#44 : Shall We Dance? / ep.1
『首尾はどうなってる?』
『説明しろ赤澤』
『来瞳ちゃん聞いてる?』
寝起き早々、スマホの通知欄を埋め尽くす元本部長・小杉からの不在着信とメッセージに、来瞳はスマホを自宅ベッドの枕に埋めた。ノーメイクでもハッキリと主張する涙袋すらも渋面にして、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。
土曜日。午前九時。
昨晩つけたまま眠っていたテレビは、今週のワイドショーを賑わせたトピックスをおさらいしている。若手イケメン俳優の結婚発表やベテラン芸人の離婚会見などのどうでもいいニュースに続いて、美琴のバニーガール姿が画面に映し出されていた。
「やってくれたわねぇ、みーちゃん……」
缶を握り潰してしまいそうなほど、来瞳の拳に力がこもっていた。
美琴のスキャンダル写真を琴音だと偽ってバラまく計画は、このバニーガールに潰された。琴音にそっくりな黒須美琴の姿を世間が知ってしまえば、SNSに写真をバラまいたところで琴音にダメージは与えられない。つまり、美琴への脅しが成立しなくなる。
「どーせ早苗の入れ知恵でしょう? あの子は先輩達に始末してもらうとしてぇ……」
仕事用のタブレットで、秘書課専用のグループチャットに書き込みを入れる。『柳瀬早苗にいじめられた。ぴえん』と書き込んだ途端、一斉に罵詈雑言が流れてくる。
『わかる。アイツ真面目すぎてうざい。学級委員長かよ』
『ちょっと仕事できるからっていい気になりすぎ』
『やっぱ今度の定例会で恥かかせてやんない?』
『それ。ナイショにしてて正解だったよねー』
頼りになる先輩達だ。来瞳はにんまりとほくそ笑む。
日比谷秘書課がメインで開催している定例会。その内部資料には、次のような文言が躍っていた。
会場:ホテルマーベリック・グランドレセプションホール。
概要:各界の著名人を交えてのダンス&立食パーティー。
寝起きの頭でも、悪知恵は十二分に働いた。柳瀬早苗と黒須美琴、二人の女を同時に合法的に、日比谷商事から排除する妙案に想いを巡らせ数秒。答えはすぐにはじき出される。
「要は、大勢のえらぁい人達の前で、日比谷の看板に泥塗らせちゃえばいいだけよねぇ……?」
来瞳はグループチャットに底意地の悪い計画を打ち込んだ。職場ではわざとのろのろ打っているタイピングも、誰も見ていない自宅では早い。筆も気分もノッていた。
返事はすぐに届く。
『うわ来瞳ヤバ。敵に回したくないわー』
『いーんじゃない? 賛成』
『大賛成でーす』
『てゆーか来瞳、そんなに小杉に戻ってきてほしいワケ?』
最後の一文に寒気がした。
来瞳は少し悩んで、思ったままのことを書き込むことにする。
「小杉くんが戻ってこないと、あたしの手で痛めつけられないでしょう?」
来瞳の双眸を怒りで燃えたぎらせるのは、美琴ではない。早苗でもない。二人以上に復讐したい人間――小杉元本部長だ。
手元のビール缶を握り潰し、来瞳は枕に伏せたスマホで小杉にメッセージを飛ばした。
『来週、みーちゃんと早苗を痛めつけてあげる。小杉くんも見に来て?』
『メチャクチャにしてあげる』
そしていつも使う、キスマークのスタンプを押す。
「ふふふっ。あたしのために社会的に死んでね? 小杉くん」
*
「ダンスパーティーですか!?」
同日。経堂のマンションでミモザ相手に猫じゃらしを振っていた美琴は、早苗からの突然の電話に目をミモザ並に丸くした。
『ええ、そういう運びになってしまって。ああ、すみません。お休み中にこんなご連絡をすることになり。ダンスパーティーが日比谷の政財界の著名人で』
「お、落ち着いてください早苗さん。何言ってるか分かりません」
『申し訳ありません、私の失態です。動揺を隠しきれず……』
電話口の早苗はあからさまに動揺していた。
事のあらましはこうだ。
本社上層部から秘書課解体を指示された早苗は、秘書課で八面六臂の活躍を見せていた。総務の人間になど勤まらないと思われた業務を片っ端から片付けることで、秘書課の優位性をたった一人で地に落とすことには成功したらしい。
だが、それを秘書課の人間が面白がるはずがない。誰しも既得権益を奪われたくはないからだ。表面上は仲良しこよしを演じていた秘書課一同は、裏で早苗を追い出すための策謀を巡らせていた。
「それが、定例会。ダンスパーティーですか……」
『ええ。表向きはダンスと立食パーティーですが、実態は政財界とのパイプを作るためのもの。日比谷が主催する社交の場とお考えください。有り体に言えば、セレブが列席する社交界みたいなものです』
「社交界……」
美琴の一般人的な発想では、理解が遠く及ばなかった。イメージできることと言えばせいぜい、御曹司や令嬢達が着飾って、本心を覆い隠して食べたり飲んだり踊ったりする煌びやかなもの。食事はたぶんキャビアとフォアグラとトリュフが出てくるのだろうとか、飲まない方のカクテル――スープをゼラチンか何かで固めたような――が饗されるのだろうとか、貧困なイメージしか抱けない。
