4 お召し替え
僕が祝宴の場を抜け出せたのは、それからずいぶんな時間が経ってからのことだった。
疲れているので休みたいという言葉を10回や20回ぐらい繰り返した末、ようやく寝室に引っ込むことを許されたのだ。大広間の魔物たちは、このまま夜通し馬鹿騒ぎを続けそうな様子であった。
(ていうか、こんな場所じゃ朝か夜かもわからないけどな)
暗黒神の城――通称、暗黒城は、地底の鍾乳洞に築かれていたのだ。どこに出向いても壁や天井は黒みがかった岩盤で、あちこちに設えられた燭台の火によってぼんやりと照らし出されている。その陰鬱なる環境が、僕の心をいっそう打ち沈ませているのかもしれなかった。
(僕はこの先、いったいどうなるんだろう。暗黒神として100年を生きていくことになるのか……それとも、本物の暗黒神がひょっこり目覚めて、僕の人格やら意識やらを消滅させてしまうんだろうか)
暗黒神の寝室に案内された僕は、巨大な寝台に甲冑の肉体を横たえて、益体もない想念にひたるばかりであった。
この部屋は、いかにも君主のプライベートルームらしく、ごてごてと飾りつけられている。足もとは足首までうずまるような毛足の長い絨毯が敷きつめられており、壁には古びた剣や斧、それに怪物の彫像や黄金色の壺や正体の知れない獣の頭蓋骨など、悪趣味な飾り物がずらりと陳列されていた。
(何にせよ、本来の世界に戻ることはできなそうだよな。……まあ、それはそれでかまわないけど)
残念ながらというべきなのかどうなのか、僕は元の世界に対する執着というものを抱いていなかった。自分の名前すら思い出せないような状態であるのに、僕は自分がそれほど満ち足りた人生を送っていなかったことを記憶に留めていたのだった。
理由は、単純明快である。幼い頃に両親を失って以来、僕は本心をさらせない人間に育ってしまったのだ。
両親の代わりに僕を育ててくれた叔父夫婦は、善良でも悪辣でもなかった。僕のような厄介者を引き取ってくれたのだから親切な人間ではあるのだろうが、彼らの親切はそこで完結していた。母屋の裏の離れを与えられた僕は、ほとんど単身で生活をしており、仕事で忙しい叔父夫婦とは口をきくのも年に数回という有り様だったのだ。
思うに、彼らの親切は義務感と体面によって構築されていたのだろう。むろん、無償で衣食住を与えられていたのだから、僕の側に文句をつける理由は存在しない。ただ、小学生の頃から大晦日や正月や自分の誕生日を独りきりで過ごしているうちに、僕は誰にも本心をさらせない人間に育ってしまったというだけのことであった。
そんな人間であったので、学校のクラスメートとも上っ面の関係しか築くことはできなかった。高校2年生まで齢を重ねても、正しい意味で友人と呼べるような存在はひとりとして作ることができなかったのだ。表面上は明るく振る舞い、周囲に合わせて笑ったり怒ったり悲しんだりしていても、僕の心は空虚なままだった。
不幸ではないが幸福でもない、無味乾燥な人生である。
死にたいと願ったことはなかったが、それでは生きたいと願ったことはあったのかどうか――それも、あやしいところであった。
(だからまあ、死ぬなら死ぬでかまわないんだけど……いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているようなこの状況は、御免だなあ)
さりとて、自害する勇気は絞り出せそうにない。
というか、この肉体で自害など可能なのであろうか。甲冑の肉体では、首吊りも練炭も投身も入水もあまり有効とは思えなかった。
と、僕の想念がいよいよ暗澹たる方向に傾いてしまったとき――
どこからともなく、「ベルゼビュート様……」という囁き声が聞こえてきた。
慌てふためいて身を起こすと、そこには鱗を持つ美しい女性が立ち尽くしていた。
「ラ、ラミアか。寝室には誰も入ってこないように申しつけておいたはずだけど……」
「あら、そうなの……それは失礼したわね……」
ラミアは妖しく微笑みながら、寝台の隅に腰を下ろした。
僕はいくぶん心を乱しながら、寝台の上で後ずさる。
