番外編:大椴義智の場合

生娘とカップラーメン

 打ち明け話。

 あのとき、一族の奇妙な慣習を、笑い話として披露したのだった。爪をめぐる話だ。

 いつ訪れるとも知れぬ嫁入りと初夜に備え、人狼の生娘はいつでも、爪を切りそろえておかなくてはいけない。



「それ、男もやらなきゃいけないの?」


 大春二三はそう言って、ヤカンを取りに台所へ向かう。

 ユニクロで上下を揃えたストライプブルーのパジャマは、サイズが合っていない。腰からトランクスの星柄がはみ出ている。

 いつまで着るつもりなのだろう。ゴムを入れてやってもいいのだが、男同士でそのやり取りをするのもどうかと思い、自分からは持ちかけられずにいる。


 同居人は屋根の下での生活に慣れるためとうそぶいて、大学生になってからアパートで独り暮らしをしている。ずっと屋根の下で暮らせるかはわからんけどねと、本気か冗談かわからないことを、ときどき口にしながら。

 里親は決まって月末に訪ねてきて、家事に便利な道具を置いていってくれる。洗剤なしで汚れが落ちるスポンジとか、パスタをレンジで茹でるためのケースとか。


 離島から単身で上京したと詐称し、ヴォーダンはその場に転がり込んだ。姉が一足先に王都ギスカザルへ出てしまったからというのもあるが、何より影もかたちも存在しない戸籍の関係で、賃貸契約が煩雑に思えたのだ。

 家賃を折半する関係がもう4年も続いて、そろそろ卒業が近い。


「いや?」


 ちゃぶ台の上にふたつ、カップラーメンが置かれている。ヤカンを持った友人は、注ぎ口を発砲スチロールの容器にあてがう。

 不定形の湯気が立ちのぼるのを漫然と眺めていると、不意にくしゃみが出る。

 初秋にストーブとエアコンが同時に壊れた。しかも修理の依頼を、ふたりそろって失念していた。寒くとも我慢しなければならない。


 2月に入り、本格的な寒気はなりをひそめたけれど、毛皮のない肢体に早朝の低温はこたえる。少なくとも自分は、室内でもダウンジャケットを羽織らないと活動できない。

 薄着一枚で平然としている同居人を、信じられない心地で見つめながら、蓋の隙間から漏れ出る化学調味料の臭気に、くしゃみをした。

 肉が喰いたいが、収入源はアルバイト代に限られているし、家賃も参考書代も交通費も奨学金の返済も、すべてが支出になる。学費ぐらい、里親に出してもらえばいいのに。


「でも、そしたらさ」


 話はまだ続いている。

 大春二三が主張したいのは、つまりこういうことだ。


「男も同じようにすべきなんじゃないの」


「なんで」


「だって女がしてんだから」


 そういうものだろうか。

 もちろん、議論の内容や結論は意に介するところではない。問題は、数分後に明らかになるだろう事態のほうだ。この話は、それまでの時間をやり過ごすための雑談に過ぎない。


「ちゃんとした理由があるんよ。まず破瓜はかのときに必要なの」


「……指で破んの? 自分で?」


「そういうこと」


 見てきたような口ぶりだなと、自嘲気味に思う。


「……そもそも人体にそんな器官、存在しないだろ」


「本当はね。だから破ったふり」


「おふくろが聞いたらキレるな。あのひと手術室勤務だから。手洗いしないだけで嫌味言われるぞ」


 同居人は里親の中年の女性のことを、おふくろ、と呼ぶ。学生が扶養者に向けて使う呼称としてさほど一般的でないことは、とうに学習した。


「まだある」


 ふと姉を思い出し、真似して指を立ててみる。

 ときおり便りが届くが、文面からすれば元気にやっている。宮廷秘書の資格を取った、意外と簡単だったので貴君もどうかと、馬鹿ていねいな筆致でしたためてあった。

 とはいえ、家督の権利を放棄するわけでもないようだ。あんな家でも惜しいのかと、開封したものを読み下しながらぼんやり考えた。


「爪を削ってる女性は、男をらない、清らかなからだってことになるだろ」


 笑いながら言ってみた。実際、笑ってしまうような理屈だ。

 相手は少し困ったように、眉の根を額に集めている。

 つまり、自分の血を確実に後代へ遺すことができるってことだな。そう説明するのを反射的にためらってしまう。


「あれか、自分の血をちゃんと遺せる、みたいな感じか」


 説明するまでもなかった。

 蓋をはがす音が聞こえた。笑いながら言ってしまった自分が少し、恥ずかしく思えたから、空腹の顔をつくって、自分の晩餐にもそそくさと手をつける。

 大春二三はそれを見ながら、割り箸をヴォーダンに渡した。


「それ結局、男の都合だよな」


 麺を啜る音が聞こえる。自分の視界には担担麺の真っ赤なスープと、その水面に浮かぶ白ごまと薄いチャーシューがあって、トウガラシの匂いが鼻をついてくる。

 顔を逸らしてティッシュで洟をかんだ。


「珍しいな、トドが辛いの食べるの」


「ああ、まあ、寒いからな」


 そう、寒いし腹が減っている。冷めないうちに早く手をつけたい。冷凍のご飯があった気がするから、中身を平らげたらレンジでチンして雑炊もどきにしよう。向かい合ったニンゲンの食べ物から味噌の香りが届く。

 あと5分くらい? と言おうとした。


「なんで男の都合だって思うの?」


 まったく違う問いかけが、自分の喉元からこぼれ落ちた。

 雑談だし、引きずるような話題ではない。自分たちにとって血の純潔は、何にもまして重要だが、ニンゲンにうまく伝えるのは難しい。だから話に持ち出す意味はない、はずだ。


「ん?」


 大春二三は食べ物を口に入れたまま、顔を上げる。

 麺が垂れ幕のように唇からぶら下がっている。見ている前でつるつると啜った。面白い光景だ。


「純潔を保証できるのは女性だけだろ。一族の血統を清らかに保つには、合理的な工夫だ」


 すらすらと解説しながら、自分で自分に舌打ちしたくなる。まったくもって馬鹿げた理屈だ。誰がいつ考えたのか。

 しかし掟は、そういうことになっている。祖父はそう宣ったし、父や母はいつも微笑んで大人しくそれを聞いていたものだ。そういう場景が当たり前に、孫の代の自分たちの、頭の中にも居座っている。

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