quiet talk #8 : Home Sweet Home / 柳瀬董子かく語りき
※note短編より転載
びっしりと文字で埋め尽くされたノートを見て、柳瀬早苗の妻・董子は熱っぽいため息をついていた。
――武蔵小杉。早苗が董子と暮らしているメゾネット・アパート、203号室。
「また例のノートですか」
「そうなの。ゆゆしき事態なのよ……」
通称・《人間をダメにするソファ》に身を預けてダメになっている董子を横目に、早苗は食後のコーヒーを飲みながら告げる。ちなみに今日の晩ご飯は董子特製のカレーライスだった。ごちそうさまでした。
「ここ最近はノートが埋まるペースが速いですね」
「だって世界は百合に満ちてるんだもん。常に変化する美を記録して永遠のものにする観測者が必要でしょ!」
「《百合ノート》は9割がた貴女の捏造ですけどね」
《百合ノート》。
名前を書かれたら死ぬという死神の持ち物にインスパイアされたかどうだか不明だが、別にこのノートに書かれたからと言って何かが起こることはない。ノート自体は何の変哲もないB5サイズ、6ミリ罫線の大学ノートだが、記された内容は死神すらも裸足で逃げ出すようなもの。
百合ノートについて軽く説明をしよう。これは董子が見聞きした百合っぽいもの――すなわち女と女の関係性から生じた事実を広げに広げて拡大解釈し、董子が望むカタチにねじ曲げて記述したものだ。早苗との入籍以前から董子が続けている救いがたく度しがたい趣味のひとつで、今年の初めに同居を始めた早苗が関知する限りでも、もう8冊目になる。
董子はどうしようもなく百合を愛している。そもそも二人の馴れ初めからして百合の会議がきっかけだったので、今さら董子の如何ともしがたい趣味について早苗が思うところはない。多少は「アタマ大丈夫か?」とも思うが、董子が愉しんでいるなら喜ばしいことだ。
「それで、ゆゆしき事態とは?」
「みこシャ妄想が止まらないの……」
さも深刻そうな顔で、董子は頭を抱えて煩悶していた。
元・職場の日比谷商事が顔採用したとしか思えない帰国子女・柳瀬董子は、ひとたび喋るといかなるメリットも帳消しにしてしまう、まごうことなき残念美人である。
「私も見ていいですか?」
「お願い。早苗の鋭い意見聞かせて」
請われて、早苗は自宅での定位置である董子のそばに移った。
例のソファを座椅子代わりに座る董子を背もたれにすると、20センチ近い二人の身長差からちょうどいい塩梅に早苗の背が董子の体に収まる。早苗は147センチ、董子は165センチ。
背中越しに感じる董子のぬくもりが心地よい。
「ここから読んで!」
早苗は、董子に指示されたページの先頭に目を遣った。
***
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
朝の挨拶が澄み切った青空に――
***
「……盗作では?」
「そこじゃなくて! その次!」
「腕が疲れる」と手を下ろした董子からノートを預かって、早苗は指示された箇所を黙読し始めた。
***
「あら、おはようございます。美琴さん」
「ええ。早朝から美しい貴女をお見かけできて嬉しいですよ」
ここは名門私立、聖アンティッカ女子学園。
女の花園たる由緒正しき女子学園の中庭、温室で、シャルロットは美琴に微笑みかけた。園芸部員であるシャルロットの日課は、早朝からの水やりだ。年代物のブリキの如雨露が奔らせる水の放物線が、朝日を受けて絹糸のように煌めいている。
「少々お待ちになって? もうすぐ水やりが終わりますので」
「憎らしいですね。貴女の時間と愛を一心に注がれるばかりの温室の花たちが」
「ふふ、草花に嫉妬だなんて。愛している人は貴女だけなのに?」
「貴女の愛を独り占めしたいと思うのは罪でしょうか」