「早苗さんも参加されるんですか?」
『私だけでなく、貴女も参加することになっています』
「私も!?」
「なあお」
悲鳴にも似た美琴の声に、ミモザがサッと距離をとる。そして美琴の座すリビングのソファを離れ、営業を終えて眠りにつくシャンディの寝室へと消えた。直後に「いったー!?」と声が響く。
『単刀直入に聞きます。黒須さん、社交ダンスの経験は?』
「あ、あるわけないですよ!? ダンスなんて盆踊りとマイムマイムくらいしかできません! 無理です!」
『それは困ります……。このままでは秘書課の優位性を潰せなくなってしまう……』
「早苗さんは……」
『踊れる訳がないでしょう。大学時代の専攻はディープラーニングです』
なぜディープラーニングを学んだバリバリの理系人間が日比谷の総務で働いているのだろう。「ていうかディープラーニングってなに?」と、突然の社交ダンスとは別の疑問が美琴の脳裏に湧き上がってくる。
『……そちらに彼女は、いますか?』
「彼女?」
『貴女の彼女のバーテンダー……っ! です……』
「むう。ようやく寝付いたところでしたのに。ミモザは悪い子ですね?」
ロングTシャツをパジャマ代わりにしているシャンディが寝室からのっそりと現れた。美琴の窮地をどういうわけか察したミモザが文字通りたたき起こしてくれたのだろう。女王様はいい仕事をする。
それよりも、先ほどからところどころ電話口の早苗の声が上擦っているのが気になる。風邪でも引いているのだろうか。
「シャンディさん、ちょっと!」
「ふあぁ……。なんです、土曜日の朝からお仕事の電話だなんて……」
美琴はスマホをスピーカーフォンに切り替えた。早苗の声がリビングに響く。
『柳瀬早苗です。貴女の――』
「今はプライベートですからお客様の相手はしませんよー」
『この女……』
シャンディは手をひらひらと動かして、その場を立ち去ろうとする。早苗にはアンティッカ店内で《エックス・ワイ・ジー》を言い渡したのだ。好き嫌いとオンオフをハッキリ区別するシャンディの性格を考えれば、こうなることは目に見えている。
「シャンディさん、割と困ってるみたいなんだけど」
「早苗さんが困ったところで別にあたしは困りませんから」
「それはそう……かもしれないけど!」
『率直に言い、ますっ。黒須さんが窮地に、陥ることになりますっ!』
寝酒とばかりに冷蔵庫から取り出した缶ビールを手に、シャンディは心底うんざりとした表情を浮かべて美琴の隣に座した。
「話をお伺いしても?」
そして早苗が説明を始めて数分。ビールをちびちびやりながら早苗の話を聞いていたシャンディは「ふあぁ」とあくび混じりに尋ねた。
「あらかた理解はしましたよ。御社のパーティーに美琴さんが必要ということなのですね?」
『そうです。秘書課の連中は政財界とのパイプをより強固にするため、今は社内の……人間でもある黒須さんの容姿に目をつけたのでしょう。ゲスの考えそうなことです』
「美人も考えものですね、美琴」
「まあ、うん……」
美琴にしてみれば複雑だ。容姿に恵まれた美女という肩書きは、得が多いかわりに損も激しい。「美人だから」という理由で特別扱いされればされるほど、周囲の嫉妬を集めてしまい行動も言動も制限されてしまう。しかもその悩みは誰かに相談できるものでもない。
「それで。美琴の社交ダンスのお相手はどなたになるのかしら?」
『現時点では不明です。普通に考えれば政財界のお偉方、男性でしょうが』
「じゃああたしの美琴は貸せません。パーティーは欠席。お話は以上です」
唇をすぼめたシャンディに抱きつかれる。離さないとばかりにしがみついてくる理由は察しがついた。
「ヤキモチ妬いてる場合じゃないよ、シャンディさん」
「なら美琴は、あたしが他の誰かの腕に抱かれても平気なのかしら?」
「それは……」
想像した途端、褒められたものではない感情が心の奥底からずるりと顔を覗かせる。ひたすらに自身への愛を囁いてくるシャンディだからあり得ない、と信じたい気持ちはあれど、シャンディはウソと思わせぶりの常習犯だ。あるかもしれないと疑う気持ちが芽生えない訳でもない。
「まあ、男性に手を取られて踊る姿は絵になるとは思いますけれどね。あたしに釣り合う美男子は相当ハードルが高いでしょうが」
「本当に自信家だよね……」
「その自信家が選んだ人なんですから、あまり自分を安売りするようなことしないでくださいな」
シャンディは軽く唇を触れ合わせてくる。それも敢えて大きな音を出し、電話口の早苗に見せつけるように。
『……協力はして戴けないと?』
「ええ、したくありませんね。ですがどうしてもと仰るのでしたら、こちらの出す条件を呑んで戴けないかしら?」
「条件なんて必要ない――」
