#85 : On the Radio / ep.1
「見つけられると思う? 凛子のこと」
琴音の電話を受けてから小一時間。車中に流れる沈黙を破ったのは、こみ上げる笑いを押し殺した伽耶の声だった。
琴音が迎えに来るか、来ないか。
これは悪趣味な賭け。シャンディにそそのかされた恋愛遊戯だ。
凛子の実家が浜松にあることくらいは琴音も知っているだろうが、それ以上の情報はない。おまけに現在地は実家近くのショッピングモールの駐車場だ。
もしここで琴音と出会えたら、愛の奇跡とやらを信じてもいい。
バカげた夢物語が一瞬脳裏を掠めるも、すぐにあり得ないことに気づく。
なぜなら今日は、水曜日。
「……ラジオつけていい?」
伽耶の許可を得て、カーステレオで地元FM局にチューニングを合わせた。耳慣れないローカルCMの直後、何度となく聞いたジングルと声が車中に聞こえてくる。
『始まりました。昼下がりの皆さんを応援する番組、《チアアップ》。水曜日パーソナリティ黒須琴音が横浜はFMみなとから全国38局ネットでお送りします』
気だるい午後にちょうどいい落ち着いた声色で、4時間の生放送が始まった。
つまり、高橋美琴――いや、黒須琴音が凛子を迎えにくることはない。
凛子は、シャンディが最後に残した言葉を思い出していた。
*
「なにが薄桃色の恋愛遊戯よ……」
「あら、綺麗だと思いません? 凛子さんにぴったりだと思いますけれど」
先ほどまでの涙はなんだったのかと疑うような変わり身の早さで、シャンディはくすくすと含み笑いを浮かべていた。
「遊戯で確かめるんです。琴音さんが貴女をどれだけ愛しているのか」
「あのね。だから私は……」
「せっかく恋愛の甘い汁だけ吸えるのに、捨てちゃうなんてもったいないと思いません? 手のひらの上で転がして、思う存分チヤホヤしてもらって、飽きたらポイ捨てすればいいだけの話でしょう?」
まるで悪辣な魔女のようなシャンディの言葉で怒りの炎が燃え盛る。
と同時に、どうして自身が怒っているのか分からなくなる。たとえシャンディが言うとおりにいいとこ取りしてポイ捨てしても、傷つくのは琴音であって凛子自身じゃない。
「……貴女と一緒にしないで」
「今の反応が答えです。琴音さんを想う気持ちがあるからこそ、卑劣なマネはしたくない。だから今、ムッとしたんでしょう?」
「…………」
「琴音さんのことを想うなら、遊戯を仕掛けてあげてくださいな」
「……どうしてよ」
「絶対に叶わない恋だと理解しない限り、恋心は燻り続けるものですから」
慈しむような潤んだ瞳が見つめていた。
凛子自身、覚えはある。今の琴音と同じように、痛々しい片想いをしていた凛子にトドメを刺してくれたのは誰だっただろうか。
「それが、せめてもの優しさですよ。凛子さん」
*
「ラジオ聞いて籠城のつもり?」
「好きなの、この番組。放っておいて」
「ふーん」
凛子は、シャンディの指示通りに行動していた。琴音に対して仕掛けた賭け――恋愛遊戯はシンプルだ。
《今すぐに、愛のチカラで私を迎えに来て》
本当は賭けにすらならない一方的なものだ。琴音はどう頑張ったって今すぐは動けない。そして今すぐ迎えに来れなかったがために凛子の心は離れてしまう。悲しい運命のイタズラが、破局につながる筋書きだ。
「それじゃ、こうしよう。このラジオが終わるまでに高橋美琴が迎えに来たら、私は凛子を諦める。だけど、迎えに来なかったら」
伽耶の手が太ももに伸びてくる。飲み会でセクハラ上司に触られた時と同じくらい不快だったが、都会を――そして琴音を忘れるためにはいいのかもしれないと自身に言い聞かせる。
「好きにして」
「そうするねー」
付き合っている頃は、下心丸出しの伽耶の下品な笑みにも胸をときめかせたものだった。今となっては笑みも声も姿にも嫌悪しかない。ダメ押しとばかりに伽耶は八重歯をちらつかせて得意げに尋ねてくる。
