#75 : Lighthouse / ep.2

「そうだ、風俗やろ。凛子ちゃん働いてくれる?」


 若手事業家・広尾あゆるは、脈略も突拍子も、デリカシーさえも持ち合わせていなかった。


「京都行くようなノリで言わないで。それと男は無理」

「いやいや、私たち向けのお店だから! 凛子ちゃんにピッタリだよね、まさしく天の配剤?」

「パワハラ、セクハラ、モラハラ。トリプル役満なんだけど?」

「あゆるちゃんは凛子さんのこと家族だと思ってるから大丈夫なんだな、これが」

「家族だと思ってるなら風俗で働かせないで。お疲れさま」


 遡ること2年前。凛子があゆるの経営する《オトナ保育園》でキャストとして働いていた頃。

 店じまい後の雑談時間でなされた冗談みたいなスカウト。ただ、あゆるは冗談みたいなノリでマッサージ店を始めたり、カフェを始めたりした前科がある。だから今回も本気なのだ。その証拠に帰宅しようとした凛子の腕はむんずと掴まれ、逃げ場すらなくなっている。


「お願い! マッサージ店のヘルプ入ってくれた仲じゃない!」

「それ私に借りがあるってことだよね? お給料の振り込みも遅れてたし」

「女性だって風俗に行っていい時代! 私の目的は性の解放! つまりこれは社会貢献活動として――」

「さらっと無視しないで。あと軽々しく社会貢献とか言うの、真面目に頑張ってる人たちに本当に失礼だから辞めたほうがいいよ」

「じゃあ社会貢献やめるから働いてくれる?」

「こいつは……」


 あゆるは人の言うことを聞かないしあからさまな詭弁で雄弁に語ってゴリ押しする、行動と言葉と意志すべてが前のめりという敵にも味方にも回したくないタイプの経営者だった。一度気に入られたら最後、得意のゴリ押しで思うがままに操られ、終わった後に残るのは徒労だ。徒労に見合った賃金は遅れはしても支払ってくれるためギリギリ訴えられずに済んでいる、バカと天才の間に引かれた壁の上をふらつく人間である。


「単価高めに設定するから取り分も多いし、凛子さんならモテモテだよ? お客さんと恋愛関係になってもオッケー!」

「無理」

「出た、凛子さんの無理! ねえなんで無理なの? お金欲しくない? 稼ぐのは悪いことじゃないよ?」


 ゴリ押してくるあゆるへの返答が煩わしくなって、凛子は本心を打ち明けた。今になって思えばこれは、バカのフリをして本心を聞き出すというあゆるなりの人心掌握術なのかもしれない。


「おカネ欲しさに誰とでも寝るような女になりたくないの」

「むっ! それは職業差別! ポリコレ棒でしばく!」

「私の考えまで否定しないで! それに別に差別してな――いや、そもそも性産業ってポリコレ的に……ああもう、ややこしいからその棒しまって!」

「あゆるポリコレ棒しまう。その代わりに!」

「愛がないのに抱くとか無理だから!」

「あ、その点は大丈夫。お客さんの要望は事前に聞いて確認するから」

「はあ?」


 あゆるはバカみたいに自慢げに笑って、タブレットで事業計画書を見せてきた。数十ページにわたる事業計画、損益分岐ばかりか傘下のキャストへの待遇などの資料をひと目見ただけで、冒頭の京都へ行こう的なノリはすべてウソだったことが分かる。

 何枚かの資料をスライドし、あゆるは数枚にまとめられたスライドの前で手を止めた。出資者を募るためのプレゼン資料だろう。


「凛子さん。こういうお店に通う人ってどういう人だと思う?」

「私たちみたいな女ってだけだよね?」

「うーん、半分正解」


 ニヤリとほくそ笑むあゆるにムカついてその場を去ろうとしたが、今度は足でカニばさみをされて止められた。一度目を付けたら仕留めるまで離さない、まるで熟練のハンターじみている。


「私はね、生き方に悩んでる人にも使ってくれたらいいなって思ってるんだー」


 今でもハッキリと覚えている。ポンコツ経営者・広尾あゆるの、悔しいながらも手放しで褒めざるを得ないところ。


「どれだけ私たちみたいな人間への理解が進んだって、って悩みは尽きないと思うの。仮に世間が多様性ウェルカム同性愛ドンとこいって言ってくれたって、個人がどう考えるかは別だもん。それってアイデンティティの問題だから」

