黒神の復活と1000歳の誕生日を祝ってくれているのだろう。
(悪いね、魔物のみんな。僕はどうしても、自分の気持ちを抑えられそうにないんだ)
そんな思いを胸に、僕は樹海へと足を踏み出した。
樹海には、数多くの獣が潜んでいる様子である。しかし、どのような獣であっても、魔物より恐ろしいということはないだろう。それに僕には獣の居場所を探知する能力も備わっていたので、安全なルートを突き進むことも容易であった。
どうしてこんな真似をしてまで、人間たちの様子を確認したいと思ったのか。
それは僕にも、いまひとつ判然としなかったのだが――ただ、この世の情勢を何も把握していない状態で、暗黒神だなどと祀りあげられるのは不本意なことだった。
(魔物たちは、人間を滅ぼそうとしているみたいだからな。この世の人間がどんな存在かもわからないうちから、そんなことに協力できるわけがないじゃないか)
そのような思いも、確かにある。
とにかく僕は、自分の進むべき道をはっきりさせたかったのだ。
かつての僕は、誰にも本心をさらせない人間だった。本心をさらせば、自分や他人を大きく傷つけることになる。そんな痛みを負ってまで本心をさらすということに、意味や価値を見出すことができなかったのだった。
その結果、僕は不幸でも幸福でもない無味乾燥な人生を送ることになった。だから僕は――あんな人生を繰り返すのは2度と御免だ、という心境に至っていたのかもしれなかった。
(いつかいきなり本物の暗黒神が目覚めて、僕の意識は木っ端微塵になっちゃうかもしれないんだもんな。だったら、他人の顔色をうかがっても意味なんかないさ)
要するに、僕は自暴自棄になっていたのだろうか。
それならそれで、かまいはしなかった。いきなり暗黒神などというものに生まれ変わることになり、自暴自棄にならないほうがおかしいではないか。妙に沈静化していた僕の心に、ようやく人間らしい情動というものが湧き上がってきたのだから、僕はそれを尊重したかった。
(だいたい暗黒神なんて、自分が生きのびるために僕の魂を生け贄にしたんだろうからな。僕の側に、遠慮をする理由なんてないぞ)
陰鬱な鍾乳洞から脱出したためか、あるいは魔物の群れから遠ざかったためか、僕はずいぶん気が大きくなっていた。
また、この肉体にあふれかえった力が、僕の気持ちを後押ししてくれているのだろう。僕はほとんど駆け足で樹海を進んでいたのだが、いつまで経っても息が切れることはなかった。
どうやらこの義體にはきちんと血肉が詰まっているらしく、心臓の鼓動もはっきりと感じられた。
鼻と口から入った空気が、咽喉を通り過ぎていく感覚も、まざまざと感じられる。下生えの草を踏みしめる感触も、頭や腕をかすめる枝葉の感触も、僕にとっては馴染み深い人間のそれであった。
それでいて、やはり僕は普通の人間ではないのだ。
気まぐれで息を止めてみても、それほど苦しいとは感じない。心臓のほうも一定のリズムを刻み続け、いっかな乱れる様子はなかった。
それに、暗がりに潜む獣たちを探知する、この感覚である。視覚でも聴覚でも嗅覚でもないこの感覚を、僕はすんなりと受け入れてしまっていた。
(この世界の人間たちに出くわしたら、自分が化け物だってことを悟られないように気をつけないとな)
そうして僕は、暗い樹海を何時間もひたすら走り続け――
ついに樹海の外に出ると同時に、この世界の朝日を浴びることになったのだった。
この世界の太陽も、僕が知る太陽と大きな違いはないようだ。
ただ、人跡も稀なる大自然の中にたたずんでいたためか――その姿は、ずいぶんと神々しく感じられた。
(暗黒神を名乗ってるくせに、太陽を不快に感じたりはしないみたいだな)
それどころか、僕はちょっとした多幸感に包まれてしまっていた。
僕は、まぎれもなく生きている。そんな実感が、僕の心と肉体を陶酔させるのだ。人間であった時代には、ついぞ感じたことのない感覚であった。
(いや、それとも……両親が生きていた頃は、これが普通のことだったんだろうか)
そんな思いが頭の片隅をよぎったが、それも朝日に溶かされるようにして霧散した。
僕は「よし」と気合を入れ直し、太陽を右手に見る格好で足を踏み出した。
樹海の外は、荒涼とした砂漠地帯である。そこにもあちこちに生き物の気配が散見できたので、それらはすべて回避することにした。
1日がかりで砂漠地帯を突破すると、次の朝にはまた樹海だ。
今度の樹海は、いっそう獣が多いように感じられる。それでも事前に迂回をすれば、危険な目にあうことはなかった。
後方からも、僕の脱走に気づいた魔物たちが追ってくる気配はない。
それに、ずいぶん長い時間を駆け通しであるはずだが、疲労も空腹感も感じることはなかった。
そうして次の朝には、無事に樹海を突破して、僕はようやく人里を見出すことになった。
「うわ……ずいぶん立派な場所に辿り着いちゃったな」
まだ遠景であるが、そこには堅牢なる城壁に囲まれた城の姿が垣間見えていた。
やはり、僕の暮らしていた世界とは文明の度合いや方向性が異なっているのだろう。石造りで、ドイツの古城を思わせるたたずまいである。
そしてその城壁の周囲には、広大なる田園地帯が広がっている様子であった。
(こんな無防備で、魔物に田畑を荒らされちゃったりはしないのかな)
僕はひとりで小首を傾げつつ、人並みの歩調で人里に近づいていった。
そうして近づくにつれ、何か得体の知れない感覚が強まってくる。肌がぴりぴりと電気を帯びるような、きわめて不快な感覚である。
(これは……僕の中の魔力に反応しているのか?)
