#89 : Impossible / ep.3

「なるほどねえー」


 何度目か分からない相槌を打つと、ミシェルは「そうなの」とこれまた何度聞いたか分からない同意を返してきた。

 コンクリート打ち抜き地下の倉庫で、美琴はひたすら聞き役に回っていた。口をついて出てくるのは愚痴ともなんとも判断のつかない話ばかり。挨拶をしても無視されただとか、ストッキングが伝線してても教えてくれなかっただとか、イジメとも断言しづらいふわふわしたエピソードがとめどなくあふれてくる。


「それでねそれでね、課長って怖いんだよ? この間お茶淹れてあげたらね、他人に茶を淹れるような生産性の低い仕事をするな、そんなことに気など回すから世の女がナメられるんだーって……」

「課長さんのために淹れてあげたのにねえー」

「でもねでもね、お土産で買ったドーナツを配らなかったらね、この程度の気配りもできないのか、秘書課失格だーって……」

「どっちかにしてほしいよねえー」


 ふわふわしていても、ミシェルの話から秘書課の人物像はおぼろげに推測できた。

 宇多田りえる。彼女はミシェルをはじめとした秘書課全員を下に見ている。自分をピラミッドの頂点に置いて、下々の同僚たちにマウントをかましているのだろう。表面上は努めて対等、フレンドリーに振る舞っているのがなまじたちが悪い。

 増子怜美。彼女はしんどそうな同僚を見ると挨拶がわりに「あの日か?」と聞いてきたり、オープンな場であそこの脱毛と脱色の話を嬉々として告げるような最低限度の配慮すら欠けた存在。小学校の道徳の授業を寝て過ごしたのだろう。

 持田ラティーファ。できない人間にはとことん厳しい課長。ターゲットは主にミシェル、時々りえる。「優秀だから、ダメなわたしが許せないのかも」とミシェルは自虐的に語っていたが、本当に優秀ならパワハラやモラハラに当たる行為は絶対にしないだろう。

 そして、彼女。広尾ミシェルは。


「だよねだよね、どっちかにしてほしいよね。お茶はダメなのに、ドーナツは持ってきてほしいなんて不思議だよね。穴空いてるから?」

「そういう日だったのかもねえー」

「何の日? ゴミの日とかだった?」


 彼女は、まごうことなき天然である。


「……ともかく。だけど赤澤はやさしいんだよね?」

「うん。来瞳さんはね、赤の女王なの!」


 そしてなぜか、来瞳には懐いている。

 ミシェルの口から出てくる女神じみた来瞳評が、計算高い悪女のイメージとまったくそぐわなくてめまいがした。配下を意のままに操るという意味では、まさしく赤の女王ではあるが。


「あ! でも、美琴さんもすごくやさしいよ。こんなに楽しくおしゃべりできたの久しぶりなの」


 はにかんだミシェルの表情に目を奪われた。大勢の取り巻きがスマホすら買い与えるほど彼女にハマり込んでしまった理由がよくわかる。ミシェル沼だ。

 悔しいがかわいい。広尾ミシェル、恐ろしい子。


「それはよかった」


 地下から脱出するチャンスはここしかない。美琴は早苗の計画がギリギリ伝わらないように慎重に言葉を選ぶ。


「美琴さんといっしょに働けたらなあ……」

「働けたらいいなと思って、今日は挨拶に来たんだけどね」

「そうなの!?」

「お前の企画なんて誰でも出せるって怒られたでしょ? だったら私じゃなきゃ出せない企画を作らなきゃって思ってねー」

「あの時の課長、怖かったね……」


 椅子に縛り付けられた美琴の背が、ミシェルに抱きしめられる。背中に柔らかいものが当たっているが、これもきっとわざとではない。天然記念物級のあざとさである。


「それで、企画部に検討してもらえないか頼むつもりだったの。貴女に捕まったけど」

「でもでも、企画部は秘書課が……」


 言いかけて、ミシェルは口を噤んだ。箝口令が敷かれているのだろうが、だからと言って諦めるわけにはいかない。


「企画部と秘書課には何か関係があるの?」

「う、ごめんね……。話したら、課長に怒られちゃう……」

「大丈夫、黙っておくから。私とミシェルさんの仲だよね?」


 驚いた様子のミシェルに身を寄せてやる。これではやってることがハニートラップだが、秘書課の仕事もハニートラップである。やっていいのはやられる覚悟のある者だけだ、と沸き起こってきた若干の罪悪感を殺して、美琴はどこまでも甘えたような声を出しておいた。


「ね、ミシェル?」

「え、と。それって、わたしの特別な人になってくれるのかな……?」


 慣れない手段に出て、地雷を踏み抜いた。せいぜい友達くらいだと高を括っていたから、特別な人なんて切り出されるとさすがに決意も揺らぐ。


「舞踏会に現れた金髪さんじゃなくて、わたしを選んでくれるの……?」

「き、金髪さん?」

「あの人、舞踏会に参加させてって直談判に来たんだよ。先輩たちは気づいてなかったけど、リドル・スミスって偽名だよね?」

「そうなんだ? 他人の空似じゃないかなー?」


 例の仮面舞踏会のとき、秘書課の一員としてミシェルも参加していた。顔合わせの際も打ち合わせでもいっさい発言しなかったため印象は薄かったが、その実誰よりもあの場の動向をつぶさに観察していたらしい。


