その涙さえ命の色

彩 ともや

その涙さえ命の色

男は死にたかった。


どうしてもどうしても死にたくて、自殺を計画した。


自分の命に金をかけるのも、人に迷惑をかけるのも嫌だったから、首吊りを選んだ。


自宅のリビングで、天井から伸びた、洗濯物干しのパイプからネクタイを通し、首を吊った。


ロープを買うのも手間だったから、ネクタイを使った。



「いーつのーことーだかー、おもいだしてごーらんー」


ネクタイを首にかけた。


手は震えていない。

暗い室内からでも、窓の外の景色がよく見えた。


烏が飛んでいた。


黒いシルエットだった。


「あんなことーこんなことー、あったーでしょう」


下を見下ろすと椅子が見えた。


木の椅子で、ずいぶんと変色していた。

就職の為に引っ越して来たとき、買ったものだ。

安くても、丈夫で、座り心地も良かった。


「うれしかったこーとー、おもしろかったこーとー」


ネクタイに首を通した。


首に当たる感触は、つるつるしていて、意外と心地が良かった。

いつもYシャツの上からしか感じない細い布。

それが今は心強い。


「いーつにーなってもー、わーすれーないー」


足に力を入れた。

けれど、まだやり残していることがある気がした。


『かぁさん…』


枯れた声だった。

音にもならず、空気を揺らしただけの。


「なぁに?」


それでも、返事が聞こえた。


「いーちねーんじゅーうをー」


『おもいだして、ごーらんー』


椅子を蹴った。

ネクタイが強く首を絞めた。


椅子の倒れる音。

烏が鳴く声。

そして、フライパンをゆする音。


「もう少しで出来るわよ。今日はオムレツよ。好きでしょ?」


卵の甘い匂いがする。

腹の底で、空腹を告げる音がした。


あと、もう少し。

もう少しだけ。


母さんを、おもいださせて………


「ふふ。そんなに慌てなくても大丈夫よ。おかわりもあるわ」


温かな母さんの手。

柔らかい匂い。

後ろで1つに束ねられた、清潔感のある髪。



「ほら、いーつのーこーとーだかー、おもいだしてごーらんー」


背中に伝わる一定のリズム。

自分じゃない心臓の鼓動。



頬に、生暖かい感触。

一筋の薄い線が流れた。

地面に落ちた雫。

色を失いつつある世界で、それだけははっきり見えた。

透明の水滴。

それでもその中に、無色の色が宿っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その涙さえ命の色 彩 ともや @cocomonaca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