確たる理由もなく、僕はそのように察していた。
まばらに生えのびた樹木に身を潜めつつ、さらに田園へと近づいていくと、不快な感覚が耐え難いまでに強まった。
(なるほど。なんらかの手段で、魔物を近づけないようにしているのか)
田園の目の前にまで到着すると、僕にも不快な感覚の正体が見て取れた。
遠方にそそりたつ城を中心にして、その地は何か不可思議な磁場にすっぽり包み込まれていたのだ。
あえて視覚的に表現するならば、淡い紫色をした半透明のお椀が、人間の領地にかぶせられているような格好である。それが退魔の障壁となって、僕の侵入を拒絶していたのだった。
(僕が魔力を振り絞ったら、簡単に壊せそうな気もするんだけど……それじゃあ、まずいよな)
ということで、僕は別なる手段を講じることにした。
この障壁は魔力に反応しているようであるので、自分の魔力を隠すことにしたのだ。
これまた言葉では説明し難い作業であるのだが、要は、皮膚の上を走る不快な感覚が消えるように、体内の力を調節するような感覚であった。
全身にあふれかえった魔力をみぞおちの辺りに集約させ、目くらましの皮膜をかぶせる。そうすると、不快な感覚は綺麗に消え失せた。
(これでよし、と。……だけどこれだと、魔力もいっさい使えなくなっちゃうんだな)
まあ、僕は暗黒神であることを隠し、人間たちの生活を探ろうとしているのだ。せいぜいつつましく、人間のふりをするしかなかった。
(とりあえず、人目を避けながら城のほうに近づけるだけ近づいてみよう)
田園地帯ではすでに多くの人々が働いており、それが絵画のような点景を作っている。樹木の陰に隠れていた僕は、身を屈めて手近な丸太小屋に近づくことにした。
魔力を封印しているために、生き物の気配を探知する能力も消えてしまっている。僕は自分の目と耳だけを頼りにして、さらに歩を進めることになった。
田園は見通しがよすぎるので、右手側の緑の深いほうを目指す。どうやらそちらは、果樹園であるようだった。梢には、リンゴか何かの赤い果実が実っている。
こちらは収獲の作業も為されていないようで、僕は一気に距離を稼ぐことができた。
しかし、どこかに慢心があったのだろうか。果樹園の真ん中あたりにまで到着したところで、僕はひとりの女の子と真正面から出くわしてしまった。
赤い果実が山積みにされた草籠を手に、その女の子はぼんやりと首を傾げる。
「こんなところで、何をやってるの……? 男の子は、みんな畑の手伝いでしょう……?」
それは、10歳かそこらの幼い女の子であった。
ずいぶんと痩せており、黄色みがかった髪の毛はトウモロコシのひげみたいな質感をしている。着ているものは僕以上に粗末な布の服であったし、見るからに栄養の行き届いていなそうな外見であった。
「いや、僕は……ちょっと用事を言いつけられてね」
僕はなけなしの社交性をかき集めて、にっこりと微笑んでみせた。
しかし女の子は、無表情である。敵意などは感じられないが、泥人形のように生気の希薄な面差しであった。
(なんだろう。この世界の農民は、あんまり豊かな生活を送っていないのかな)
僕がそのように考えたとき、女の子の手から草籠が落ちた。
無表情であったその顔に、凄まじいばかりの恐怖の形相が浮かべられていく。
「あなた……その手……」
女の子の小さな手が、細かく震えながら僕を指さしてきた。
その手の甲に、何か赤黒い色彩が見える。丸い輪っかを基調にした、何かの紋様であるようだった。
「どうして……手の甲に、何の紋章も刻まれていないの……?」
「も、紋章? いや、僕は――」
僕の声は、女の子の悲鳴にかき消されることになった。
「魔物だよ! 魔物が入り込んでる! 誰か、助けてえっ!」
その内容を聞き終える前に、僕は逃走していた。
人間たちはそのような方法で、仲間と魔物の区別をつけていたのだ。
それを知ることが、僕が本日最初に得た成果であるようだった。
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