「なに、それ?」

「んー。『自分らしく生きる』ことが目標だとしたら、その自分って何なんだろう的な? お遍路したり、インダス川行ったりするような」

「自分探しのお手伝いがしたいってこと?」

「そう! 私は悩める人たちのために風俗やりたい。アイデンティティの悩みに寄り添ってあげるのもそうだし、ガス抜きも、一夜の夢を見せてあげるのも。世間的には後ろ指さされるだろうけど、必要な人は絶対いる、尊い仕事だから」


 あゆるの顔は腹立たしいくらいに自慢げで、さもいいこと言ってる風だった。それこそベンチャー企業の若手経営者がろくろを回しているようなポーズで気取って、叶うのかも分からない理想論を振りかざしている。


「呆れた。ホント言うことだけは立派だよね……」

「凛子さんが褒めてくれたー! わーいチョロい!」

「今ので台無し」

「いやいや。実際そんな立派なことじゃないよ。正直ね」


 一拍置いて、あゆるは小さく息を吐いた。


「今度出すお店は、みんなの心の傷薬きずぐすりになればいいと思ってるんだ。お客さんだけじゃなくて、私たちにもね」


 悩みなど無縁のあっけらかんとしたあゆるの心が、一瞬だけ見えた気がした。

 アイデンティティの悩みは尽きない。解決法も――救われる方法も千差万別。万人に効く薬がないように、万人の悩みを解決することはできない。

 しかし、解決はできなくとも寄り添うことはできる。寄り添って少しでも痛みを和らげることはできる。


「傷の舐め合いなの? あんまり建設的じゃなさそう」

「舐め合いでもいいじゃない。それで傷口が塞がって、前を向いて歩けるようになるなら」

「…………」

「んー……やっぱダメかー。うん、しょうがないよね。考え方は人それぞれだもん。ゴメンね、もう誘わない」

「……考えとく」

「ホント!? あ、実はもう料金プランとかも考えててね! あと凛子さんのシフトなんだけど、とりあえず昼職終わったあと20時出勤の23時上がりくらいから始めたいんだけどどうかな? 出来れば週3入ってほしいんだけどキツかったら週2でも!」


 呆れて笑うことしかできなかった。

 あゆるは船長だ。はぐれ者たちに目指してみたくなる財宝を示して、個性豊かな乗組員たちをジョリー・ロジャーの下に集めて進んでいく。《アロマティック》という名の船に乗って島から島へ、海から海へ。海図もなければどこへ辿り着くかも分からない、命も身の程も知らない冒険航海だ。

 それでも、あゆるの船になら乗ってもいい。悔しいが、彼女はそんな人間的な魅力に満ちていた。恋愛対象としてはあり得ないが。


「世はまさに大風俗時代! 風俗王に、おれはなる!」

「それ、訴えられるよ」


 それから二年後、新型ウイルスの大嵐であゆるの海賊船・《アロマティック》は沈没寸前になるのだが、それはまた別の話。


 *


 認知も接触も断固拒否だとあれだけ宣言していたのに、凛子は推しの膝を枕に転がっていた。

 テーブルに置かれたグラスには水が注がれ、酔い覚ましの漢方薬の袋が転がっている。重怠い身体では濃厚接触を拒否する気力もなく、自身を見下ろしている琴音と視線が合わないように垂れ流されているバラエティ番組に視線を投げていた。

 その間、琴音が繰り出す言葉は、すべて熱烈なアプローチだった。どんなに拒絶しても距離を置こうとしても琴音はただただ同じことを繰り返すばかりで、離れようとしても距離を詰めてくる。

 そんな時に投げられたのが、さも的を射たような《イエス・アンド・ノー》の延長戦。ボロボロだった凛子はハッキリと目を覚ました。


「風俗嬢の私には、女優を彼女にするなんて似合わない?」


 《アロマティック》の創業メンバーとして2年間、凛子は週2で様々な女と言葉を交わし、手を握り、唇を身体を重ねてきた。清潔な者から不潔な者、美しい者から醜い者、女社長からフリーター。相手するのは週に少なくとも2人。単純計算すれば200人、リピーターを考えれば数は6割程度に落ちつくが、凛子は様々な悩みに触れてきた。

