#110 : Classic / ep.1
「シャルロット・ガブリエルは、私が救います」
電話口のチェシャ——芦屋千枝に向けて宣言する。もちろん能力でも財力でもベンチャー経営者の彼女には敵わない。
だからと言って引くつもりはないし、シャンディは「信じて」と言った。仮に誰に何を言われても、その言葉だけで充分、シャンディを信頼できる。
だから、あの「さようなら」はシャンディの嘘。ルールも分からないけれどこれは
ならば挑んで勝ち取ってみせる。
その先に美琴自身と、シャンディの幸せがあるのだから。
『ああ、黒須美琴くんか。君さえよければ他の女を紹介してもいいが——』
「それと、ありがとうございます」
『うん? 君に感謝される言われはないけれどね』
電話口のチェシャに、言っておかなければならないことがあった。文香は渋々認めるような内容だったけれど、事実、シャンディが今も生きていられる、命の恩人はひとりだけ。
「私の運命の人を助けて、出逢わせてくれたことにです」
言ってやった。命の恩人に送る言葉なんて、これだけで充分だ。
『過去の人だと言いたいのかい?』
「それは彼女が決めることです」
『シャルは私と添い遂げると誓ってくれたがね』
「私とも誓いました」
『ならば、先に手を離して愛の深さを証明してはいかがかな。大岡裁きくらいは君も知っているだろう?』
「私が離したら、あの人はひとりになってしまいます」
『ならないよ。私がいる限り』
「貴女とシャンディさんの手は繋がっていませんから」
『ほう?』
「忙しいので切ります」
電話を切って、大きく深呼吸した。次にやることは決まっている。早苗が申請してくれた休暇のおかげで、しばらくは何も気にしなくていい。
心配そうに見守っていた文香と飯森氏を安心させるべく微笑んで、美琴は尋ねた。
「教えてください。彼女が育った場所のことを」
こうなればすべてを明らかにする。すべてを明らかにしたうえで、シャンディと向き合う。ぜんぶ今さらだ。どんな過去があろうと気にもならない。
彼女の言う通り、
「真実を知っても嫌ったりしないと証明したいんです」
過去を突きつける気はない。だけど知らずに過ごすのと、知りながら黙っているのは違う。仮にシャンディが過去を知られることを嫌ったとしても構わない。
美琴は、誰のあやつり人形でもないのだから。
「愛だねえ」
「愛ですね」
夫婦にくすくす笑われて、美琴はカウンターに額をぶつけたのだった。
*
玄関の外からでも、大好きな、妻の作るカレーの匂いがした。
帰宅した早苗がメゾネットの玄関を開けると、金髪女がケージ内の飼い猫に餌をあげていた。それもロングTシャツとレギンスというまるで住んでいるようなラフないでたち。
「あら、お帰りなさいませ。早苗さん」
「何故貴女が我が家に……?」
「ここにしか逃げ場がなかったんですから仕方ありませんよ。狭くても我慢しているんですから構わないでしょう?」
悪びれるどころか居丈高にふんぞり返って、金髪女ことシャルロット・ガブリエルは「ふふ」と自慢げに笑っていた。
どえらい女を招き入れてくれた。その張本人であろう妻は、鼻歌混じりで野菜たっぷりのカレーを煮込んでいる。
「あ、おかえり早苗ー。今夜は董子カレーだよー」
「聞きたいことが山ほどあるのですが」
「うがい手洗い終わったらね!」
家庭の番人、専業主婦の言うことは絶対だ。ご家庭内での序列を知ってニヤニヤ微笑んでいる居候(仮)から視線を逸らして、早苗は洗面所へ向かうのだった。
「……それで、何故シャルロットが我が家に?」
普段よりひとり分多い晩ご飯のカレーライスを食べながら、早苗は感情を抑制して尋ねた。董子には筒抜けだったようで「そんなに怒らないでよー」と嗜められる。
「事情があって、しばらく経堂に戻れないんだって」
「ええ、家なき子なんです。同情するなら家をくれ」
「あげません」
「では、このお野菜と交換で」
「野菜同様、貴女をつまみ出したい気分です」
早苗の皿には、シャンディが皿からつまみ出した野菜がこんもり積み上がっていた。ごろごろ大きめ野菜にお肉なしが特徴の董子特製カレーから野菜が消えると、もはやただのルーと米。
「たくさん食べないと大きくなれませんよ?」
「何をしに来たんですか貴女は……」
「人にモノを尋ねるなら、それ相応の態度があるのではないかしら?」
質問する立場だったのがいつの間にか逆転している。無意味な言い合いを楽しんでいるのだろう、くすくす琥珀色の瞳を細めて、シャンディは笑っていた。
「単刀直入に聞きます。なんの用ですか。答えないと警察を呼びます」
「ぶー」
