#74 : Lighthouse / ep.1
「あらあら。凛子さんに心理戦は早かったようですねえー」
《イエス・アンド・ノー》遊戯は、散々な結末を迎えていた。
4月末。たまたま平年より気温の高かった夏日に、5キロの距離を走ったのである。
白井凛子、今年で27歳。もうそろそろ若さに陰りが見え始めるお年頃。学生時代は無尽蔵のようにさえ思っていた体力も、アラサーに片足突っ込んだ今はそうもいかない。
さらに帰宅してすぐ、凛子はシャンディと暗黙のうちに始まった酒飲み対決でその酒量を競ったのだ。運動で疲労し、軽い脱水状態。そんな状況で蟒蛇めいた金髪女と乾杯を重ねれば、ちょっと酒に強いくらいの人間に待ち受ける結末は推して知るべしであった。
「ま、吐かなかっただけ頑張ったじゃん? よく耐えたよねー」
横浜への帰りの助手席で、凛子は息浅く唸っていた。イガイガする喉から吐いた息は湿っぽく生ぬるい。鼻を刺すような刺激臭もする。
「つか、シャン姉もさ。あんだけ心配するならハナから酒で張り合うなっつーね。あの女マジ強いし」
「一生の不覚……」
経堂の――かつての想い人と、その婚約者のクソムカつく女の――愛の巣で、青黒い肌を晒して必死に耐えたのが数時間前のこと。ガンガン痛む頭と眩む視界が捉えたのは、クソムカつく女ことシャルロット・ガブリエルが見せた、まるで白衣の天使か敬虔な修道女かと見紛うばかりの心配そうな顔だ。
「あの家でやらかしたら……一環の終わりだった……」
「姉ちゃんいるから? それとも、推しに無様な姿見せたくない恥ずかしい! とか?」
「どっちも違う……」
現在の雇い主で推しの琴音、元想い人の美琴に見られることなど、彼女に比べればどうでもいい。
よりにもよって一番見られたくない人間の前で無様を晒してしまったのである。敗北感は壮絶だ。
「あの女に見られた。死にたい……」
「あっはは。どんだけ嫌いなんさ」
「貴女より嫌い!」
「なんで? シャン姉ってヤな女のフリしてるだけでゲロ甘じゃん」
「目曇ってるの? 眼科行ってきたら?」
「裸眼で2.0」
「マサイ族なの? ていうか普段クソムカつくのに弱ってる時だけ優しい顔してくる人間なんて男も女もロクなもんじゃ――うぷ」
そして、白衣の天使か修道女に陰口を叩いた者には天罰が下ることになる。
正しくは、天罰が下から昇ってくるのである。
「ちょ待ってまだ新車なんだけど! 吐くなら袋とかあんでしょ!?」
「……貴女のバーキン、ちょうどいい大きさだよね…………」
「おいおいおい勘弁してよ車停める……って首都高パーキングエリア少なすぎだろ!?」
「ごめん……無理…………」
「無理とか言うなーッ!」
この日、琴音私物の200万円のバーキンが、質屋も恐れおののいて買取を辞退するほどの薫り高いプレミア商品に成りはてたのだった。
*
「あーあー。財布の中まで薫り高くなっちゃって……」
自宅マンションまで担ぎ上げた凛子に気付けの水を飲ませ、琴音は真っ先に風呂場へ向かっていた。サルベージ作業だ。
見るも無惨な財布や化粧ポーチを救い出すことには成功したものの、肝心のバーキンは尊い犠牲だ。これなら助手席で吐かれた方がまだマシだったかもしれないと、生活防水機能に感謝して、スマホを水洗いする。
ホーム画面には凛子を心配する姉からのメッセージ通知が踊っていた。
無職で現在求職中の姉。他人の心配している場合なのだろうかと呆れてしまうが、自分よりも他人を優先してしまうのが黒須美琴という人物である。
「ホント、困った姉ちゃんだよ」
呆れつつ発したひとり言だったが、嬉しさがにじみ出ていた。
美琴は変わった。
子ども時代から続いていた見栄っ張りな気質は、今は形を潜めているらしい。残っているのは容姿と、見栄っ張りのクセが染みついた結果の、どこか自己犠牲的なオトナじみた包容力。
それが美琴にとって良い変化か悪い変化かは琴音には分からない。というより、琴音が判断することではない。ともかくも姉は妻に巡り逢って、不要な背伸びをしなくてもいいと気づいた――いや、自身に折り合いを付けたのだろう。
「折り合い、か」
折り合いをつける。裏を返せば、何かを諦めるということ。
美琴が背伸びをしていたのは、美人ゆえのやっかみから自分を守るための殻だった。美人というだけで周囲の対応は変わる。同性から疎まれないようにすればするほど異性受けは悪くなり、異性に相手にされたければ同性受けを切り捨てねばならない。
