#32 : Fuzzy Navel / ep.1

 ここは六本木はずれ。夜空に浮かぶ琥珀色の満月にも似た瞳が迎えてくれるガールズバー《antiqua》。

 だが、今宵は――否。暮れるどころかまだ日も高い、午後三時。普段なら準備中どころか店主が眠っている時間であるばかりか、おまけにその店主の姿もまるで異なっている。


「やはりお似合いですね。初めて貴女をお見かけした時から、着ていただけないものかと思っておりましたもの。でしょう、凛子さん?」

「綺麗……」


 ふたりの客――並んで座るシャンディと凛子から見た正面。カウンターの向こう、バーテンダーの聖域に立つ白いジャケットの女性バーテンダーは、せいいっぱいの背伸びをして微笑みを浮かべた。


「ようこそ、ガールズバー・アンティッカへ。本日、お美しい淑女レディのお相手を勤めさせていただきます、臨時バーテンダーの黒須美琴です」


 話は数刻前に遡る――


 *


 原宿、商業ビル空中庭園での大事件の直後。

 シャンディに有無を言わせずタクシーに押し込まれた美琴と凛子は、六本木のはずれ、アンティッカを目指すこととなった。

 青山通りを快走する車内では、いっさい会話はない。後部座席に乗り込んだ凛子と視線をかわすことすらなく、美琴は流れゆく車窓をぼんやり見つめる。


 これまで同僚としてしか認識していなかった白井凛子に、あらん限りの告白をぶつけられたから。しかも、シャンディが美琴に向けている感情を愛ではないとばっさり一刀両断されたから。

 美琴の思考はまとまらなかった。

 嫌ってはいない凛子から好意をもたれているのは、種類がどうあれ喜ばしいことだ。だが、相手が女性であることには困惑するし、あげくシャンディを否定されて腹立たしくもある。

 思考がまとまらなければ、話す言葉もない。まるで子どもみたいにスネてしまっている自分がイヤになる。


「さて、と」


 雑居ビル三階、アンティッカの扉にかかった札を《close》にしたまま、シャンディは扉を開いた。店内への入室を促すようなジェスチャーをした彼女に、美琴はどうにか言葉を絞り出す。


「……何をしたいんですか、シャンディさんは」

「先ほどお話しした通り、仲直りですよ。さあ、どうぞ。凛子さん」


 シャンディが伸べた手を、凛子が弾いた。


「ふざけないで。何なのそれ、勝者の余裕?」

「オトナの余裕です。凛子さんの愛し方は分かりましたので、今度はあたしの手の内もご覧にいれようと思ったまで」


 凛子のまなじりが釣り上がった。感情を覆い隠すことのない良くも悪くも素直な表情が、彼女の怒りを物語っている。

 複雑な心境で扉の奥、エントランスの暗闇を見つめていた美琴に、シャンディが真剣な口調で告げた。


「美琴さん。厳しいことを言いますが、今回は貴女にも非があります。自覚的か無自覚かは存じませんが、貴女は凛子さんの心を弄んでしまった。想いになんて言い訳が成立するのは、子どものうちだけですよ」

「…………」


 返事をすることはできなかった。あれほどの秘密や好意を吐露することにどれだけ覚悟が必要か、美琴は身をもって知っている。自身だってシャンディにどう告白を切り出せばよいか同じように悩んでいるのだから。