 凛子とて、初めはロクでもない仕事だと思っていた。

 当然親には話せないし、数少ないカミングアウト済みの友人にだって打ち明けられるようなものではない。それでも続けるうちに、去り際に覗かせてくれる客の打ち解けた顔を見るのが好きになった。彼女らのためならば、普段の短気を抑えてでも話を聞いてあげようと思えた。不毛な傷の舐め合いだと蔑まれようと、痛みに寄り添う心の傷薬になってあげたかった。

 誰に何を言われようと、《アロマティック》は必要とされる尊い仕事だ。


「……私が、世間からだから、琴音を抱くのを遠慮してるって言いたいの?」

「違うん?」


 そんな凛子の2年間は否定された。あろうことか、推しによって。


「…………」

「あは、図星。ダイジョブ、私そういうの全然気にしないからさ」


 鬼の首でも取ったようにケタケタと笑う琴音の声が不快だった。今すぐ息の根を止めたくなるほどの耳障りな音。

 彼女のような女になりたい。理想の女性像だった黒須琴音の幻は、その内面に潜む人間によって完膚なきまでに打ち壊された。


「……んじゃない」

「びっくりして声も出ない感じでしょ?」

「ふざけんじゃないわよッ!!!」


 いがらっぽい喉を涸らして、叫んだ勢いそのままに身体を持ち上げた。憔悴していて悪酔いしたまま、四肢もはとにかく重たかったが、目の前の人間を――偏見だけですべてを否定してくれた女をぶちのめしたくて、ソファに身体を押しつける。

 琴音は見るからに驚いていた。それもそのはずだ、普段から短気な凛子でも、これほどまでに怒髪天を衝かれた経験はそうそうない。


「みんながどんな想いで働いてたと思ってんの! どんな想いでお客さんが呼んでくれてたと思ってんの!?」

「り、凛子ちゃん……?」

「何も知らないくせに偏見でモノ言って満足!? 自分は美人で賢くて人気だからって人を見下して楽しい!? ふざけんじゃないわよ!」


 張り倒そうと振った手を、わずかに残った理性がなんとか止めた。相手は女優だ、商売道具の顔に傷を付ける訳にはいかない。だから右手に込められた怒りは琴音の肩へ。そのまま全力でソファ目がけて押し倒す。

 体勢は馬乗り。ただしそれは俗に言う騎乗のポジショニングではない。無抵抗の相手を上から下へ殴り倒す、マウントポジション。


「私は《アロマティック》を汚い仕事だなんて思ってない! どれだけ後ろ指さされたって私は、誰かの傷を癒やせる尊い仕事だって信じてる! なのに貴女はそれを!」

「やめ――」


 もう理性では、抑えられなかった。振りかぶった手のひらが一発、琴音の頬を叩く。広いマンション室内に響くのは、乾いた音。その余韻がわずかに凛子を冷静へと引き戻すも、怒りの炎は燃え盛ったまま鎮火する兆しもない。


「私が薄汚い風俗嬢だから貴女と釣り合わないですって!? ネコ被っていい子ぶりっ子してるだけのくせにうぬぼれんなッ! 私が貴女を好きにならないのは! 貴女を好きになっちゃいけないって思ってるのは、そんなふざけた理由じゃない! 私は、私はッ……!!!」


 喉が詰まる。それでも擦れたままの声で、凛子は叫んでいた。


「貴女のイメージを守るために……! 彼女が元・風俗嬢だなんて知れたら貴女の女優生命が終わるから、私は……!!!」


 ずっと守っていこうと思っていた。琴音がイメージを守り続けるなら琴音を支えて、障害になるものにはドロップキックや真空飛び膝蹴りを見舞うつもりでいた。それで自身が嫌われようと構わない。避けられようと構わない。ただ琴音が、凛子の理想の姿であり続けてくれればよかった。