「なら、そうなさったらいかがかしら?」
思わせぶりなシャルロットの言葉に、美琴の体が動いた。ブリキの如雨露を奪って脇に退け、腰高の机にシャルロットの体を強引に押しつける。
「まあ、いけない人」
「それが貴女の望みであるようですから」
「何をされてしまうのかしら」
「何をしたら貴女を独占できますか?」
「……誰かに見られてしまいますよ?」
「見られても構いませんよ」
「強引なんですから……」
口惜しげにシャルロットは唇をすぼめる。だが、ほんのりと朱に染まった彼女の白磁の頬と揺らめく琥珀色の瞳は、表情とは裏腹な本音を雄弁に語っていた。
美琴はシャルロットを抱きしめ、彼女の唇に――
***
董子に代わって頭を抱えたのは早苗だった。
「どうかな!?」
「いやこれは……なんですか?」
「早苗は《学パロ》知らないの!? 女の子なら一度は通る常識だよ!?」
「ごく一部の慣習を常識扱いしないでください」
早苗はスマホをたぐり寄せ、董子の告げた《学パロ》を検索し、2秒で理解した。要するに、学園モノの文脈を借りた二次創作だ。問題は、先の物語に登場した二人は創作上の人物ではない、この世に生きた人間である。
「あーでも、ジャンルとしては《ナマモノ》かも? ほら、《コミケ》とか《とらのあな》で見かけるじゃない? 芸能人とかアイドルとか、たとえば――」
「聞かなかったことにします」
「えー?」
敏感な嗅覚が危険を感じ取った。董子の秘めたる部分には踏み込まない方がいい。そう判断して、早苗は再びノートに記された如何ともしがたい物語に目を遣った。
「董子が《みこシャ》を推している理由はよく分かりました。確かに貴女の書いた物語の中だと、黒須さんの方が積極的に攻めているようですね」
「だって黒須さんカッコいいじゃない! 《スパダリ》感溢れてるもん、《攻め様》やってもらいたい!」
「そうですか」
またしても謎単語が飛び出したが、早苗は特に検索する気も起きなかった。単語の響きと文脈上の流れで董子が何を言いたいのかはなんとなく掴めたからだ。
だが、となると。熱っぽく「攻められたい」願望を語る董子は、攻められる方が好きなのかもしれない。そういう時になるとまるで冷凍マグロのようにカチカチになってしまう早苗の心を、暗澹たるものが覆う。
「……董子は攻められる方が好きなんですか?」
「え? なんで?」
「だって、黒須さんを褒めていたので」
しばしの沈黙。直後、早苗の体は背後から董子に抱きつかれた。脇から回された董子の両手が、苦しいくらいに早苗を締め付ける。
「もしかして嫉妬したの!? かわいいーっ!」
「……そんなんじゃありません」
「きゃーっ! 早苗好きー!」
常日頃からテンション高め、帰国子女である董子は何もかもオープンだ。愛しさや恋しさを秘めることは一切ない。普段からこうして早苗をひねり潰さんばかりに抱き留めては悶えている。
「大丈夫、私は早苗ラブだから! それにカップリング妄想と実際の恋愛は別腹だよ。私って《夢女子》じゃないし!」
「よく分かりません」
「だからね? 私は《みこシャ》好きだけど、《みこシャ》に混ざりたい訳じゃないの。二人とも素敵だなーって思うけど二人には二人の世界があって、私はそれを覗き見てたいだけ。それとは別に、早苗が好き。好きの意味が違うんだよ」
「そうですか」
「あ、いま興味失った?」
ふう、とため息をついて早苗は俯く。実際のところは《みこシャ》だろうが《シャみこ》だろうが――つまりどちらが攻めていようが早苗にとってはどうでもいいことだ。早苗の悩みの本質は、「董子が攻められることを望んでいるのかどうか」である。