「でも、美琴さんは違いますね。だって貴女は、子どもじゃないのですもの」

「……どういうことですか?」

「問題です。ここはどこでしょう?」

「アンティッカ。六本木はずれの、シャンディさんのお店です」

「そうです。ここは未成年の子どもはお断りのオトナの世界。美琴さんが子どもからして、オトナになる場所。貴女が一番美しいと思っている、貴女になれる場所」


 「ふふ」と柔らかい笑みを浮かべたシャンディの言わんとすることは分かった。

 要約すればおそらく――


 いつまでも子どもみたいにスネていないで、アンティッカで飲んでいる時みたいなオトナになってくださいな。


 ――そう言っているように美琴には感じた。

 ドSを自称していながら向けられる、自身を心情を慮ったであろうあまりに遠回しな優しさに、つい苦笑してしまった。


「……荒療治にも程があると思いますよ」

「ええ、あたしは提案したまで。お受けになるかならないかは、貴女次第」

「実はシャイですよね、シャンディさんは」

「好きな人の前では、誰だってそうですよ」


 腐っていても、前に進めるワケではない。なら、彼女の向けてくれた優しさに応えよう。

 美琴は意を決して、アンティッカの扉をくぐった。


 *


 オレンジ色の間接照明が、アンティッカ店内を明るく照らしていた。

 ムチャブリの末の臨時ではあるもののバーテンダーたる美琴は、恭しく二人の客に微笑みかける。


 項垂れてはいけない。スネてはいけない。泣いてはいけない。

 これはシャンディが提案してくれた荒療治だ。

 いかに内心が複雑だろうと、本心にウソをついたとしても、演じなければならない。自身が思い描く理想のオトナ、酒場の相談役バーテンダーの姿を。


「ふふ。やはり緊張してらっしゃいますね。いかがですか、普段あたしが見ている景色は」

「ええ、ここに立つことになるとは思いも寄らず、驚いています。私のサイズぴったりのジャケットまでご用意なさっているのも」


 シャンディから託された、白の正装。いつの間に調べたか分からないオーダーメードの逸品は、いわく「遅めの誕生日プレゼント」。着ると気持ちが引き締まる、美琴を一段上に引き上げてくれる魔法の衣装だ。

 何が始まるか分からないと不安げな凛子をよそに、客席に座るシャンディが瞳を上弦にゆがめた。

 いつもの駆け引きが、逆の立場で始まる合図。


「美女を二人も連れ込んで、どうなさるおつもりかしら?」

「どうされたいですか?」

「まあ。襲われちゃうのかしら?」

「お望みとあらばお相手しますよ」

「覚悟の決まっていない方のお言葉とは思えませんね?」

「お待ちいただいた方が美味しく召し上がれるお酒もございます。じっくりと樽の中で熟成されたヴィンテージ・ウイスキーのように」

「寝かせるなら、ベッドの中でお願いしたいものですね」

「ダブルベッドをご用意してお待ちください」

「ふふ。アマゾンでポチっとやっちゃおうかしら」


 上機嫌に笑うシャンディの一方で、美琴はむずがゆさと冷や汗をなんとか堪えていた。

 シャンディと繰り広げる意味深な駆け引き。それは、言葉尻や暗に示したことを読み取って気の利いた冗句を返し続ける、互いの想いのぶつけ合いだ。


「今のってどういうこと、ですか……?」


 あれだけ怒り狂っていた凛子は、借りてきた猫のようだった。美琴とシャンディふたりのやりとりに困惑して、両者の顔色を落ち着きなさそうに見比べている。


「お相手できず失礼いたしました、白井さん――ああ、いえ。こちらでは、凛子さんとお呼びいたします。よろしいですか?」

「え、よ……よろしい、です……」


 声をかけた途端、凛子は俯いて語尾が小さく消えていく。彼女が美琴以上に恥ずかしがっていることは一目瞭然だった。気性は荒いが、意外と乙女なのかもしれない。


「あらあら。白昼堂々浮気ですか?」

「ええ。中途半端に想われるくらいなら、お二人とも徹底的にたらし込んでしまおうと思いまして」

「まあ、悪いバーテンダーさんだこと。誰に似たのかしら」

「悪い師匠がすぐそばに居たものですから」

「ちょっ! ちょっと待ってよ黒須さん! それって二股をかけるってこと? この悪魔みたいな女と!?」


 子どものように食ってかかる凛子に、シャンディは自慢げに鼻を鳴らした。


「いかがですか? 貴女の知らない美琴さんは」

「貴女が誑かしたんでしょ。私の知る黒須さんは二股をかけるような人じゃない! ねえ、黒須さん。目を覚ましてよ……?」


 目が覚めていないのは、誰あろう凛子だ。

 「美琴を守りたい」と言っておきながら、凛子は美琴自身の都合や私情を慮ろうとしない。恋は盲目とはよく言ったものだと美琴は思う。


「ふむ。私は二股をかけないなどと過去に誓ったことがありましたか?」

「そんな話したことないけど、普通は……!」

「普通とはどういう状態なのでしょうね」


 言ってから、このままでは二股をかける人間だと思われてしまうことに気がつく。シャンディのように、うまく躱しつつ諭すことはまだできなくてもどかしい。それでもどうにか、告白してくれた凛子のためにも思っていることは伝えようと言葉と知恵を振り絞る。


「二股はかけませんよ。桃のカクテルとオレンジのカクテルのどちらかしか選べないと言われたら、味わってから決めたいと思っただけですから」

「私はオレンジは嫌いです!」

「凛子さんはそうでしょう。ですが私は違います。好きなカクテルを知ろうともせず飲ませようとするのは、少し残念ですね」

「でも、だって……二股はよくないよ!」

「ええ、その通り。双方を傷つけるよくないことです。とはいえ仮に、私が二股をかけたとして。それくらいで、凛子さんは私を諦めるのですか?」

「そ、れは……」

「安心してください。凛子さんに守っていただかなくても、私は充分オトナですよ」

「え……?」


 美琴は思いの丈を――そして凛子の告白への返事を静かに、諭すように告げた。


「生きていれば迷いますし、傷つきもします。守られたいと思うことだって幾度もありました。ですがそれでも、私は迷う方を選びたいんです。苦労した先にある、勝利と成功と成長の美酒を味わいたいですから」