イヤイヤ期の幼女のように唇をすぼめて、シャンディは用紙を取り出した。幸せいっぱいピンク色の届出には、しっかりと彼女の個人情報が書かれていた。
シャルロット・ガブリエル
平成7年11月24日
「わあ、すごい! おめでとう! うわー、とうとうなんだー! 感動……! ていうか同い年だったんだね、早苗!」
「みたいですが……。ああ、そういうことですか」
「ええ。友達いませんので」
隣に黒須美琴の名前はなかったけれど、それだけで何をすればいいかは飲み込めた。証人になってくれということなのだろう。
だが、別段そんな間柄でもない気はする。だいたいこういうものは両親なりきょうだいなりが書いてくれるものだ。頼めば
というかヘタをすると、シャンディと凛子は義理の姉妹になってしまうらしい。仲がよい黒須姉妹の絆に綻びを入れるような結婚にならないことを祈るばかりだ。
「ふむ……」
届出を一瞥して、早苗は唸った。
この女が素直に証人を頼むとは思えない。違法にサインさせる代物かもしれない。届出に細工がしてあるのでは、と透かしてみる。特に何もない。
「友達扱いされていないわ信用はないわで泣けてきますね、よよよ」
「日頃の行いのせいです」
とはいえ、なんの変哲もない普通の届出なら、署名したところで害はない。シャンディに友達扱いされるのは不気味だけれど、美琴のためならやぶさかではなかった。証人の空欄にボールペンを走らせる。
柳瀬早苗
平成7年9月17日
「しかし、ひた隠しにしてきた個人情報をこうも容易く公開するとは、どういう風の吹き回しですか」
もうひとつの証人欄へ、ニコニコしながらボールペンを走らせる董子を横目に尋ねた。微笑むばかりで返ってこなかった返事は、董子が署名を終えた直後にやってくる。狙い澄ましたようなタイミングだ。
「あたしが幸せになれるよう尽力していただこうと思いまして。だって証人ってそうあるべきですものね」
一瞬でも祝福してやろうと思った自身がバカだった。届出の証人には義務も責任もないけれど、まんまと利用されたのが腹立たしい。
「ええかげんに……」
普段封じている関西弁が出かけて踏みとどめる。今はこんな女にかまけている場合じゃない。仕事のことで頭がいっぱいなのに、これ以上気を揉まれたくない。
すっ、と心を無にして、シャンディを睨みつけたところで董子が尋ねていた。
「尽力するする! 何すればいいかな? 披露宴の受付? それとも馴れ初めビデオに出る感じ? おめでとー! って言うよ!」
「ふふ。ありがたい申し出ですけれど、それを叶えるまでにひとつふたつ、大きめの障害がありましてね」
「貴女ならひとりでどうにかできるでしょう」
冷静さを取り戻して吐き捨てるも、シャンディは首を横に振っていた。自分ではどうにもできないとでも言うように瞑目している。珍しい。
「……誰にも弱味を見せない女と、時には弱さをさらけ出す女では、どちらが気に入ってもらえると思いますか?」
そして、そんな意味不明な質問を投げてくる。いつだって自慢げに煌めいている琥珀色の瞳が、少しだけ泳いでいるように見えた。
「誰に気に入ってもらいたいのかが抜けています」
「それは言わずとも分かってくださいな」
「察しが悪いのでわかりません。質問は明確にお願いします」
「早苗?」
董子に注意された。どう考えたってあちらの方がどうかしているのに、これではこちらが悪者だ。
シャンディは躊躇いがちに告げる。
「……美琴は、弱味を見せるあたしを気に入ってくれるだろうかと……不安で……」
「はあ……?」
何を今さら。シャンディほどは美琴と接していない早苗でも、考えることなくわかることだ。彼女はひどくわかりやすいうえに、恋する乙女ばりに一途なのに。
「貴女はバカですか……」
「バカって言うほうがバカですよ?」
「では質問には答えられません。バカなので」
「……ごめんなさい」
何か悪いものでも食べたのか、と疑うくらいに今宵のシャンディはしおらしかった。董子カレーの効果かもしれない。
いつもの居丈高で高飛車で高慢ちきさは影も形もない。むしろこれでは少女のようですらあって。
「……ぷっ」
笑ってしまう。悩んでいることのレベルが、同い年とは思えないほどに低くて。
「人が真剣に悩んでいるのに笑うだなんて心がなさすぎません?」
そう抗議するシャンディの顔に焦りの色が見えて、それが余計に面白い。お高くとまった女が塗り固めた笑顔の裏は、こんなに幼かっただなんて思わなかった。
「ふふ、董子……。答えてあげてください……。私はあまりに愉快で、何も言えません……」
「早苗ってばー……」
こつんと小突かれても、笑いを抑えられなかった。頬を染めて苦虫を噛み潰したような顔を晒しているシャンディに、董子が答える。