ラミアは、美しい女性である。それに、容姿は端麗だがやんちゃで子供っぽいハーピィと比べると、格段に大人びていて、完成されている。どうせ外見通りの年齢ではないのだろうが、人間でいうと20歳前後のおねえさまであろう。
それに、身体のあちこちが鱗に覆われているとはいえ、いちおう人間らしい形状を留めている。それも、非の打ちどころがないプロポーションとあふれかえるような色気を兼ね備えた肢体である。また、その身に纏っているのはギリシア神話の女神様みたいな白い薄物ひとつであり、背徳的な肉体の曲線がほとんどあらわにされてしまっていたのだった。
「ベルゼビュート様がこんな早い時間に引きこもってしまったから、心配になってしまったのよ……本当に罪な御方ねえ……」
と、ラミアは寝台に腰を下ろしたまま、じわりと僕のほうに近づいてきた。
まさに、獲物ににじり寄る蛇のごとき風情である。
「ぼ、僕の状況は説明しただろう? ひとりでゆっくり頭を整理したかったんだよ」
「どれだけ頭を悩ませたって、意味なんてないのじゃないかしら……それだったら、自分の思うままに振る舞うべきじゃない……?」
ラミアの紫色の瞳は、濡れたように輝いている。
そして、血のように赤い舌の先が、自分の肉感的な唇をぺろりと舐めた。
「あなたはこの地上で最強の、暗黒神であるのよ……? そんな風に、うじうじと思い悩む姿は似合わないわ……」
「だ、だったらどうして暗黒神は、人間たちを滅ぼすことができないのかな? そんなすごい力を持っているなら、人間なんてどうにでもできそうじゃないか」
「そんな野暮な話は、後にしましょうよ……いまは、このひとときを楽しみましょう……?」
ラミアの腕が、僕のほうにしゅるりとのばされてきた。
巨岩を這いずる蛇のように、ラミアは僕の身体にからみついてくる。そのひんやりとした感触が、僕の理性を激しく揺り動かした。
「いや、やめようよ。僕は本物の暗黒神じゃないんだから――」
「あなたは、暗黒神ベルゼビュートよ……あなた自身が何を言おうと、その事実を動かすことはできないの……」
ラミアの指先が僕の胸甲をまさぐり、血の気の薄い唇が顔のほうにのばされてくる。
甲冑の肉体であるにも拘わらず、それは生身の肉体をまさぐられているような感触であった。
「今日は、そのままの姿でいいのかしら……? わたしは、どちらでもかまわないけれど……」
「そ、そのままの姿って?」
「あなたは、人間めいた姿を取ることを好んでいたでしょう……? 着替えるのなら、お早めにね……」
ラミアの舌が、僕の咽喉もとをちろちろと舐めた。
崩落寸前の理性をかき集めつつ、僕はラミアの肩をつかみ、自分の身体から引き離す。
「着替えるって、どうやって? これ以外にも、鎧が準備されているのかな? でも、この鎧が僕の肉体そのものだっていう話だったよね?」
「もう……あんまり焦らすと、後でひどいわよ……? あなたはいくつもの
僕の手の中でしどけなく肢体をくねらせながら、ラミアはそのように言った。
そして、半ば鱗に覆われた指先が、背後の壁を指し示す。
「義體は、そこに仕舞ってあるのでしょう……? 着替えたいなら、早く選べば……?」
「そこって? ただの壁じゃないか」
「開き方なんて、わからないわよ……それを開くことができるのは、この世であなただけなのだからね……」
そんな風に言ってから、ラミアは銀色の長い髪を色っぽくかきあげた。
「開け、と念じてみたら……? 衣装棚を開くのに、特別な術式なんて必要ないでしょう……?」
半信半疑のまま、僕は「開け」と念じてみた。
すると――数々の悪趣味なコレクションで飾られていた岩盤の壁が、ふっとこの世から消え失せた。
代わりに出現したのは、闇である。
その闇の中に、青白い人間の肉体がいくつも浮かびあがっていた。
「これは……」
僕はラミアを解放し、思わずそちらに駆け寄った。
それはまるで、闇の色をした液体の中に、何体もの屍骸が浮かべられているような様相であった。ざっと見ただけで10体以上もある人間の裸身が、闇の中でゆらゆらと揺れているのである。
