第1章 暗黒神の憂鬱
1 異界の魂
「暗黒神ベルゼビュート様は、この世のすべての魔族を統べる、唯一にして絶対の存在だよ」
赤い髪をした男の子は、皮肉っぽく笑いながらそのように説明してくれた。
彼の名前は、『赤い衣の小人』たるファー・ジャルグ。役割は、暗黒神に仕える道化であるそうだ。
「その魔力は強大無比で、どんな魔物が束になってもかなわない。ま、そうでなくっちゃ暗黒神でござい、なんてふんぞり返ってはいられないだろうからねえ。実際問題、あんたの魔力は規格外だよ。自ら神を名乗ったところで、誰も文句をつけたりはしなかったさ」
「暗黒神って、自称なのか……あ、いや、なんでもない。どうぞ続けて」
「ふふん。そんなあんたでも、たったひとつの泣きどころがあった。魔力があまりに強大すぎて、100年ぽっちしか寿命がもたないんだな。それで編み出されたのが、再生の儀ってやつだ。あんたは100年に1回、再生の儀っていうトンデモ魔術に取り組んで、老いぼれた魂を再生することにしたんだよ。今回がちょうど10回目の儀式だって話だったから、生誕1000年のお祝いの日ってことだねえ」
「本当に、とんでもない話だなあ……ちなみに、君は何歳なのかな?」
「不肖ワタクシは、まだ150歳ていどの若輩者でございますよ。200歳や300歳のババアども……あ、いや、経験豊かなる淑女の皆様方に比べたら、生まれたての洟垂れ小僧でございます」
「誰がババアだよ!」と、地面に降り立っていたハーピィが抗議をするように翼を広げた。
そのかたわらで、鱗の美女たるラミアはずっと沈黙を保っている。ただその神秘的な紫色の瞳は、さきほどから食い入るように僕の姿を見つめていた。
「きひひ。道化の戯れ言に眉を吊り上げちゃあいけません。……で、そんな大魔術には、それ相応の
「異界の人間の魂、か」
いよいよ話が核心に迫ってきたようなので、僕は椅子から身を乗り出すことになった。
しかし小人は、そんな僕の気持ちをかわそうとするかのように、「きひひ」と笑う。
「ま、詳しい内容を知るのは、暗黒神様おひとりさ。何せ暗黒神様は、自分ひとりでそんな大魔術を編み出したって話なんだからねえ。何をどうしてどうやったら、そんな異界の魂を引っ張ってこられるのか、凡夫の身には計り知れないさ」
「まいったなあ。僕はたぶん、その異界の魂ってほうの人格なんだよ。君たちの崇める暗黒神様の人格は、いったいどこに行ってしまったんだろう?」
小人は薄ら笑いをたたえたまま、何も答えようとしなかった。
すると、退屈そうに羽をつくろっていたハーピィが、無邪気な笑顔をこちらに向けてくる。
「ややこしい話は終わったー? それじゃあ祝宴の準備をしてくるから、ベルゼ様はしばらく休んでてね!」
「ちょ、ちょっと待って。祝宴って、何の祝宴さ?」
「そんなの、ベルゼ様が7日ぶりに目覚めたお祝いに決まってるじゃん! あと、生誕1000年のお祝いもね!」
「だ、だから、僕たちの話を聞いていなかったのかな? 僕は、暗黒神なんかじゃないんだよ!」
ハーピィは、きょとんとした様子で首を傾げた。
顔だけを見ていれば異国的な美少女であるのだが、鳥の翼と下半身を持つモンスターである。それでいて、人間部分の胴体は煽情的なプロポーションを有しており、おまけに彼女は一糸まとわぬ裸身であった。ただその褐色のロングヘアーが際どい感じに胸もとを隠しているばかりであり、僕としては目のやり場に困ることしきりであった。
「あたし、難しい話はよくわかんないよ。でも、ベルゼ様はベルゼ様じゃん」
「いや、見た目はそうかもしれないけど、僕はそのベルゼ様とは別人なんだ。本当の僕は――」
と、僕はそこで口をつぐむことになった。
それを見て、ファー・ジャルグはにんまりと笑う。
