暗黒神、あるいは鋼のベルゼビュート
EDA
Dunkler Gott oder der eiserne Belzébuth
プロローグ
~覚醒~
鼻をつままれてもわからないような暗闇の中を、僕はぷかぷかと浮遊していた。
ここは何処で、今は
それは何だか母親の胎内に還ったような安心感と、死後の世界を漂流しているような不安感の入り混じった、とても奇妙な感覚であった。
(これは、きっと……夢なのかな……それとも僕は、本当に死んでしまったんだろうか……)
そんな風に考えたとき、突如として周囲の暗黒が僕の中になだれ込んできた。
世界を埋め尽くしていた暗黒の空間が、堰を切ったように僕の体内へと侵入してきたのだ。
(おいおい……そんなことをしたら、僕の身体が破裂してしまうよ……)
僕はぼんやりと考えたが、黒い奔流の勢いは止まらなかった。
僕の全身が、暗黒の色彩に染めあげられていく。細胞のひとつひとつがぷちぷちと音をたてながら潰されて、侵蝕されていき、ついには僕自身が暗黒そのものに成り果ててしまった。
(嫌だなあ……僕にどうしろっていうんだよ……)
僕は深々と溜め息をついたが、それに返事をするものはなかった。
そして僕は――
◇◆◇
そして僕は、覚醒した。
世界は、薄闇に包まれている。目の端にぼんやりと瞬くオレンジ色の淡い光は、スタンドライトの間接照明だろうか。僕は真っ暗闇だと寝付けないタイプなので、いつもそいつを点けっぱなしにしているのだ。
(まだ夜か……ずいぶんおかしな夢を見ちゃったな)
寝返りを打とうとした僕は、そこでようやく異変に気付いた。
僕はベッドで寝ていたはずなのに、椅子に座った体勢であったのだ。
然して、僕の部屋には座椅子しか存在しない。そうであるにも拘わらず、僕は足つきの立派な椅子に座しているようであったのだった。
これはどういうことだろう、と僕は立ち上がろうとした。
とたんに、ガシャリと硬質的な音色がする。何か金属が擦れ合うような音色であった。
ますますわけがわからなくなった僕は、椅子に座った自分の身体を見下ろし――それで今度こそ、激しい驚愕にとらわれることになった。
薄暗いのでよくわからないが、僕は黒光りをする甲冑に身を包んでいるようだった。
「な、何だよ、これ?」
思わず独りごちながら、自分の両手を顔の前にかざしてみる。
その両手の先もまた、黒い金属の篭手に覆われていた。しかも、指の先が鋭い爪のように尖った、実に禍々しいデザインである。手の甲も、手の平も、手首も前腕も上腕も、すべてが精緻な彫刻の施された漆黒の装甲に包まれており、自分の肌などは一切見えない有り様であった。
「いや、意味がわかんないよ! いったい誰が、こんなことを――」
と、周囲に視線を巡らせた僕は、再び呆気に取られてしまった。
そこは僕の寝室などではなく、きわめて得体の知れない空間であったのだ。
壁や天井は、黒みがかった岩盤である。まるで鍾乳洞か何かのようだ。
足もとだけは平らに加工されているが、ただし、一面にびっしりと奇怪な紋様が刻みつけられている。どう見ても、それは魔法陣としか言い様のない代物であった。
左右の壁には燭台のようなものが掲げられており、そこに灯されたオレンジ色の火が、この異様な空間をぼんやりと照らし出している。
僕は脱力して、ぐったりと椅子の背にもたれかかることになった。
「要するに……僕はまだ夢の中ってことなのかな?」
そのとき、頭上から「ベルゼ様!」という甲高い声が響きわたった。
ほぼ同時に、とても造作の整った女の子の顔が、鼻先に出現する。僕は「うわあ」と身をのけぞらせて、そのまま椅子ごとひっくり返りそうになってしまった。
「ようやくお目覚めになられたんだね! もう、七日七晩ぴくりとも動かないから、このままくたばっちまうんじゃないかと心配しちゃったじゃん!」
それは何だか、猛烈なる圧力を持った女の子であった。
