第5話 またね

二次会も終わって帰る時間がやってきた


「今夜は寒いね」

「うん...」


外の寒さと高鳴る心臓の鼓動をかき消すために絢は一樹に話していた。

時刻は既に12時をまわっている。



一樹の手…温かい…。


冷えた手を温めるために二人は手を繋ぎ、

絢はいろんなことを考えながら握った手をさらに強く握り駅へと向かった。




外は冷たい風が吹きとても寒い。


季節は12月。

ちょっと前に雪も降り、寒さはさらに増していた。



二人は肩を寄せ合いながら歩いているうちに改札に着いた。




一樹が改札を通った後に、絢も同じ改札機を通る。


先に通った一樹はみんなのことを待っていた。



もうすぐお別れの時間だ…



絢は待っていた一樹を見て、

両手をいっぱいに広げ、一樹の方に歩み寄り、一樹に抱きついた。


一樹からいつものいい香りがする…

いいにおい…


絢は一樹の首元に顔をうずめて

この時間が終わらなければいいのに…


そんなことさえ思っていた。


一樹のきれいな首筋。

絢は今にもキスしてしまいそうだったが、何もせず一樹から離れた。


「何だよ、絢。

 俺の首にキスしたのか?

 口紅の跡が付いたらカミさんに怒られるんだけど。」


一樹はちょっとからかったように、絢を困らせた。

絢はこの日ワインレッドの大人っぽい口紅をしていた。


「何もしていないですよ!

 ただぎゅってしただけ…」


絢はそう返すと、一樹の顔が少し寂しそうな顔をした。

そんな一樹の顔を見て、絢は一樹の暗い顔を遮るように話し始めた。


「ねぇ。ほっぺにちゅーしていい?」


「だめだよ、口紅の色がついちゃう。」


「なら、口にさせて。」


「それもだめ。」


「口にしたら色ついてもすぐ落とせるよ。」

「ねぇ…。ちゅーしよ…」



「…。ここならいい?」


「え?どこ?」

絢はそういって一樹の右手の甲を、自分の左手の親指で擦った。


一樹は一瞬考えていたが、すぐ返事をくれた。


「うん、ここならいいよ…」


思いもよらない答えに、絢の胸がキュッと締め付けられた。

だって一樹の身体にキスなんてさせてくれると思ってもいなかったから…


けれど、ここでキスしなければ一生させてもらえないかもしれない。


そう思った絢はそっと一樹の手の甲に顔を近づけキスをした。

甘く優しいキス。


絢は幸せいっぱいで、いまにもとろけてしまいそうだ。

この時罪悪感なんて1ミリも感じていなかった。


顔を上げて一樹の顔をみたら、

なんだか緊張しているかのような表情をしている。




「なんだ...  一樹もドキドキしてたんだ...」


この心拍数の高鳴りは、

私ひとりだけじゃないことを知って、絢はほっとした。




照れた様子で一樹は言った


「あー、キスしちゃったあ」


「だってしたかったんだもん」



そう言いながら、手を繋いだまま少し歩く




「まだ帰りたくないのか?」



一樹が意地悪するかのように問う




絢と一樹は逆方向の電車なので、ここでお別れだ。


絢の心臓の鼓動がうるさい

ドキドキしてて呼吸も荒い

顔も上げられない



「ちょっと待って…  すっごくドキドキする…」



…恋に落ちた時のドキドキと同じ感覚。




この感情は一体なんなんだろう...





緊張と恥ずかしさで顔があげられない。



一樹が絢の肩を自分の方に引き寄せ、柱の近くに止まった。



お別れの瞬間が目前に迫ってきた時、


絢は「まだ一緒にいたい...」


そう思って一樹のコートの袖を掴んでしまった




一樹もその答えに応じるよう、絢のそばにいてくれた


「なーにどうしたの?」




「んー」




そう言いながら絢はコートの袖を引っ張る




「もう、絢は悪い子だなぁ。


 おじさん好きだからと言って

 いろんな人について行っちゃダメだぞ。」




そんなのわかってる…




私だって誰でもいいわけじゃない。


「そんなことくらい分かってよ...」




絢は心のどこかで思っていた。




「じゃあ帰るぞ」



そう言われた時、

絢はくちびるを甘く噛み、一樹の目を見つめていた。



「そんな寂しそうな顔するなよ?」

と一樹は言ってきた。



「絢さ、俺とできるかも?っていま思ってるだろ?」




そんなこと聞かないで...