ただそれを直接訊ねることはできず、訊ねても黒須美琴に嫉妬していると勘違いされてしまった。弁解をするのも面倒で気恥ずかしくて、早苗はやや強めに座椅子代わりの董子へ体重を乗せた。早苗の無言の抗議に、体を押し潰された董子が「ぐえ」と小さな悲鳴を上げる。
「そう言えば、《みこシャ》以外はどうなのですか? 以前、琴音さんの家で打ち上げをしましたが」
「あー! いいよね、白井さんと琴音さん。ただ、あのふたりはまだ情報が少なくて……」
「我々はあまり接点がありませんからね」
すると、董子はノートをすごい早さでめくって、余白の多いページを見せてくる。まだ考察中といった様子だ。
妄想活動に董子が精を出せるのは、早苗が稼げているから。董子がありたいように生きていてくれることが早苗には何より嬉しかった。
「白井さんは可愛い系、琴音さんはお姉さんに似たカッコいい系なんだけど、正直どっちが攻め……?」
「さあ」
「いや、わかりやすくいくなら琴音さんなの。カッコいい王子様×可愛いお姫様みたいな。実際琴音さんって結構他人を振り回すところあるから、少女マンガで言うところのワガママ王子系?」
「そうですか」
「だけどね、違うの! 白井さんってなんか妙なパワーがあるでしょ? シャルロットさんへの態度とか、嫌なことハッキリ言うし。となるともしかしたら白井さんのほうがワガママお姫様なのかも? こうなると王子様お姫様の喩えじゃダメだよね。なんかこう……もっとリアルな表現がしたい! 己の語彙力の少なさが憎い!」
「語彙力と言う単語を知っているだけで上出来ですよ」
めくるめく董子の妄想に早苗は呆れるよりほかなかった。
「それにしてもよくもまあ、そこまで人物像を捉えた上で誇張できるものですね」
「二次創作オタクはみんなやれるよ!」
「そうですか」
早苗と董子の馴れ初めたる因縁の時間、《百合会議》そのものの、現実の女の関係性を好き勝手に脚色する所業。董子の行いは決して本人達には明かせるものではない。
ただ、と早苗は考える。
明かせないなら隠し通せばいいだけだ。幸いにして、早苗には隠し通した実績がある。この幸せな生活は油断してしまえば終わってしまうとしても、ふたりは死の瞬間まで結ばれている。
「……早苗、ありがとうね。私のこと助けてくれて」
「急にどうしたんですか?」
「ううん。ちょっと思い出しちゃった。あの頃からずっと、早苗は私を守るために戦ってくれてるもん」
当然だ、と言いかけた早苗だが、その後に続く言葉が出てこない。もちろん感情だけならいくらでも持ち合わせているし、その感情をあたかも董子のようにそのままぶつけたほうがいいのは早苗だってわかっている。
ただどうしても、「好き」の言葉は早苗の喉に小骨のように引っかかる。
恥ずかしいから言えないのではなく、早苗の中でしっくりこない。面と向かって愛情表現するのはキャラじゃないし、これまでの人生でやってこなかったのだからどうやればいいのかもわからない。早苗の悩みだ。
「それは……」
「あは。いいよいいよ、無理しなくて。早苗が言ってくれなくても、私にはちゃーんと伝わってる」
シャルロットのような人間を疑わなければ気が済まない女ではなく、逆に少しは疑えとかえって心配になる女・柳瀬董子。
だけどそれは、早苗が口にしない想いを董子に悟ってもらっているということ。例えるならば、どこか亭主関白な古臭い家庭のような。「夫は何も言わないけど、妻はすべて理解してついていく」のような。
「……それは、少し悲しいです」
董子とは、対等でありたい。生活費を稼いでいるのは早苗であっても、生活を支えてくれているのは董子だ。お互いに得意なところで支え合っているから対等なのに、董子に対して「好き」の言葉をぶつけられないのは対等と言っていいのだろうか。
「また難しいこと考えてる?」
「……私も黒須さんのようにわかりやすく愛情表現したほうが董子も嬉しいのでは?」