言いかけた美琴の口は、今度は長いキスで塞がれる。有無を言わせないとばかりに美琴の膝の上にまたがって、シャンディが言葉を奪う。
『……背に腹は替えられません。条件とは何ですか』
「じゃあ、そうですね? 董子さんを一晩――」
『この話はなかったことにしてください』
「冗談ですよ、ふふ」
不機嫌に思われたシャンディは途端に瞳を上弦に歪ませていた。非協力的な態度を敢えてとって譲歩を引き出す、彼女なりの交渉術が上手くいったということなのだろう。あるいは単に、腹いせに揺さぶりを掛けただけなのかもしれないが。
「交換条件は、貴女の可愛らしい姿」
『仰っている言葉の意味が分かりません』
「簡単なことです。どうせ貴女はダンスなんて踊れないんでしょう? あたしが教えてさしあげますから、赤ちゃんみたいによちよち歩きの無様なステップを見せてくださいな。動画撮影してお酒の肴にしますので」
『…………』
「シャンディさん、言い方!」
基本的にシャンディは優しいと美琴は思う。ただその優しさが回りくどかったり、強烈なSっ気を伴うものだったりするだけだ。だからその意図が分からない人間には、とてつもなく性根のひん曲がった女だと取られてしまう。
美琴は慌てて意訳した。
「あ、あのですね? シャンディさんは口こそ悪いですが、話が分かる人です! ちゃんと協力してくれると思いますよ! ね、シャンディさん!?」
「ふふ、どうかしら? ただ笑いものにしたいだけかもしれませんよ?」
「どうしてそんなこと言うの!?」
「美琴が安請け合いしちゃうからです。あたし結構、束縛する女ですし」
ぎゅう、とシャンディが回した両手が体を締め付てくる。アンティッカのバーテンダーの時とは違って、オフのシャンディは直接的だ。気のない素振りと重い束縛を器用に使い分ける。知れば知るほどシャンディのことがますます分からなくなってくる。彼女のまとった謎は深淵だ。
『貴女という女は本当に……』
「心は決まったということでよろしいかしら?」
勝利宣言めいたシャンディの微笑みに、早苗は「はあ」とため息を漏らした。
『……時間もありません、お願いします。最低限の所作だけで構いません、私にダンスを教えてください』
「仕方がありませんね。美琴もそれでいいかしら?」
早苗のしおらしい姿に、シャンディは溜飲を下げたようだった。とは言え、勝ち誇ったように微笑む彼女に釘を刺す必要を感じて、美琴は答える。
「いいけど。あまり早苗さんをいじめないであげて」
「えー? ダメですか?」
「だーめ」
小さくシャンディにデコピンを喰らわせた。「いったー!?」とミモザに噛まれた時と同じような反応を見せて、シャンディは美琴の体の上にうずくまる。アンティッカではあれだけ大人びているのに、経堂のマンションではイタズラ好きの子どもそのものだ。
『貴女も苦労しますね、黒須さん』
「そちらも似たようなものでは?」
『まあ、そうです。ただ、だからこそ……愛しいのですが……』
「は」
壮絶なノロケを喰らわされた。おそらくあちらはあちらで、似たような状況なのだろう。
似たような状況。そう考えたところで美琴は直感した。
電話口の早苗の声が所々上擦って、急に途切れていた真相は。
――もしや。
「あの、早苗さん?」
『なん、ですか……?』
「……いえ、何でもないです。いったん切りますね」
『……すみませ、ん』
詮索しない優しさもある。美琴はそう心に誓って、通話を切り上げた。
ただ当然、美琴でも気づくような機微をシャンディが見逃すはずはない。
「電話しながらだなんて、仕事に集中してもらいたいものですね。あたしもあれくらい積極的に打って出た方がよかったかしら?」
「か、勘弁して……」
「ふふ、あたしは見せつける趣味なんてありませんから」
キスを思い切り見せつけていたくせに。悪態をつこうとした美琴の唇は再び塞がれた。ビールの香り漂うシャンディの唾液が、美琴を二重に酔わせていく。
「……すっかり目も醒めてしまいましたね。続きはいかがなさいます?」
「聞かないで。聞くまでもないでしょ」
「なら、ちょっと焦らしちゃいます」
「そんな……! ことはない、けど!」
「淫蕩に浸るばかりが人間ではないですよ?」
シャンディはSっ気をたっぷりに笑って見せた。
翻弄されてばかりで、まだまだシャンディとの釣り合いが取れない。だが、このままではいたくない。いつか絶対に釣り合いの取れるオトナの女になって見返したい。幸せな煩悶の中、美琴の心に新たな目標が宿った。
「さて。ではダンスレッスンといきましょうか。シャル・ウィ・ダンス? ミズ・ミコト」
シャンディが社交ダンスを教えられることは、特に驚くことでもなかった。絵になることを最重要視する、自分が嫌いと語りながらも自分大好きなシャンディなら踊れて当然のことだろう。
「下手だけど構わない?」
「下手だからこそ愛おしいんです」
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