「そういえば高橋美琴ってどんな女? 芸能人で言えば誰?」
「黒須琴音に激似」
「あはは、あんな美人に激似とかありえないから。恋は盲目だねー」
「顔も体も好き」
「なら性格悪いんでしょ?」
「…………」
ささやかでも伽耶に復讐したくて琴音を褒めちぎっていたのに、性格については素直に否定できなかった。実際好きになれないから仕方がない。
ただそれは、女優モードの琴音と比べたときの話。推しとして琴音を見なければ。偶然出会って腐れ縁気味になり始めている人間として琴音を見ればどうだろうと考え直してみる。
「伽耶よりは何倍もマシ。バカだけど、謝れるバカだから」
「そういうこと言うんだ? まあ、私はバカだからさあ」
太ももをまさぐっていた伽耶の手が、内側へ、より奥へと伸びてくる。
抵抗する気力もなかった。どうせ琴音は迎えに来ないのだ。ラジオの放送が終われば、伽耶は車を郊外へと走らせるだろう。田舎の国道沿いには、大抵は愛を深めるホテルがある。遅かれ早かれ同じこと。
「バカでも覚えてるんだよね。凛子の気持ちいいトコくらいは」
指の這う感触が、薄い布越しに伝わる。
気持ちよくなんてない。ただ痛い。
「昔みたいに楽しもうよ、凛子」
「……もう無理よ」
「嘘つかなくてもいいって。だってこんなに――」
『待って待って! 言い忘れてました』
さらに先へ指を進ませようとする伽耶を止めたのは、電波に乗った琴音の声だった。
『本日のメールテーマはそろそろ夏ということで……灯台です』
心臓を鷲掴みにされたような心地だった。
助手席側へのしかかってきた伽耶を押し戻して、凛子はラジオの音量を上げた。琴音の声色は清楚で清廉な女優そのものだ。だが、ほんのわずかに裏返った声を凛子は聞き逃さない。
『実はわたし、大好きなんです。灯台』
「あ、あのバカ! なんてこと――」
公共の電波を私物化して何を言い出すつもりなのか。曲がりなりにも元マネージャーなのだ、胃がきりきりと痛む。それとは別に、推しの声色で「大好き」なんて言葉を囁かれてしまって思考がパンクしてしまいそうになる。
「なんなの、凛子。そんなにラジオが好き?」
「黙ってて!」
『やっぱり生きてると迷うことは多いですよね。それでも灯台は、道に迷える旅人のために、ずっと佇んでいてくれるんです。「ここにいるよ、いつでも待ってるよ」って』
カーステレオのスピーカーに耳を近づけた。灯台についての豆知識を楽しげに語る琴音はいつも以上に楽しそうで、そして凛子にだけは分かる寂しさや憂いを帯びている。
『あと、やっぱり。灯台は大きくて辿り着けないし、手が届かない高嶺の花。だから惹かれちゃうのかもしれません。喩えるなら、そうですね。憧れのお姉さんみたいな……。あ、すみませんこれ伝わります?』
ラジオスタッフの笑い声が入って、琴音は灯台についてのメールを呼び込み始めた。事情を知らないリスナーたちには、アレが公開プロポーズめいたものだなんて分からないだろう。
琴音にとって灯台とは他でもない、凛子のことだ。
突如として横浜から呼びかけられて、全身によどんでいた気だるさが軽くなる。
当然だ。これまで推しの声を聞いて、姿を見て、元気を出してきたのだ。
そんな推しが、ラジオを私物化してまで何かを伝えようとしている。
そんな勇気ある行動を応援しないで、なにがファンか――。
「ちょっと待ってよ、相手は私なのよ!? あり得ないって!」
凛子はただただ混乱していた。
ファンとして背中を押したい気持ちと、マネージャーとしての責任感。
認知されてしまっていることの拒否反応に、《アロマティック》へ偏見を抱かれていること。
もう分からない。この感情を定義できない。
「凛子、ひとり言増えたね? ていうか何? そんなに高橋美琴に未練あるわけ?」