「なんで? 私が好きになったのは早苗だよ?」
「だって、私は……。プロポーズのとき以来、貴女を好きだと言っていません。構わないんですか……?」
董子はしばし唸って何か理解したのか、ぷっと唇を破裂させた。
「だいじょーぶ。私はシャルロットさんとは違うよ。早苗も黒須さんとは違うでしょ」
「どういう……?」
背後に座る董子が抱きしめてくる。温かで甘く、息苦しい。今度は早苗が「ぐえ」という番だった。
「《みこシャ》には《みこシャ》、私たちには私たちの関係があるんだから、比べなくていいの。早苗は早苗だよ」
「……そうですか」
「今の「そうですか」はちょっと嬉しそうだった!」
「そうですか」
「あ、今度は「はいはいわかりましたよー」的な呆れ半分な感じ?」
「そうですね」
そんな董子を好きになってよかった。どんなお菓子より甘い幸せが、早苗の腹のなかにストンと落ちる。
「でもやっぱり、私が見てて楽しいのは《みこシャ》! 次はこっち読んで! 自信作!」
「はいはい」
ふんすと鼻息荒く自慢げな妻・董子の趣味に、早苗は付き合ってあげることにした。
***
題名:ヴァンパイアの窓辺
テーマ:傷つけたくないのに傷つけ合う、二人の憂鬱と秘めたる愛。
配役:
シャルロット……人里離れた屋敷に暮らす令嬢。美琴の主人。
黒須美琴…………シャルロットの従者。吸血鬼であることを隠している。
***
――趣味に付き合おうとしたことを早苗は後悔した。
「理解が追いつかないのですが」
「そりゃそうだよ。テーマと香盤表だけで理解できる人なんてそういないもの」
「そうではなく……」
冒頭のテーマで、この先の物語で何をしたいのかは早苗にも理解できなくはない。吸血鬼が出てくる以上、血を吸うだ吸わないだの問答をやりたいのだろう。問題はその配役についてだ。
――どう考えたって配役が逆だろう。
確かに黒須美琴は背が高く整った顔立ちだから、吸血鬼役もこなせなくはない。だが、吸血鬼を異質な存在として印象づけたいのなら、あの嘘まみれの夜の女・金髪琥珀色の瞳で異国風の顔立ちであるシャルロットの方が、遙かに吸血鬼として相応しいのではないか。
だが、そんな考えが受け入れられないことを早苗は知っている。
なぜなら董子いわく《シャみこ》は《逆カプ》で《地雷》だから。
そんなしょうもない地雷なら踏んづけて足でも腕でも吹き飛ばしてしまえ、と早苗は投げやりな気分だが、かつて一度それが原因で痴話喧嘩に発展してしまったことを思い出す。
「大丈夫読めば分かるから! 2ページ目のここから読んで。美琴の正体がヴァンパイアだとシャルロットにバレてしまうシーン!」
「そうですか……」
早苗はしぶしぶ、董子の妄想世界を覗くことにした。
***
雷鳴を伴う暴風雨が、窓を叩きつけていた。心許ないオイルランプの灯火が、ベッドサイドに佇む美琴の顔を照らしている。普段とは異なる青ざめた顔。大口を開けて話すことのない彼女の八重歯は、獰猛な野生動物を思わせるほどに鋭く尖っている。
「美琴さん、貴女は……」
シャルロットは困惑していた。従順でいて瀟洒な従者・黒須美琴の別の顔に。寝間着のまま、ベッドシーツを体に巻き付かせ、咄嗟に美琴と距離を取る。
「すみません、シャルロットお嬢様」
美琴は口元を普段のように柔らかく結び、苦笑を浮かべる。すべてはなかったこと。そう表情だけで語って、寝室の窓を開ける。吹き込んだ風雨で、白のカーテンが揺れる。その中に佇む美琴の姿は、シャルロットが寝物語で聞かされていた《怪物》の姿そのもので。
「……貴女は、ヴァンパイアだったのですね」
「黙っていて申し訳ありません。お察しの通り私は、乙女の生き血を喰らわなければ生きられない、ヴァンパイア」
稲光が美琴の顔を照らし出す。一瞬窺えた彼女の表情は、寝物語に語られる残忍な吸血鬼像とはまるで違っていた。