色は白くて、髪は茶色で、瞳は翡翠のようなグリーンをしている。きっと日本人ではないのだろう。猫のように目尻の上がった大きな目が印象的で、下手なアイドルよりもよほど可愛らしい顔立ちをしている。年の頃は、僕と同じぐらいであろうか。
しかしまた、そんな冷静に分析している場合でもなかった。見知らぬ異国の女の子が、まるでキスでもせがむかのように、ぐいぐいと顔を近づけてくるのである。僕は椅子の背もたれに背中を押し付けられながら、慌てふためいた声を発することになった。
「ちょ、ちょっと離れてくれないかな? 僕には事情がさっぱりわからないんだよ」
「僕? 僕って何さ! まったく、おかしなベルゼ様だね!」
けらけらと笑いながら、女の子はようやく身を引いてくれた。
同時に、ばさりと軽快な音色が響く。
それで僕は、幾度目かの驚愕に見舞われることになった。
その女の子は、腕が翼で、下半身が鳥の形状をした――いわゆる、ハーピィというやつであったのだ。
「それで、魔力は戻ったんだよね? お強いベルゼ様が復活したんだよね? だったらこれでもう、あたしらの城も安泰だ! さあ、人間どもを皆殺しにしちまおうよ!」
けたたましい笑い声をあげながら、ハーピィは薄暗い室内を飛び回る。
僕が言葉を失っていると、右肩の辺りにひたりと冷たい感触が生じた。
「お目覚めをお待ちしていたわよ、ベルゼビュート様……あなたはいつだって、焦らし上手よね……」
ほとんど無意識の内にそちらを振り返ると、今度は妖艶なる美女が僕の顔を覗き込んでいた。
白銀の長い髪に、煙るような紫色の瞳をした、これまた異国的な美女である。ただし、ぬめるように白いその肌は、頬や咽喉もとの辺りが銀色の鱗に覆われていた。
「きひひ。本当にしぶとい御仁だねえ。あのままくたばっちまえば、いっそ楽だったろうにさ!」
と、今度は足もとから男の子の声が聞こえてきた。
赤い髪に、鳶色の瞳。そして、髪と同じく真っ赤なベストのようなものを着た、愛嬌のある顔立ちをした男の子だ。
ハーピィや鱗の美女に比べれば、まだしも人間がましい姿である。ただ、せいぜい5歳か6歳ぐらいにしか見えない風貌であるのに、その言葉や表情は妙に大人びていた。
「あー! なんだよ、あんたたち! ベルゼ様の大事なお部屋に、勝手に入ってくるんじゃないよ!」
と、宙から舞い降りてきたハーピィが、サイレンのようにけたたましい声でわめきたてた。
鱗の美女はそちらを見上げながら、小馬鹿にしきった様子で鼻を鳴らす。
「うるさいわね……品のない声でぎゃあぎゃあ騒ぎたてないでよ……あなたこそ、勝手にこの場所に踏み入ったのでしょう……?」
「はん! 踏み入るって、なんの話さ? 地べたを這いずることしかできないあんたたちとは、違うんだよ!」
「飛んでいようが歩いていようが、勝手な真似をしたのは一緒じゃない……わたしはあなたが騒がしくしていたから、いったい何事かと思って様子を見に来ただけのことよ……団長たちに説教をくらうのは、最初に言いつけを破ったあなたひとりということね……」
「うっさいよ! そのすました顔をかきむしってやろうか!?」
「やれるものなら、やってみれば……?」
険悪に言い争う女怪たちを見やりながら、赤毛の男の子はまた「きひひ」と笑う。
「ハーピィもラミアも、暗黒神様に夢中だねえ。あんたがどっちに今夜の伽を申しつけるかで、また血の雨が降りそうだ!」
「あ、暗黒神さま?」
僕が呆然と反問すると、赤毛の男の子は「んん?」とうろんげに首を傾げた。
「自分のお名前を忘れちまったのかい、暗黒神ベルゼビュート様? まさか、再生の儀に失敗しちまったんじゃないだろうねえ?」
僕には、何も答えることができなかった。
できることなら、頬のひとつでもひねりたいところであったのだが――僕の顔はくまなく兜に覆われていたので、それもかなわなかったのである。
かくして僕は何の事情も把握できないまま、異界の地において暗黒神として覚醒する事態に至ってしまったのだった。
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