「本当の僕は? 何か他にお名前でもあるんなら、是非ともお聞かせ願いたいところだねえ」
「いや、それは……ちょっと思い出せないんだけど……」
「ほうほう、こいつは頼もしい話だ」
「でも、僕は異界の人間なんだよ! 名前は思い出せないけれど、どんな生活を送っていたかは、ぼんやり記憶に残ってるんだ!」
僕は、日本で暮らす平凡な高校生だった。たしか学年は、2年生で――親とは幼い頃に死別しており、叔父夫婦の家で暮らしていた。家の間取りも、学校までの通学路も、エビフライやオニオングラタンスープが好物であったことも、ぼんやりとだが覚えている。
ただ、自分の名前が思い出せない。
いや、自分の名前ばかりでなく、叔父夫婦やクラスメートや学校の名前なども、綺麗さっぱり忘却の彼方であった。
「ま、再生の儀を行うと、頭の中身がぐっちゃんぐっちゃんにひっかき回されるって話だからねえ。ラミアの姐御も、そいつはご存知だろ?」
「誰が姐御よ……確かにベルゼビュート様が再生の儀を行うと、しばらくはわけのわからないことを口走るのが常だったわね……まあ、たいていは数日もすれば落ち着いていたけれど……」
「そ、それじゃあこれまでも、僕みたいに人格が入れ替わっていた可能性があるのかな?」
「さあ……人格なんて、わたしたちには関係ないもの……」
そんな風に言いながら、鱗の美女ラミアは妖しく唇を吊り上げた。
やはり彼女は、蛇に類する魔物であるのだろう。肉感的な唇から、2本の白い牙がちらりと覗いている。
「どのような人格でも、ベルゼビュート様はベルゼビュート様だわ……その逞しい御身からあふれかえる魔力が、その証拠よ……」
「いや、重要なのは中身だろう? 僕はそのベルゼビュート様っていうのがどういう存在であるのかもわかっていないんだよ?」
「そんなのは、わたしたちが教えてあげれば済む話でしょう……? 心配しなくても、手取り足取り教えてさしあげるわ……」
「あー! 抜けがけするんじゃないよ、淫乱蛇女! ベルゼ様は、あたしのベルゼ様なんだからね!」
ハーピィがバサリと羽ばたいて、ラミアの頭上で鉤爪を振り回した。
ラミアは鬱陶しげに眉をひそめつつ、鱗の生えた腕でそれを振り払う。
そんな女怪たちの争いを横目に、ファー・ジャルグはまた「きひひ」と笑った。
「ま、こんな雑魚どもを相手に弁解したって、詮無きことだよ、暗黒神様。この場にいるのはしがない侍女どもと、高潔なる魂を持つ道化一匹なんだからねえ」
「そ、それじゃあ僕は、誰を相手に意思表明すればいいのかな?」
「そりゃあやっぱり、暗黒神様の腹心たる五柱兵団長の面々だろうねえ。この7日間、暗黒神様のお留守を預かってたのも、あの連中なんだからさ」
暗黒神の次は、五柱兵団長か。
ここはいったいどういう世界観なのかと、僕は頭を抱えたい心地であった。
「あのさ……ちなみに今の僕は、どういう姿をしているんだろう? この兜なんか、脱ぎ方がさっぱりわからないんだよね」
「はあん? その兜の下は、すっからかんの空っぽでしょうよ」
「え? それじゃあこの黒い甲冑が、暗黒神の本体ってことかい?」
「そりゃあ、あんたは好きこのんで、そういう姿をしているんだろうからねえ」
にやにやと笑いながら、ファー・ジャルグは指先で宙に大きな円を描いた。
するとその軌跡が輪郭となって、空中に大きな鏡を現出させる。
「これが、暗黒神様のお姿だよ。水もしたたる男前だろ?」
おそるおそる、僕はその鏡を覗き込むことになった。
そこに映し出されたのは――人間の骸骨をモチーフにした、実に凶悪な兜の造形である。
鎧と同じく漆黒の色合いで、眼窩の奥には青白い鬼火のような眼光が灯されている。暗黒神の名に相応しい、それは禍々しさの極致であった。
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