深い憐憫と哀愁を漂わせる、悲しげな顔。ヴァンパイアという悲しい宿命を負わされた美琴の立ち姿に、シャルロットの胸は締め付けられる。
「あたしの血を吸わないのですか」
美琴は、恐るべき吸血鬼だ。そんな彼女を前にして何故そんな言葉が一番に出たのか、シャルロットには分からなかった。
「初めは、貴女の血を戴くためにお仕えしておりました。ですが貴女の側でお仕えするほどに、躊躇うようになってしまって」
「あたしを……愛していらっしゃるの?」
「どうやらそのようです、お嬢様」
美琴は窓枠に足を掛けた。吹き込む暴風雨の中に飛び込もうといった様相だ。
「こんな夜更けに雨の中、どちらへ向かわれるの?」
「正体を知られたヴァンパイアは、姿を消すか、貴女を殺さなければなりません」
「殺す……!」
息を呑む。シャルロットの動揺を悟ってか、美琴は「安心してください」と柔らかな口調で嗜める。
「貴女を殺すくらいなら、私は姿を消します。最後までお仕えできず、申し訳ありません」
「待って!」
シャルロットの足は独りでに動いていた。ベッドを駆け出し、窓枠に掴まった美琴に飛びつく。途端バランスを失った二人の体は窓枠から滑り落ち、寝室の床へ。咄嗟にシャルロットを庇うために身を翻した美琴の背が、床板を叩く。
「吸血鬼を引き留めてはいけません。危ないですよ、お嬢様」
「……いや、です! 貴女と離れたくありません!」
シャルロットは思いの丈をぶつける。数年来。この屋敷に越してきてから側で仕えてくれた美琴を失いたくはなかった。それは勝手知ったる従者として、だけの感情ではない。それ以上の感情。
「相変わらず、ワガママなお嬢様ですね」
「ええ、あたしはワガママです! ワガママだからこそ、貴女を離したくない!」
「であれば私は、貴女を殺さなければならなくなる。それでは貴女と共にはいられない」
「ならあたし、嘘をつきます!」
「嘘、ですか?」
シャルロットは美琴に身を委ねた。血の気配を感じられない、冷たく青白い体に抱かれる。寝物語の怪物、吸血鬼だろうと美琴は彼女にとって大切な従者。それでいて、体を寄せ合うだけで、見つめ合うだけで、シャルロットの体は温かくなる。
「……あたしは、貴女の正体を知りません。貴女がどんな存在であろうと、貴女はあたしの大切な人です。だからそばに居て……」
「それはできませんよ、お嬢様。私は血を吸わねば生きていけない。貴女の血を吸えず、私はここ数年、生き血を口にしていない。そろそろこの身も朽ち果ててしまう」
「なら、あたしの血を吸って。生きて」
シャルロットは寝間着のボタンを外した。白くきめ細かい首筋が稲光とオイルランプに照らされている。
「……貴女がそばに居てくれるなら、何も怖くありません」
「ですがそれは……」
「あたしのワガママに……いいえ。あたしの従者なら、あたしの命令に従いなさい。美琴」
照らされた美琴の顔は、驚いたような悲しむような、それでいてどこか憂いを帯びたもので。そんな美琴を見下ろすシャルロットは、自身の抱く感情の正体が主人と従者の関係性以上のものであることにようやく気づいた。
「私は貴女を愛しているから、傷つけたくないんです……」
「あたしを愛してくれるなら、あたしの望み通りに傷をつけて……」
くるりと体を反転させる。床にシャルロットを押しつけて、美琴に見下ろされる格好。照らされた美琴の青白い顔は、この世の何者よりも美しかった。
「……すみません。痛くとも我慢できますか」
「それが、あたしのついた嘘の痛みならば」
美琴の顔が近づく。唇ではない、出した首筋に彼女の口元が迫る。吐息と柔らかな舌の感触が首筋を振るわせる。
「んっ……!」