なら同性愛者の場合はどうなのだろう。どうやれば同性に――それも同性OKな人に――受けるようになるのだろうと考えて、思考をやめる。そんなことが分かっていれば初めから苦労などしない。異性もOKな美琴と、自分は違う。
ともかくも、美琴はシャンディのおかげで殻を破った。必要以上に八方美人の化粧を施すことを諦めた。折り合いをつけたのだ。
だが、自分の場合は。
「ダメだ。思考ループしてる」
忘れよう。そう意識して、ダメ元でクリーニングに出してみようとバーキンを拭っていた琴音の手は止まった。
「姉ちゃんだけ灯台見つけてズルいよ」
灯台は自分が自分であるための証明。役者を船とすれば、灯台に喩えられるもの。
人でも物でもいいと気難しい役者は言っていたが、意味合いとしてはすなわち、アイデンティティの在処。寄って立つもの。
たとえば、今は亡き老俳優の場合は、「私は釣りとクルーザーと海釣りが大好きな人間です」と自己紹介するためのもの。
美琴の場合は、「私はシャンディを愛している人間です」とでも言って、他者や他人の存在を自らの在り方にすること。
だが、自身の場合は――
「わたしじゃない私を見てくれる人なんて、そういないのに」
――黒須琴音のプライベートは、横浜みなとみらいのマンションの中だけだ。
最近はインスタライブを始めたがために、そのプライベートすらも侵されつつある。部屋を一歩出ればパブリックな女優。公衆の面前の前では、姉のような大恋愛もできない。
タレントゆえの悲劇。だが嘆こうものなら、返答は贅沢言うなの一言だ。
自分で選んだ道なんだから。
みんなお前の居る場所に立ちたいんだ。
有名税だ、我慢しろ。
そういった言葉で叩かれるたびに、私の中のわたしが強くなる。皆から愛される、清楚で清廉潔白で、いつもにこやかに微笑んでいる姿。どんな芝居だろうとどんな仕事だろうとそつなくこなす姿。皆の憧れの存在としての姿。
「はー、メンタル病むわー。これが自粛鬱ってヤツか? ははは」
乾いた笑いでぬぐい去っても、悩みは吹き出すばかりだった。
琴音はリビングに舞い戻る。凛子と、凛子を寝かせたお高いソファが心配だ。寝ゲロでもしようものなら給料から天引きしてやるつもりだったが、どうやら杞憂に終わった。
「凛子ちゃん、ダイジョブ?」
凛子の返事はない。横になって微動だにしない彼女は安らかな顔で眠っている。大酒を飲んで吐き戻した後だからか、顔色はいくぶんマシになっている。それでも疲労とアルコールはしっかり残っているようで、半開きになっている口からはよだれと、ゴガッといびきの音がした。
「ちょい空けてね、ソファ」
寝転ぶ凛子の頭を掲げて、自身の膝枕に落ちつかせた。万が一にも寝ゲロをされると、気道が詰まることがある。だから気道確保は何より大事だといつかの打ち上げで聞いた知識からではない。ただ、そうしたかった。
途端、胃液で喉をやられたであろう擦れた声が聞こえてきた。
「推しに膝枕されてる……無理…………」
「起きてたん?」
「さっき起きた」
「いびきかいてたよ。んごーって」
「……忘れて」
「忘れたくても忘れらんないって。バーキンとか」
凛子は沈黙した。眠いのか、疲れているのか、早めの二日酔いで重怠いのか、不甲斐なさに自分を責めているのか。それともそれらすべてか、と凛子の一挙手一投足を待っていた琴音への返答は、思った以上にしおらしいものだった。
「……ごめん、弁償する……」
「気軽に弁償とか言うのやめときな。あれいくらすると思ってんの?」
「……やっぱナシ」
肩の力が抜けた。琴音に対しては頑固で意固地そのものだが、こういう時は甘えてくる。ただそれはブレていない証拠。
凛子は身の丈に合わないことはしないし、できない。ハッキリ自分と他人の間に境界線を引いている。それが凛子が付けた、折り合いなのかもしれない。
「あはは。酔い潰れるとそういう感じになっちゃうワケね」
「くだらない意地張って自爆して、推しにまで迷惑かけるとかもう、最悪……」
「いーよ別に。バーキンはクリーニング出してみるから」
わずかに凛子がため息をついた。安堵のため息だろう。
「幻滅したでしょ……クビにしたかったらどうぞ……」
「なんで? 凛子ちゃんの普段とは違う一面知れて嬉しいんだけど」
「意味わかんない……ついでに認知拒否……」
「あーね。何て言えばいいんかな……」
凛子にも分かるように的確な喩えを探そうとして、琴音は記憶の糸をたぐった。役作りの時と同じ、過去の体験とその時の感情を引き寄せる。
「レゴってあるじゃん。踏んだら痛いヤツ」
「踏むモノじゃないでしょ……」