「未練なんて……」
ない。だなんて答えられるはずがない。
凛子の脳裏を覆うのは、琴音との悲喜交々だ。隣に元交際相手が居ても、秘所に指を這わされていようとも、浮かぶのは彼女の姿だけ。
「……元々はね、憧れだったの。初めて見た瞬間、目で追っちゃって」
「凛子ってそうだよね。私のときだって一目惚れでしょう?」
伽耶の返答など耳に届かなかった。凛子の脳裏に思い浮かんでいたのは、初めて琴音を見た4年前の舞台。観劇趣味の友人に連れられて観た舞台の脇役としてひときわ輝きを放っていた、当時19歳の新人女優。
「主役じゃないのに、すごく綺麗だった。また会えたらいいなって、隅々まで探したの。そしたらやっと出会えて。嬉しかった。生きててくれることが……」
「……主役?」
舞台を終えた直後、琴音の詳細を探った。今や黒須琴音で検索すればすぐに事務所ページやウィキペディアが出てくるが、当時は劇場フライヤーの片隅に小さな文字でクレジットされているだけの端役だった。
来る日も来る日もネットの海を――下手をすれば琴音本人以上にエゴサーチしていた凛子は、ようやく開設したばかりの琴音のインスタに辿り着き、そこで出世作となるドラマの放送が決まったことを知った。
「私はね、生きててくれるだけでよかった。私のほうなんて見ないで、ずっと前に突き進んでくれてれば嬉しかったの」
その後はあれよあれよという間に琴音は売れていった。キャリア初期から見届けている琴音が芸能界に羽ばたいていくのが、ただただ嬉しかった。
「だけどね、振り向かれてしまった。ずっと前だけ見ててほしかった人が、私のほうを見始めたの。私なんかで妥協してほしくなかった」
「あはははっ。いい歳こいてそんなプラトニックな純愛してるの? イタいなー」
推し活に理解のない伽耶からしてみれば、確かにイタいことなのだろう。
だが、現実の琴音を認めることなんて凛子にはできなかった。
琴音は粗暴な言葉遣いはしないし、いつも柔らかに微笑んでいる。質素倹約やときおり話す節約エピソードのような、実は庶民的というキャラクターで、バーキンを買ったり即金で車を買ったりしない。
なにより風俗を呼んだりしないし、あろうことかキャストを水揚げしようと100万円の札束を叩きつけたりしない。
「でもね、1個だけ確かなことはあるの」
琴音のこれまでの行動は、気まぐれなようでいて終始一貫していた。
水揚げの時も、ホテルへの潜入の時も。失恋した凛子を慰めて、姉に対して釘を刺しにいった時も。職を追われ家も失いそうになった時も、あの時の法外な要求も。灯台の話も。
「あの女は、私を必要としてる」
推しを応援するのがファンの務め。
ならば、推しがファンを必要としたら。
「あーあ、結局いっしょになっちゃった。心の中でバカにしてたんだけどな、バンドマンにヤリ捨てられてもいいとか言ってるガチ恋勢のこと……」
「うっわー、しかも相手バンドマンなの? 凛子もう27でしょ? そろそろ目覚まして現実見たら?」
「伽耶よりは見てるよ」
「あ?」
秘所をつねられる、鋭い痛み。
もう無抵抗でいる理由もなくなって、スカートの中に入り込んでいる伽耶の腕を払い飛ばした。
「伽耶の不倫相手になる気はないから」
「だから不倫じゃないって。ただのセフレ。恋愛未満」
「無理」
「あっそ、じゃあ喋っちゃおうかな。お義父さんお義母さんとお兄ちゃんに、凛子の秘密」
伽耶の次の一手は脅しだった。
「お義父さん、凛子の結婚式とか子どもとか、すっごく楽しみにしてるんだよねー。そーんな優しいご両親がホントのこと知ったらどうなると思う?」
凛子は静かに息を吐いて告げた。
「言えば? 実の娘はレズでした、って」
「…………」
「それで縁切るような親ならそれまでよね。27年間ありがとうございましたって感じ」