それくらいわかるでしょ…


「いや、そんなこと思ってなんか…いないです…」





さらに一樹が言葉で責めてくる


「ちょっとは思っただろ?」



そんなこと聞かないで…



私は2年前のあなたに一度恋に落ちているの…

あの時の苦しみはもう味わいたくないのに…


「ちょっとは…思っ…思いました…」




絢は最後にもう一度だけ


あと一回キスをしたら


またねと告げて


この場を去ろう




でないとこの感情は止められない


そう感じた。



絢は一樹のコートの袖を引っ張りながら一樹を見つめている。

一樹を見つめているだけで、この気持ちがはち切れそうなのに…


なんで一樹はそんな涼しそうな顔をしているの?


これが

「大人の余裕」

ってやつか。


絢はいろいろ考えながら一樹をじっと見つめる。


「なんだ?」

って言いながら


ずっとそばにいてくれる



絢は、今、心に思ったこと、全部言葉にしよう。

そうじゃないと後で後悔してしまうかも…


そう思った絢は、口を開いた。





「最後にもう一度だけ手の甲にキス…させて?」


この言葉を言うだけで

絢は体力を摩耗しているような感覚だった。




絢は一樹にいま思っていることを告げた。



一樹はまっすぐ絢の目を見て、返事をくれた。



「いいよ。」



…手の甲ならいいんだ…。

それとも今日は特別…?


いつか、私も頬にキスできる日が来るのかな…

次を期待してもいいのかな…





そう思った絢は


今日のお別れする最後だし、さっきより気持ちを込めて長めににキスをしよう。


そう心に決めた。



急行電車が来たあとのようで、ホームから改札口に人が流れてくる。



二人はお互いの目を見つめあったまま、手を繋いでその場を離れないでいる。




もうどのぐらいの時間が過ぎたのかわからない。



…。





人の流れも落ち着いてきた。



絢は一樹に最後のキスをする決心がついた。



何かを察して欲しいかのように、

絢は鋭く、そして甘く一樹を見つめたあと、




そっと、一樹の右手の甲にキスをした。


さっきより甘く、さっきよりも深く…

表現できないようなもどかしい気持ちをすべてこのキスに込めて…


もう二度とないかもしれない

この状況。


一樹の柔らかく白く温かなきれいな右手に。


絢はこのキスにすべての思いを込めた。




数秒キスしたあと、絢は一樹の手の甲から顔を離し、


「お疲れさまでした」


そう告げて、ホームに向かう階段に2,3歩ゆっくりと歩きだした。



一樹はこの時どう思ったのだろう。


絢の目には少しきょとんとした表情の一樹がいるように感じた。


ここでまた、何度もキスをせがまれ、

あきらめの悪い女かもしれないと思ったのだろうか?





私は決してそんなことはしない。







だって一樹のことが好きだから。







一樹の嫌がることはしない。



そう決めている。




絢はさらに階段の方に歩くと、一樹も柱から離れ、

反対側のホーム行きの階段に向かった。



一樹は最後にこう話しかけた。



「絢、また飲みに行こうな。」



絢は、

「はい!」




とだけ返事をして、一樹の目の前から姿を消した。






絢は階段の中腹まで登ったところで、歩くのを止めた。






絢のくちびるには、一樹の手の甲にしたキスの感触が鮮明に残っていた。




「一樹の手の甲にも、私のくちびるの感触が残っているのかな…」


「少しでも残っていたら嬉しいな…」



そんなことを思いながら、鳴りやまぬ心臓の高鳴りを抑えながら、

目を閉じ、ゆっくり深呼吸をした。


ゆっくり目を開け、階段を登りきると、

ちょうど電車が来た。



電車の扉が開き、

まだ、しっかりと心の整理がつかないまま、電車に乗る。



終電間際の電車だったが、乗っている人はまばらで、

席も空いていた。


私は、隣のホームが見える位置に座り、

電車が動くのを待った。




扉が閉まり、

電車が動き始めたとき、

階段から登ってきたばかりの一樹の姿を見つけた。




絢は、その時思った。




「あれ?」


「私は、階段の中腹で、胸の鼓動を落ち着かせるために

わざと止まっていたけれど…」


「なんで一樹は今ごろホームに来るの…?」



「一樹もドキドキしている気持ちを抑えていたのかな…」



絢は、いろんなことを考えた。


でも、もし、ホーム上でお互い電車を待っているときに、

目が合ってしまったら、私はドキドキしたままで、

どちらかの電車が来た時に手を振ることしかできない。


そうだとしても、お互いの場所が分かったまま、引き離されるのは

あまりにも残酷で、それこそ胸が張り裂けてしまいそうな気がした。



そう思うと、今日のタイミングは良かったのかな。



そう思った。





絢を乗せた電車はゆっくりと進み始めた。


絢は、電車の中から、一樹に気づかれないように

そっと目線を追いかけた。



一樹は、電車の中の人を探しているようだった。



徐々に電車のスピードが速くなり

ホームから一樹から

絢は離れていった。

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