「ん。新しいの買ってもらった時の嬉しさ? みたいな感じ。持ってなかったパーツが増えたら嬉しいじゃん。キラキラした水晶ブロックとか頭に被せる王冠とか。凛子ちゃんやったことない?」
「子どものとき呑み込んで怒られたから……嫌い……」
「飲むモノじゃねーよ」
「小さかったんだから仕方ないでしょ……。どうせ私は、小さい頃からバカだよ……」
「面白いじゃん。私は好きだけどね、凛子ちゃんのそういうとこ」
「……私なんて相手にしないで」
「凛子ちゃんだからいいんじゃん」
凛子の言葉が引っかかった。普段は決して見せることのない、凛子が覆い隠している何かが見えている。
他人の心に踏み込むべきではない。そう頭では分かっていても、人間を知りたい女優としての――いや、職業柄など関係なく、凛子のことを知りたいと思ってしまう。
勇み足になればそれこそ確実に嫌われるかもしれない。灯台になるどころか、ここから去ってしまうかもしれない。
だが、硬直した関係を前に進めるためには他に方法もない。
「ね、凛子ちゃん。《イエス・アンド・ノー》の続きしない?」
結局、さほど悩まず即決したが、凛子の返答はどこまでも予想通りだった。
「しない」
「バーキンをゲロまみれにしたのに?」
だからこそ、卑怯な手に打って出る。しばしの沈黙。返答までの間、手持ちぶさただった手で膝枕した凛子の頭を撫でた。
相当気怠いのか、手は払いのけられなかった。凛子の艶やかな黒髪をゆっくりと撫でる。指の間をくすぐる長髪は、手入れが行き届いている証拠。これほどに時間と労力を割いてまで美をまとって、彼女はどうしたいのだろう。知りたい。それが自己満足なのか、あるいは誰かに受け容れられたいからなのか――。
自分以外の誰かに凛子が好意を向けていたとしたら。想像した途端、琴音の心を靄が覆った。
「……1問だけ、付き合ってあげる」
「質問1回200万円か。高いなー」
「アレそんなにするの……」
「バーキンの中じゃ安いほうだよ。限定とかアンティークとなれば天井知らず」
「……2問でもいいけど」
思わず吹き出してしまった。精いっぱい譲歩しても1問100万円というところが凛子らしい。
そしてそんな、頑固で自分を貫き通すあまり他人を突き刺すことも厭わないところが好きになる。
「んじゃ、答えてくれる?」
沈黙は無言の肯定。そう受け取って、琴音は意気込んだが末にとうとう言えなかった質問を投げかけることにした。
「凛子ちゃんはさ。黒須琴音に愛される資格がないとか思ってない?」
「…………」
返答は沈黙。すなわちそれは無言の肯定である。
凛子さんには心理戦はまだ早い。酔い潰れた直後にシャンディが告げた言葉を琴音は思い出す。要するに、凛子には抽象的な言葉は通じないのだ。もっと深く、それこそ本心に踏み込んでズタボロに踏みつけるようなことをしなくては、きっと心を開いてはくれない。
「考えたんだけど、分かんないんだよねー」
「なに、が……」
「や、凛子ちゃんって私のガワは大好きなワケでしょ? で、ガワに合うように……っつーか、私が演じてるわたしが好きじゃん? ま、だからこそ理想像から外れた素の私は嫌いなんだろうけど」
凛子は黙したまま、膝の上で小さく頷いた。
やはり凛子は、自分を見てくれていない。それが悲しくはあるけれど、だったら変えるまでと心に誓う。
「じゃあさ、2問目。私が仮に、清廉潔白なわたしそのものだったら、凛子ちゃんは付き合ってもいいと思う?」
「……推しだから、無理」
「それなんだよね。その推しってのがやっぱわかんない」
「推しは推しだから。貴女だって、尊敬する役者とか映画監督とか居るでしょ……。だけどそれは尊敬であって、付き合うとか結婚とかではないじゃない……」
「んなことは私だってわかってる」
推しの感情くらいはハナから理解していたことだ。「好き」と一口に言っても、その意図は感情の数だけある。琴音は恋慕と好奇心を向けているが、凛子はただ尊敬や憧憬を向けているだけ。初めはそう思っていた。
「けどさ、違う気がすんのよ。で、もう1問、オマケでいい?」
「……いや」
これまで沈黙で肯定してきた凛子が初めて声を上げた。
おそらくこれが、凛子の秘めたる本音に続く心の壁。この壁を打ち壊すための武器は、もう持っている。
「どして?」
「回答拒否」
「ふーん?」
好奇に湧く心と、踏み込んで傷つけてしまう罪悪感。そのふたつを深呼吸して飲み下し、琴音はゆっくりと3問目を尋ねた。
「風俗嬢の私には、女優と付き合うなんて似合わない?」
凛子は固まっていた。
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