年端もいかない幼子の肉体もあれば、魔物のように美しい女性の肉体もあった。逞しい壮年の男性や、貴族のように美しい青年や、僕と同世代ぐらいの女の子や――性別も年齢も異なる人間の肉体が、無秩序に並べられていたのだった。
「あなたのお気に入りは、右から2番目の男だったわね……どのような肉体でも、わたしはかまわないけれど……」
寝台に居残ったラミアが、そのように言いたててきた。
右から2番目というと、凛々しい青年の肉体である。あの、美青年レヴァナントに匹敵するほどの美しさだ。
その青年も含めて、すべてが異国的な風貌をしている。
髪は金色か褐色が多く、ガラス玉のように虚ろな瞳は青色か茶色が多い。どこといっておかしなところのない風貌ばかりであるが、日本人らしい外見を備えた肉体は皆無であった。
「これは……どうやって着替えたらいいんだろう?」
「だから、知らないってば……着替えたい、と念じてみたら……?」
得体の知れないおののきにとらわれつつ、僕は義體とやらの1体に視線を定めた。なるべく本当の自分に年齢の近そうな、少年の義體だ。
「着替えたい」と念じると、ほんの一瞬だけ視界が暗黒に包まれた。
次の瞬間には、景色が変わっている。目線の高さが、30センチばかりも下がっていたのだ。
そして、僕が定めた視線の向こうには、禍々しい髑髏の甲冑が闇の中でゆらめいていた。
視線を下げると、人間の肉体が目に映る。本当の僕よりも色の白い、だけどれっきとした人間の肉体である。
「あら……ずいぶん可愛らしい義體を選んだのね……わたしに思うさま可愛がってほしいということなのかしら……?」
寝台のほうを振り返った僕は、「うわあ!」と悲鳴まじりの声をあげることになった。
寝台の上で、ラミアは薄物を脱ぎ捨てていたのである。その裸身はやはり半分がた銀色の鱗に覆われていたが、凶悪なサイズを有する胸もとは白いぬめるような人間の皮膚であった。
「ぼ、僕はそんなことのために着替えたわけじゃないよ! 君もちょっと、落ち着いてくれないかな?」
「何を言っているのよ……裸身の男女が寝所でふたりきりなんだから、することはひとつでしょう……?」
「僕は、好きで裸なわけじゃないよ!」
僕がそのようにわめいたとき、かすかな違和感が全身に走り抜けた。
何事かと思えば、裸身であった首から下が、衣服に包まれている。僕の故郷ではまず見かけることのない、粗末な布の服であった。腰にはしっかりと帯をしめ、足の先には古びた革の靴を履いている。
「何よ……そんな格好をして、また人間どもを襲いに行くつもり……?」
「あ、暗黒神は、こんな姿で人間を襲っていたのかい?」
「そんな子供の姿で、人間の町に近づくことはなかっただろうけど……人間の女なんて、つまらないでしょう……? 人間なんかをつまみ食いする前に、きちんとわたしの肉体を味わったらどうかしら……?」
自分の指先をねっとりと舐めながら、ラミアは蠱惑的な流し目を送ってきた。
その瞳は、隠しようもない情欲に濡れている。
「さあ、いらっしゃい……7日ぶりに、至上の悦楽を味わわせてあげるわ……」
僕は呼吸を整えて、精神を集中した。
そうして、「眠れ」と念じると――ラミアの肢体は、くにゃりと寝台にくずおれた。
(魔力を使うって、こういうことなのか)
壁に隠された扉を開き、義體に着替えたことにより、僕の肉体は魔力を行使することを思い出していた。謁見の間において、獣人ガルムを吹き飛ばしたときも、きっと無意識の内に魔力を放出していたのだろう。
僕の意識はこの世界を知らないが、僕の肉体はこの世界の産物であるのだ。
そんな事実を再認識させられながら、僕はひとつの想念にとらわれていた。
(この世界の人間たちがどんな存在であるのか、確認しておこう)
それは、あまり激情に駆られることのない僕にとっては珍しいぐらいの、胸の奥底から噴き出てくるような痛切なる思いであった。
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