シャルロットの首筋に、美琴の唇が吸い付く。一滴たりとも零さないと空気を吸い込み、密着させて。尖った四本の八重歯が柔肌の表面を伝う。
ちらりと美琴の視線を感じた。「本当に構わないのか?」という物言わぬ確認。シャルロットは美琴の背に手を回して抱き留める。
「愛して、美琴……」
***
――ノートの最後までひと通り黙読して、早苗は背もたれにしている董子に身を預けた。早苗の耳元で、背後から董子の鼻息と楽しげな声がする。
「どう? 耽美主義を目指してみたの!」
「やりたいことは分かりますが、シャルロットはここまでしおらしい女ではありません。貴女がよく言うところの《解釈違い》です」
「私の中ではこうなの! 黒須さんと二人きりだとこうなっちゃうの!」
「そうですか」
反論しようと思った早苗だったが、下手に反論してまた痴話喧嘩になるのも面白くない。
解釈は人それぞれだ。董子がそう思うのならそうなのだろう、董子の中では。
とは言え、言いかけた反対意見をそのまま呑み込んでしまうのもどこか悔しくて、早苗は抗議とばかりにくるりと董子に向き直った。作中に登場した吸血鬼をイメージして、首筋にかぷりと歯を立てる。
「あは。ヴァンパイア早苗かわいい~!」
「ほうえふは」
噛みついたまま、もごもごと同意を示す「そうですか」と告げる。
世間の並大抵のことは上手くいく。これまでそう信じて、その通りに物事をこなしてきた才媛たる早苗が、唯一上手く乗りこなせない女性。それが妻の董子だった。
元職場の先輩と後輩の関係だった頃から調子を狂わされっぱなしで、気を揉んでいた。次第にその心配は名状しがたき感情へと代わり、いつしか早苗は彼女のためであれば悪事にさえ手を染めてもいいとさえ思えるようになっていた。実際、手も染めた。
そうまでして董子を求めてしまうのは、やはり、愛しているからなのだろうと首筋に甘噛みしたまま早苗は思う。彼女の温かさも纏う香りも、にこやかで明るい声も、どこか抜けている性格もすべてが愛しい。自他共に認めるほどの冷徹で実直な早苗自身の、早苗すら預かり知らなかった内側に潜む何かを、董子は引きずり出してくれる。
そんな早苗自身知らなかった本心を知ることが嬉しい。
それを最愛の人、董子に向けられることが嬉しい。
「好きだよ、さなえ~」
「ふぁい」
「……ねえ、このままシちゃおっか?」
その発言にドキリとして、思わずのけぞった。董子とまったく同じことを考えてしまっていて、早苗は言葉を詰まらせる。
「明日も仕事なのですが」
「いいじゃない、どうせテレワークなんだし。早苗なら寝たままでも仕事できちゃうでしょ」
ほんのりと頬を染めた董子に見つめられると、実直な自身の性格まで歪められそうになる。
ただし、この生活があるのは仕事のおかげ。日比谷商事が早苗を必要としてくれているため。総務の平社員にしては規格外の給与を支払ってくれている会社の期待に応えるため、早苗はこみ上げてくる愛欲を鉄の意志で振り払い、生真面目にまなじりを決した。
「仕事はきちんとやります。董子との生活のためです」
「そんなー……」
ぼふんと人間をダメにするソファに力なく横たわった董子に、「ただし」と早苗は付け加える。
「……少しくらいなら、夜更かししてもいいです」
「だよね! 更かそう更かそう! さあ来て、ヴァンパイアさん!」
「歯を磨いてきます」
「そんなの待ってられないから!」
そのまま手を引かれ、早苗は《人間をダメにする董子》に覆い被さった。
温かでいて柔らかな温度に抱かれ、董子に引きずり出された早苗も知らない早苗が、鉄の理性を覆い隠していく。
ダメになるのも悪くはない。
そんなことを感じながら、早苗は董子との愛に溺れていった。
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