「美琴さんは外国人が好きなの? わたしハーフだからダメ?」

「人種とか国籍とかそういう話じゃなくてね」

「じゃあ金髪だから? 美琴さんのためなら染めるよ?」


 倉庫を照らす白色光では、ミシェルの髪は赤とも黄ともつかないあいまいな淡い色だ。シャンディより色素は薄いものの、これはこれで綺麗なのに染めるなんてもったいない。そして実際染められても困る。


「染めなくてもいいから……」

「わたしじゃなれないの? 特別な人に」


 答えはもちろんノーだ。特別な人にはなれない。それでも今さら引き返すことはできないし、状況を脱するにはイエス以外の選択肢はない。とは言え、あまり邪険にもできない。


「いや、いきなりはさ? 普通は段階踏むものじゃない?」

「やっぱり金髪さんの方が好きなんだね……」


 下手な断りを打つと、露骨にシュンとする。ネガティブな方向へ刺激すると、このまま地下に幽閉されるかもしれないのだ。この場を切り抜けるためには、ミシェルの提案を呑むしかない。


「わ、分かった。今度デートしよ? お互いのこと知らないと大切な人になんてなれないでしょ?」

「……りえるみたいな社交辞令じゃない?」

「約束は守る女だから!」

「ホントに……?」

「ホントホント。だからお願い。企画部行ってコンペに企画提出しないと、日比谷で働けないの」


 ミシェルは薄気味悪く口角を上げていた。その表情の意図を瞬時に悟って、美琴の背筋は冷える。

 この計画の根幹。美琴がコンペに企画を提出したという既成事実を作ること。秘書課に話してしまえば先まわりされてしまうから、秘密裏に水面下で行動せねばならなかったのに。

 話してしまった。秘書課の人間に。


「……ふうん、それが美琴さんの目的だったんだね?」


 ミシェルの手にはカッターナイフが握られていた。カチカチと刃を押し出して蛍光灯の光にかざす。鈍く輝く刀身はそのまま美琴の鼻先に向けられた。


「貴女まさか……」

「えへ、へ。動かないでね」


 ミシェルは腕を思い切り振り上げている。

 やはり彼女もまた、秘書課の一員だ。天然だと思わせて警戒心を解き、ものの見事に隠していた秘密を明るみに引きずり出してしまう。

 計画は失敗だ。死を覚悟した。


「んしょ、んしょ……。はい、切れたよ?」

「え……?」


 咄嗟に瞑っていた目を開ける。何も起こっていない。痛くもない。むしろ窮屈な体が解放されたような感覚。

 視線を下ろすと、美琴を巻きつけていたクラフトテープが縦一文字に引き裂かれていた。


「縛ってたらデート行けないもんね?」


 告げるなり、ミシェルに手を取られて美琴は立ち上がった。若干の立ちくらみ。白んできた頭で捻り出せたのは、間の抜けた声だ。


「秘書課には言わない……?」

「誰にも言わない、秘密のデートだよ」


 はにかんで上機嫌なミシェルに腕を組まれ、美琴は地下室をどうにか無事に脱出した。

 どうやらこれからデートらしい。

 頭の中は、シャンディに知られないためのアリバイ工作でいっぱいだ。話せば許してくれるだろうが、許してもらうまでの間に何をされるか分かったものではない。


「だいじょうぶだよ。わたしも付き合ってる人いる……らしいから」


 だいじょうぶどころか余計に問題だ。女相手だからノーカウントとでも言うつもりなのだろうか。


「あ、ああ。そうなんだおめでとう……」

「うん。男の子が9人で、女の子が2人。でも、付き合うってよくわからないから……告白されたらオッケーするしかなくて……」


 広尾ミシェルは正真正銘の天然であり、その天然さが結果的に魔性に繋がっているという天災級の天然なのであった。


「彼氏彼女かき集めたらサッカーチーム作れるねー」

「あ、ホントだ。今度話してみようかな」

「楽しそうだねー」

「美琴さんは審判する?」

「わーいするするー」


 もはやヤケクソになって、美琴は笑っていた。


 *


「あー! なんっにも出てこねー!」


 リビングのコの字ソファの特等席に陣取っていた琴音は、苛立ち混じりに長い髪をかきむしった。タブレット端末のメモ帳には『企画会議!』と書かれたままで、まっしろだ。


「凛子ちゃんも考えてよー。推しのチャンネルのネタ出しできるとかファンとして光栄でしょー?」

「無理」


 離れた場所で洗濯物を畳みながら、凛子はバッサリ切り捨てた。

 横浜みなとみらいのマンションには最近、自分の洗濯物は自分で洗うというルールが追加された。推しの下着が出てくると「無理!」になってしまう人間がいるためだ、致し方ない。