「世間体って言葉知ってる? せめて家族は大事にしないと」
「じゃあ私の代わりに大事にしてあげて?」
「は……?」
「だって伽耶は白井家の長男の嫁だもんね、世間的に」
ありったけの悪意を込めて、伽耶の現状を皮肉ってやる。いつもならただ激昂しているところなのにするすると言葉が出てくるのは、間違いなくあのバーテンダーとやり合ったせいだ。
いや、今日くらいはせいではなくおかげにしておこうと凛子は密やかに思う。
「ホント兄貴がいてくれてよかったー。やっぱり持つべきものは田舎の長男だよね。私レズだから守れないんだよね、田舎のしょうもない世間体」
みるみるうちに伽耶の顔面に血が昇っていく。
爽快だった。きっとシャンディは、自身を相手にしている時にこんな気持ちになっていたのだろう。そう思った瞬間、やっぱりムカついたが。
「それに、ゆくゆくは別の家の人間になっちゃうかもしれない私がしゃしゃり出ちゃったら、兄貴の顔に泥塗ることになるもの。それも世間体よくないよね。だからよろしくね」
「女同士で幸せになれるなんて本気で思ってるの?」
「もしかして貴女は幸せじゃないの? 大好きな家族と暮らしてるのに?」
何も言わず、伽耶は軽自動車のエンジンをかけた。チャイルドロックが掛かっているため、助手席の内側からドアを開けることはできない。
動く密室だ。
「高橋美琴を待ってくれるんじゃないの?」
「気が変わった」
伽耶はそれだけ言って、ショッピングモールの駐車場を出て郊外に向かう。行く先はどうせ、国道沿いのラブホ街だ。
言葉で言ってダメなら、体に言い聞かせるつもりなのだろう。伽耶の中で形作られている凛子の夢幻は、絡み合えば靡くような都合のいい存在なのかもしれない。
助手席から見える元恋人の険しい横顔が、一周回って憐れに見えた。
「夢見がちだよね、伽耶も」
夢を追う伽耶の一方で、凛子が見ていた夢は醒めた。
ラジオから聞こえてくる、大好きで大嫌いだった推しの声に耳を傾ける。完璧に演じる女優にしては珍しく、どこか喋りのピッチが速い。焦っている。
当然だ。
復縁の条件は、絶対に勝ち目のない遊戯に勝つ――今すぐ凛子を迎えにくる――こと。
どこでもドアでもない限り、今すぐなんて不可能。
『では高速道路のじゅっ……渋滞情報を道路交通センターの香川さん、お願いします。噛んじゃった』
軽い談笑のあと、道路交通情報が読み上げられる。首都高湾岸線での事故渋滞や関越道の工事に伴う車線規制に続いて、珍しく琴音が質問を付け足す。
『香川さん、東名道の状況は? あとその、午後五時頃にかけて』
『え、ええと。現在は東名・新東名ともにスムーズですが、未来のこととなると……』
『あ、ですよね。すみません。ちょっと気になってしまって』
平静を装っているが、琴音は内心必死なのだろう。ラジオが終われば例の赤のSUVで高速道路をひた走るつもりだ。午後五時に出れば、七時前には浜松に到着する。
「ホント、バカだよね……」
元恋人に半ば拉致されてホテルへ連れ込まれようとしているだなんて客観視するまでもなくロクでもない状況なのに、凛子の注意は焦った琴音の一挙手一投足に向けられていた。
台本を噛むくらい焦って、普段はやらない道路状況の確認までして、失敗をいくつも重ねている。
清楚で完璧なカメレオン女優・黒須琴音のイメージはもう消えた。
琴音は完璧じゃない。
動揺を隠して演じきることのできない、まだまだ未熟で小さな舟。大海に出れば、位置が分からずにいつかは遭難することになる。
灯台になれる人間はひとりしかいない。
「早く迎えに来なさいよ、バーカ」
助手席側の窓ガラスに映った凛子の表情は、呆れたような、困ったような。それでいて柔らかく微笑んでいた。
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