子孫と痩せぎす

 ――いいかアンネ、純潔を保証するのは雌だ。われらが子孫としてそれは理解してくれよ。


 そう姉に言ったのが、祖父であったか父であったかを、ヴォーダンは覚えていない。言われた姉がどう答えたのかも。

 覚えているのは、中庭を抜けて窓から吹き込んでくる、潮風の匂い。海の底に沈殿した生き物の澱の、ざらついた生気の残響。部屋の中にわだかまる、かすかな埃っぽさと混ざり合って、毛並みをざわつかせる。


 あのとき初めて、自分の生まれた場所に息苦しさを覚えたのだと、今さらになって彼は思うのだった。ここにいるわけにはいかないという焦燥。

 同じことを姉も感じたのかは、わからない。そもそも姉自身は、こんな話を覚えているのだろうか? 覚えているから王都に出たのか? 覚えていないから家督を継いだのか? 

 わかることはただひとつ、居場所と引き換えに受け入れなくてはならないことも、あるということだ。

 受け入れるしかないことが。


「合理的かどうかなんで、どうでもいいじゃん」


 そうなのか?

 一瞬だが、そういう疑念が頭の中に、燭台に火を移したように、明るく灯る。輪郭のあいまいな橙色の熱源。

 返事をしようとして、喉が軋むような違和感をわずかに覚える。うめき声でも出そうになったから、彼はあえて口をつぐんだ。


「どうでもよくない?」


 大春二三は誰に投げ掛けるでもなく、もう一度言った。

 息を吸い込み、返答のための言葉を継ぐ。


「それは知らないけど、でも、決まりは決まりだろ」


「決まりの中身は合理的だとして、決まりを守るための基準って、合理性だけかな」


 じゃあどうすればいい。


「問題は女の人がそれを望んでるかどうかじゃない?」


「望んでる」


 なぜか語気が強くなった。なぜだ?


「望んでなきゃ、こんなの何千年も続かない」


「そんな長いのか。マジか。まあ、バイトもそうだけど、長けりゃ長いほど辞めたいって言いづらくなるよな」


「そんなことわからない」


「わかんないならやめたほうがいいんじゃね? 望んでるかどうか確認できてないから」


「いいとか悪いとかじゃなくて、必要だからそうしてるだけだ」


「誰が決めるん? 男?」


「知らない」


 姉上と話をしているみたいだと、唐突に感じる。

 あの清楚で快活な乙女とは似ても似つかない、痩せぎすの神経質な男で、見た目にも性格にも重なるものはないのに。

 ふと思い出す。祖父が、亡くなった祖母を愛しげに語るときの言葉。


 ――あれは、いい雌だった。


 あの老爺はきっと、客観的に見れば、一族のことを第一に考える善良な男であるだろう。祖母のことを愛していたのも、まず間違いなく本当のことなのだろう。言葉を声にするときの表情。胸がしめつけられるような恋慕の、そして弔いの痛み。


 では祖母は? 祖父を愛していたのか?

 知らない、とヴォーダンは気づく。祖母にはもう会えない。

 いや生きていたときも、そんなことはたずねなかった。写真や映像や図巻の中でさえ会えない。彼女を写し、映した媒体は生家にひとつも存在しない。そしてその理由も、彼は知らない。知るべきだろうか?

 姉上は祖母に、たずねたことがあるのではないか。祖父を愛しているかと。なぜかそう感じた。


「ごめんな、よく知らんのにずけずけ言っちゃって」


 言われて現実に戻る。自分の箸を動かす手が止まっている。相手は止まっていない。粗方平らげるところだ。


「ああ、いいよ、べつに、俺も」


 おかしいのかもしれないとはずっと思っていたけど、そう思う俺がおかしいのかもしれないけど、だからわからないんだけど。


「っていうか実家も田舎だからさ? そういうやばい話もあったりして。でもさー、おまえ、おれだからいいけど相手選べよそういう、こう、相手を責める感じで詰問しちゃうの。予備校のバイトもそんな感じでやってたんじゃないの? おまえ、顔がいかついんだからさ、あれだぞ、泣いちゃうぞ? 小学生。そういうとこだぞフミ、そういうとこ」


 息継ぎもせずにしゃべるうち、相手は立ち上がっていた。聞いていないというふうでもない。その証拠に、顔はこちらへ向けている。

 この前さ、と言いながら大春二三は冷蔵庫を開けた。取り出した何かをレンジに入れ、タイマーをセットする。


「もうこんな時間かあ。まあいいや」


 ちゃぶ台に戻りがてら、自分のスマートフォンを見てつぶやいた。


「関係あるかないか微妙な話なんだけど、しゃべっていい?」


 今までのやりとりを受けて言っているのだとわかるのに、少し時間がかかった。

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