番外編:大椴義智の場合
生娘とカップラーメン
打ち明け話。
あのとき、一族の奇妙な慣習を、笑い話として披露したのだった。爪をめぐる話だ。
いつ訪れるとも知れぬ嫁入りと初夜に備え、人狼の生娘はいつでも、爪を切りそろえておかなくてはいけない。
*
「それ、男もやらなきゃいけないの?」
大春二三はそう言って、ヤカンを取りに台所へ向かう。
ユニクロで上下を揃えたストライプブルーのパジャマは、サイズが合っていない。腰からトランクスの星柄がはみ出ている。
いつまで着るつもりなのだろう。ゴムを入れてやってもいいのだが、男同士でそのやり取りをするのもどうかと思い、自分からは持ちかけられずにいる。
同居人は屋根の下での生活に慣れるためとうそぶいて、大学生になってからアパートで独り暮らしをしている。ずっと屋根の下で暮らせるかはわからんけどねと、本気か冗談かわからないことを、ときどき口にしながら。
里親は決まって月末に訪ねてきて、家事に便利な道具を置いていってくれる。洗剤なしで汚れが落ちるスポンジとか、パスタをレンジで茹でるためのケースとか。
離島から単身で上京したと詐称し、ヴォーダンはその場に転がり込んだ。姉が一足先に
家賃を折半する関係がもう4年も続いて、そろそろ卒業が近い。
「いや?」
ちゃぶ台の上にふたつ、カップラーメンが置かれている。ヤカンを持った友人は、注ぎ口を発砲スチロールの容器にあてがう。
不定形の湯気が立ちのぼるのを漫然と眺めていると、不意にくしゃみが出る。
初秋にストーブとエアコンが同時に壊れた。しかも修理の依頼を、ふたりそろって失念していた。寒くとも我慢しなければならない。
2月に入り、本格的な寒気はなりをひそめたけれど、毛皮のない肢体に早朝の低温はこたえる。少なくとも自分は、室内でもダウンジャケットを羽織らないと活動できない。
薄着一枚で平然としている同居人を、信じられない心地で見つめながら、蓋の隙間から漏れ出る化学調味料の臭気に、くしゃみをした。
肉が喰いたいが、収入源はアルバイト代に限られているし、家賃も参考書代も交通費も奨学金の返済も、すべてが支出になる。学費ぐらい、里親に出してもらえばいいのに。
「でも、そしたらさ」
話はまだ続いている。
大春二三が主張したいのは、つまりこういうことだ。
「男も同じようにすべきなんじゃないの」
「なんで」
「だって女がしてんだから」
そういうものだろうか。
もちろん、議論の内容や結論は意に介するところではない。問題は、数分後に明らかになるだろう事態のほうだ。この話は、それまでの時間をやり過ごすための雑談に過ぎない。
「ちゃんとした理由があるんよ。まず
「……指で破んの? 自分で?」
「そういうこと」
見てきたような口ぶりだなと、自嘲気味に思う。
「……そもそも人体にそんな器官、存在しないだろ」
「本当はね。だから破ったふり」
「おふくろが聞いたらキレるな。あのひと手術室勤務だから。手洗いしないだけで嫌味言われるぞ」
同居人は里親の中年の女性のことを、おふくろ、と呼ぶ。学生が扶養者に向けて使う呼称としてさほど一般的でないことは、とうに学習した。
「まだある」
ふと姉を思い出し、真似して指を立ててみる。
ときおり便りが届くが、文面からすれば元気にやっている。宮廷秘書の資格を取った、意外と簡単だったので貴君もどうかと、馬鹿ていねいな筆致でしたためてあった。
とはいえ、家督の権利を放棄するわけでもないようだ。あんな家でも惜しいのかと、開封したものを読み下しながらぼんやり考えた。
「爪を削ってる女性は、男を
笑いながら言ってみた。実際、笑ってしまうような理屈だ。
相手は少し困ったように、眉の根を額に集めている。
つまり、自分の血を確実に後代へ遺すことができるってことだな。そう説明するのを反射的にためらってしまう。
「あれか、自分の血をちゃんと遺せる、みたいな感じか」
説明するまでもなかった。
蓋をはがす音が聞こえた。笑いながら言ってしまった自分が少し、恥ずかしく思えたから、空腹の顔をつくって、自分の晩餐にもそそくさと手をつける。
大春二三はそれを見ながら、割り箸をヴォーダンに渡した。
「それ結局、男の都合だよな」
麺を啜る音が聞こえる。自分の視界には担担麺の真っ赤なスープと、その水面に浮かぶ白ごまと薄いチャーシューがあって、トウガラシの匂いが鼻をついてくる。
顔を逸らしてティッシュで洟をかんだ。
「珍しいな、トドが辛いの食べるの」
「ああ、まあ、寒いからな」
そう、寒いし腹が減っている。冷めないうちに早く手をつけたい。冷凍のご飯があった気がするから、中身を平らげたらレンジでチンして雑炊もどきにしよう。向かい合ったニンゲンの食べ物から味噌の香りが届く。
あと5分くらい? と言おうとした。
「なんで男の都合だって思うの?」
まったく違う問いかけが、自分の喉元からこぼれ落ちた。
雑談だし、引きずるような話題ではない。自分たちにとって血の純潔は、何にもまして重要だが、ニンゲンにうまく伝えるのは難しい。だから話に持ち出す意味はない、はずだ。
「ん?」
大春二三は食べ物を口に入れたまま、顔を上げる。
麺が垂れ幕のように唇からぶら下がっている。見ている前でつるつると啜った。面白い光景だ。
「純潔を保証できるのは女性だけだろ。一族の血統を清らかに保つには、合理的な工夫だ」
すらすらと解説しながら、自分で自分に舌打ちしたくなる。まったくもって馬鹿げた理屈だ。誰がいつ考えたのか。
しかし掟は、そういうことになっている。祖父はそう宣ったし、父や母はいつも微笑んで大人しくそれを聞いていたものだ。そういう場景が当たり前に、孫の代の自分たちの、頭の中にも居座っている。
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