「美琴さんはどんなシャルロットでも好きだと思うよ」
「……そうでしょうか」
「うん! 早苗もそう思うよね?」
「ええ、どう考えても……ふふふ……」
側から見ているだけでも充分わかる。美琴は本当にシャンディ以外目に入っていない。日比谷社内で美琴の争奪戦が巻き起こっていることすらいっさい自覚していないほど。
頬を染めるシャンディに睨みつけられるのも、とても愉快だった。
「で、用が済んだなら帰ってください」
が、それはそれとして。早苗には柳瀬家の治安を守る義務がある。不動産会社との契約違反に当たる不穏な女と猫を住まわせるわけにはいかない。
「いやでーす」
「とっとと帰ればいいでしょう。美琴さんが心配しますよ」
「だめでーす」
らちがあかない。もう面倒になって警察に電話をかけようとした手を制して、董子が尋ねていた。
「話してくれないかな? 私たち、尽力したいから!」
「そう仰られては仕方ありませんねー」
だめだ、董子は完全に手懐けられている。ひとりでアンティッカへ飲みに行くのを許したのが間違いだったかもしれない。余計な仕事が乗ることを覚悟した早苗に、シャンディが告げた。
「チェシャ。芦屋千枝についてお話したいことがあります」
食べ終わったカレー皿に落としていた視線を上げた。薄目を開けているシャンディに釘付けになる。もっと言えば、彼女が話そうとしている人物について。
「何故貴女がその名を?」
警戒を強める。真意を見定めようと表情筋の動きに注目する。
「元恋人、と言えば信じていただけます?」
「信じるに決まってるよ、ね? 早苗」
逆だ。関連があると言ってのけた以上、疑わないほうがおかしい。芦屋千枝は日比谷商事に仇なす危険人物。そんな人間と懇意にしていた者の発言など信用に値しない。
が、それは内容による。早苗はとりあえず言葉を急かす。
「それで話とは?」
「貴社、企画部の使途不明金について。その嫌疑が美琴にかけられているようです」
そんな話は聞いたことがない。ブラフの可能性が高いが、企画部の元本部長はセントヘレナに飛んだ小杉だ。嘘にも真実味がある。
頭の中のタスクリストに事実確認を突っ込んで、さらに質問を重ねる。
「私に話そうと思った動機は?」
「卑怯な手段で、人並みの幸せを妨害されているもので。例えば、こちらのような駒を使って」
差し出してきた名刺の名前は、宮下花奏。折しも会社を早退したあの日、美琴を取材するために訪れていた記者のもの。飯田からチェシャの関係者だと知らされた情報とも一致する。
「これでもあたしを信用できません?」
情報は揃った。が、手元の情報だけでは判断できない。そもそも一番信用のならない人物が、芦屋千枝の情報を持っていること自体怪しい。
「そうですね。貴女こそが芦屋千枝のスパイではないかと疑っています」
「董子さんもです?」
「お仕事には口出しできないからねー。ごめんね?」
「はー。日頃の行いが悪すぎましたねー……」
シャンディは背もたれに身を預け、天井を仰いでいた。落胆か、あるいはそういう芝居か。
「事情は理解しました。が、泊めるに至って条件があります」
「カレーのお野菜を提供しましたけれど。それでは不足です?」
「芦屋千枝に接近し、日比谷内部に忍び込んだ人物を本人の口から聞き出してください。手段は問いません」
「ベッドの上で聞き出せと? セクハラですよ、それ」
「元はと言えば貴女の蒔いた種。自分の尻くらい自分で拭いてください」
「まあ、えっち」
「どこがですか……」
まともに相手をする気も失せる。信用も鼻持ちもならないシャンディは、深刻な話だというのにくすくす笑っていた。
「あたしはあたしでやることがあるので、気が向けばですね。明日は遠出しなければですから」
「シャンディさん、お弁当作ろっか?」
「できればお野菜抜きでお願いしますね? あたし、お野菜と芦屋千枝は大嫌いですので」
「困った元カノさんだねー」
そんなことを言い合って、ふたりは笑っていた。
芦屋千枝が理由なら経堂に帰れない理由も理解はできる。探偵くらい雇える財力はあるし、記者を間者に使うほどだ、おそらく住居は割れている。
美琴を騒動に巻き込みたくない。その一点だろう。
早苗は判断を保留にする。
使途不明金の件を裏付けられれば、シロクロはっきり分かることだ。幸せな届出に署名されたシャルロットの隣。空欄になった場所に入る名前は黒須美琴か、それとも芦屋千枝か。
「二人の女に奪い合われて幸せ者ですね。貴女は」
シャンディは苦笑して告げた。
「あたしが欲しいのは、いつだってひとりだけですから」
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