「だけど黒須さん! この女は――」


 凛子の唇を、唇で塞ぐ。

 彼女のまとう濃厚な桃の香りが脳を揺さぶった。 


「――それでも私を守りたいと仰るなら、私がどう愛されたいのか知ってくださいな」


 思わず出てしまった悪い師匠シャンディ譲りの口癖が少しばかり気恥ずかしい。当然シャンディは「ふふ」と瞳を上弦にゆがめている。

 一方で、凛子は完全に沈黙していた。一方的に想いを寄せてきた相手にこんな言葉をかけられたら、そうなってしまうのは自明の理だろう。


「ずいぶん成長なさいましたね。素敵ですよ」

「多少、語弊と誤解を生んでしまうでしょうが構いません。このを選んだのは私自身ですから」

「覚悟は決まりました?」

「ええ、ずいぶん悩まされましたよ。おかげでいろいろと、吹っ切れたのかもしれません」


 覚悟はとうに決まっていた。

 吹っ切れたとは言いつつも、わだかまっていることはあった。

 凛子がシャンディを――美琴の想い人を否定したことは、そう易々と忘れられることではない。


 だが、凛子は知らないのだ。シャンディのという愛し方も、そして美琴が、成長することを望んでいることも。

 だから凛子の起こした言動は仕方のないことだ。不躾だろうと非礼だろうと、笑って流して今後に持ち越さない。それが美琴の理想だ。そうありたいと思う。


「まるで貴女の意図が読めませんでしたよ、シャンディさん。仲直りというのはてっきり、シャンディさんと凛子さんの仲を取り持つことだと思っていましたから」


 シャンディ曰くの仲直りの真相は、凛子と美琴の仲を取り持つことだ。

 突然の告白で崩壊した関係を、美琴にオトナになるよう示して修復するつもりなのだろう。

 突飛なくせに恐るべき洞察力と、繊細な気遣い。時に甘く、時に厳しく振りまかれる優しさ。こうありたい、釣り合いたいと願う美琴の理想像そのままに、シャンディはころころと笑っていた。


「さて。何のことかしら」

「本心を知られると恥ずかしいということでしょうか」

「あたしの本心は、あたしにもキスを戴きたいな? というところですね」

「お待たせして申し訳ありません。ただいま」


 先ほどと同じように、シャンディの唇を塞ぐ。ほのかなオレンジの香りが、残っていた桃の残り香をかき消した。

 短い口づけを終えて、シャンディが凛子へ話しかける。


「これがあたしの愛し方。美琴さんが密やかに抱いている望みを叶えるために、ほんのちょっとだけお手伝いしているんです」

「そんなの……」


 凛子は顔面を手のひらで覆っていた。不意のキスと思わせぶりな言葉が恥ずかしかったのか、遠巻きに振られたことに気づいたのかは分からない。


「……私が、独りよがりな恋愛をしているだけって言いたいの?」


 凛子は泣いていた。美琴はうろたえることなく、ハンカチを手渡す。

 どうにか気の利いた返事を返そうと言葉を探したが、それに先んじてシャンディが告げた。


「ええ、貴女は黒須美琴という人間を見ていないんです」


 シャンディが憎まれ役を買って出てくれた。厳しい物言いにも関わらず、凛子は掴みかかるようなことはない。声を震わせ、ため息をつく。


「……同じようなこと言われた。昔好きだった人から」

「貴女の愛し方では、そう言われても仕方がないでしょうね」

「だって私は……こうするしかできない…………」


 凛子が経験してきた恋愛は、美琴には分からない。それでも、守りたいと思わせるだけの出来事が過去にあったことは想像がついた。

 その後しばらく、凛子は涙を流していた。シャンディが伸ばした手は、振り払われることなく凛子の背をなで続けていた。


「バーテンダーさん。そろそろ注文をよろしいかしら?」

「え、ええ。何なりと」


 シャンディの言葉に、美琴は自身の立場を思い出す。臨時とは言えバーテンダーなら、カクテルを作ることが仕事なのだ。あたふた周囲を見渡して酒瓶とグラス、シェイカーの在処を確認する。


「ただ注文をするのも面白くありませんので、遊戯ゲームといきましょう。凛子さんには、凛子さんが望むカクテルを。あたしには、凛子さんに出したカクテルのバリエーションを頼みます」

「難しい遊戯ですね……」


 カクテルにはバリエーションがある。《バラライカ》と《エックス・ワイ・ジー》と《サイドカー》のような、メインの酒が置き換わったもの。あるいは果物やジュースを置き換えたもののように。


「あたしと凛子さんを唸らせるカクテルを出していただけたら、美琴さんの勝ち。勝者のご褒美は……そうですね?」


 シャンディはくすくすと笑った。イヤな予感がする。


「二人まとめて、召し上がれ」

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