「や、なんかあるでしょ。あの琴音があんなことやこんなことに挑戦! みたいなさー」

「あるけど言わないの。私が出したネタがもし採用されたら、私が貴女の動画楽しめないじゃない。だからネタ出しもしないし撮影の手伝いもしない」

「なんだよそれー。ジャーマネの仕事じゃないん?」

「8:2でファンだから」


 凛子はマネージャーだが、それ以上にネタバレを許さないタイプの熱狂的な琴音ファンである。裏方に回ってしまったせいでどんな客より早くネタバレを喰らってしまう凛子にとって、自分が制作に関わらないで済む琴音コンテンツは貴重だった。


「なんでもいいから動画撮って上げればいいじゃない。キャラを崩さない範囲で」

「ラーメン食う動画とか上げりゃいいワケ? クソつまんないでしょそんなの」


 琴音が開設したチャンネルに上がっている動画は3本。モーニングルーティーンと雑談しながらパスタを食べる動画とナイトルーティーン。天下の女優も、ネットの世界ではただ起きて食って寝るだけの人に成り下がっている。


「じゃあイチからラーメンでも作ったら? 適当に小麦粉でも買ってさ」

「めんどいけどそれにしよっかな……」

「はい、私のネタ採用禁止」


 今の一瞬で、ネタが一本消えてしまった。ネタバレ過激派の凛子に意見を求めれば求めるほど、自分の首を絞めることになるのである。

 ネタを出せば出すほど琴音を苦しめられる。その楽しさに気づいたのか、凛子はにんまり笑ってスマホをイジりだした。


「実は私、結構ネタ考えてたの。たとえばね」

「や、待って。採用禁止なんでしょ」

「聞きたくないの? 参考になるかもしれないのに?」


 凛子は楽しげに笑っていた。打ち解けると、彼女はこんな顔をする。今までまったく知らなかった凛子の一面が嬉しくて、もっと感情を、恋心を盗みたくなってくる。盗めば盗むほど、企画は消えていくのだが。


「教えて。参考にすっから」

「ボツになったアンケートの話とかどう?」


 凛子の言うアンケートとは、トーク型のバラエティ番組の準備に必要なものだ。

 バラエティでは、前もって出演者のエピソードトークを把握してから収録なり生放送を行う慣例がある。出演者は事前に番組側の用意したアンケートに回答し、使われるかどうかの判断を待つことになる。使えないエピソードは当然ボツだ。


「ボツネタ話すってこと?」

「そ。ボツネタを話して、何がボツだったか分析して、最後に改善点まとめて締めるの。女優の黒須琴音がなんでこんなバラエティにストイックなの? ってシュールさが売りになると思う」

「マジで使えそうなネタ言うのやめてくんない?」

「だったら、お隣さんを参考にしたら?」


 凛子は隣人・犀川ひふみのチャンネルを見せてきた。さすがにネットから火がついたシンガーソングライターだけあって、登録者数は琴音の10倍以上。文字通り桁が違っている。

 アップされている動画は、音楽PVとゲーム実況。ただ、彼女のプレイするタイトルは昨今のゲーム人気にひたすら逆行したレトロゲームであり、ゲーム実況なのに一言も喋らず黙々とプレイするだけだ。再生数はひたすら低い。


「やる気あんのかアイツは……」

「本業で稼いでるんだからいいの」


 適当にひふみのチャンネルを眺めていると、新着の動画が躍り出た。『犀川ひふみの仕事場見せます』というサムネイルを何気なくタップすると、あれだけ人前に出るのを嫌がるひふみが顔出しで登場している。


「ひふみ、顔出ししてるけどいいん?」

「何それ。私聞いてないんだけど」


 マネージャー辞める宣言をして出て行った凛子だったが、結局黒須琴音、犀川ひふみの担当として元の鞘に収まった。ふたり分の仕事のスケジュールを把握している凛子ですら知らなかったらしく、怪訝な顔で同じスマホを覗き込んでいる。


「つかこれ誰が撮ってんの。スタッフ雇ったん?」

「友達とか知り合いとか頼ったんじゃないの?」

「ひふみに友達なんているワケねーじゃん」

「それもそうね……待って。この撮影スタッフの声……」

「ん?」


 動画のシークバーを前に戻し、撮影スタッフと思われる人物の声にふたり揃って耳を澄ます。聞こえてきたのは確かに聞き覚えのある声。そして、伊予弁。


『今日はひふみんの仕事場訪問なんよ!』

『うん……。どうぞ……』

『ひふみんっておウチでお仕事しとるんやね〜』

『そう……。家……』

『イエーイ! 家だけに』

『いえーい……』


 凛子と目を見合わせた。


「何やってんだあのバカは……」


 着のみ着のまま、琴音と凛子は隣人・犀川ひふみ宅の呼び鈴を鳴らしたのだった。

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