 だからこそ付き合えない。だからこそ好きになってはいけない。

 絶対に琴音と身体を重ねたくなかったのは、神格化した推しを抱けないからじゃない。

 結ばれてしまえば、琴音の女優生命が断たれてしまうから。

 今をときめく売れっ子で将来も有望、あれだけ芝居を天職だと語っていた彼女の挫折した姿なんて見たくなかったから。


「私のイメージを、守るため……?」


 琴音の瞳に涙が溜まっていた。ソファに仰向けに押し倒された、推しの姿。その瞼の切れ間から、雫が細くこぼれ落ちている。

 だが目の前で泣かれたって終わらない。推しの涙の芝居など何度も見てきて慣れている。ものの数秒で泣けるとバラエティで自慢していたのも知っている。


「どうせ自分が一番エラいとか思ってるんでしょ!? 芝居のためとか言いながら人の心を土足で踏み荒らしたいだけなんでしょ!? 斜に構えて社会を見ることがカッコいいとでも思ってるんでしょ!? ふざけんな! ふざけんなッ!!! 女優だからって! 私がファンだからって何しても許されると思うな!!!」

「…………」

「何が私だけを見てほしいよ! 何が灯台になってほしいよ! だったら貴女は私を見てるの!? 私の何を見てたの!? 何にも見えてないじゃない! 私の気持ちなんて知りもしないで、どんなに苦しかったかなんて考えもしないで、それで好きになってほしい? 愛してもらう? 都合がよすぎるのよ、バッカじゃないの!?」

「…………」

「だんまり決め込んでないでなんとか言いなさいよ! 私は貴女のお姉ちゃんじゃない、どんなに貴女が泣こうが黙ろうが折れたりしない!」

「……ごめ、ん…………」


 嗚咽混じりに謝罪してきた琴音の姿は、自身よりも数センチ背が高いはずなのにとても小さく見えた。23歳、年齢的にはオトナであるはずなのにまるで幼気な少女のようで、謝らせてしまったことへの罪悪感が凛子の心を覆う。

 それでも折れたくなかった。折れる訳にはいかなかった。

 美琴に告白するため《アロマティック》を辞めたのは、世間体を気にしてのこと。ただそれは美琴のためだ。どれだけ自分が誇りを持っていても、やはり世間的には薄汚い仕事だ。美琴に受け入れられないかもしれないのが怖かった。結局結ばれることはなかったものの、痛みを伴う友人として美琴は《アロマティック》のごと、凛子を受け入れてくれた。

 だが、琴音は否定した。よりにもよって、一番言われたくない相手に、一番言われたくない言葉で。


「……もう終わり」


 凛子はふらつく足取りで自室へ向かった。引っ張り出してきたトランクケースに通帳や印鑑、数日分の着替えやコスメの類を無造作に詰め込んで、着の身着のまま玄関に急ぐ。そこにはやはり、アイメイクがずたぼろになった琴音が立っていた。


「待ってよ……!」

「うるさい退いて! 退かなきゃ警察呼ぶ!」

「そんなことしたらスキャンダルに――」

「いつまでも推しだと思うな!」


 琴音を押しのけて玄関ドアを開いた直後、鈍い音がした。ドアの向こう、マンション廊下に髪の長い女――隣人の犀川ひふみが倒れている。


「すごい声……聞こえたから…………」


 ひふみは関係ない。だから彼女に当たり散らすようなことがあってはならない。そう誓って、凛子はどうにか怒りを抑え込んで告げた。


「犀川さん、短い間ですがお世話になりました。会社にお伝えください。白井凛子は本日をもって、黒須琴音と犀川ひふみのマネージャーを退職します」

「いや!」


 泣き叫ぶ琴音の声にひどく幻滅した。どうしてこんな女を推しにしてしまっていたのだろう。

 適当で身勝手で、役作りを笠に着て人の心を勝手に踏み荒らしていくような女だというのに。

 

「どこ……行くの……?」

「実家に帰ります。さよなら」


 素足で廊下に崩れる琴音の前で、ひふみがおろおろと様子を伺っていた。彼女には悪いことをしてしまったけれど、謝るだけなら後日電話なりLINEでいい。とにかく一刻も早くこのマンションを、そして苦い思い出ばかりの横浜を後にしたくて、凛子は即座にタクシーを呼びつけた。

 目指すは新横浜。実家である浜松への最終の新幹線には間に合いそうだった。

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