辞書と文法書

 扉を開けると、魔族が立っている。


「お、やっと起きたか。ちょうどノックしかけたとこだよ。熱引いた? 晩飯ちゃんと食った?」


 体毛のある黒い手のひらを、俺の額にあてる。

 肩に書類鞄を提げていた。


「晩飯?」


「そうだよ、もう夜だよ。今まで何してたんだよ」


「橋桁の下でワルツを」


「え?」


「さっき、そんな夢を見たから」


「……おーい、まだ熱ある感じ?」


 あはは、牙を露出して笑う。口と舌は赤く、ぬらぬらしていて、それ以外の身体は黒くて、毛がびっしり生えている。

 しばらくひとりで笑ってから、こちらを見た。


「にしても元気ないな。って当たり前か、病み上がりだし」


「よく知ってるな」


「そりゃー、ねえ、お届け物があったから、昨日も来たんだけど。調子が悪そうだったんで、引き返しました。覚えてる?」


「覚えてない」


 魔族は鞄のチャックを開けた。魔界にも鞄があり、チャックがある。

 何かを取り出す前に、ためらいがちに、こうたずねてくる。


「おまえさ、クーベルツェとかいうニンゲンと昵懇意じっこんいだって、噂が流れてるけど」


「クーベルツェは死んだよ」


 つぶやきながら、部屋に戻る。

 その後ろを、部屋を訪れた相手はついてくる。


「うー、暑いな。空調回そうか? 体温こもって余計に調子崩すだろ、これじゃ」


「悪いけどまだ本調子じゃない。用件は?」


「ごめんごめん、渡すものが3つあるんだ……えーと、まずこれが博士たちから」


 手渡されたのは黒い箱だ。ちょうど引き出物が入っていそうな大きさの。

 開けてみると、装丁の取れかかった古本が2冊。開けた中身を、ノズルを携えた顔が覗きこむ。


「それ、辞書と文法書だな」


 ひらいてみると確かに、小さくて分厚いほうの書物には、異界の単語と、驚くべきことに英単語による対訳が載っていた。


「懐かしいなあ。おれも使ってたよ、留学の試験勉強で。よかったじゃん。にしても今どき紙か。誰かのお下がりだったりして。はは」


「ああ」


「んで、こっちがルナルカとかいう、ルペーニヤの総合監察官からの手紙」


 少し黄ばんだ、品質の悪い封筒を受け取る。受け取ってすぐに、封蝋印ふうろういんを確認した。開けられた形跡はない。


「あ、検閲されたとか思っちゃった? しねえよいちいち。おまえは宮廷教師だし、通信の自由は保障されてますよ」


 封筒は大きく、そして分厚い。触ってみると、手紙だけでなく、別の物が同封されている。


「あと最後にこれは、届け物じゃなくて、おれから。でも要るかなこれ? 必要?」


 言いながら、律儀に手渡してくる。

 A4サイズの、ウェブページを印刷した書類だ。クリアファイルにおさめられている。

 BBCが配信した記事のようだ。日付は1年前。partyとかalt-rightとか、そういう単語が目についた。全部で4枚、左上をホチキスで留められている。


「わざわざ異界に行って、セブンで印刷かけてきたんだぜ?……いや、ファミマだっけ?……もうさあ、なんであんなに似たような商店があんだよ? せめて会社だけでもさ、どっかひとつに統一してくれないかな? 毎回ごちゃごちゃになっちゃうからさあ……」


「これは何?」


「クーベルツェとかいうのがいたろ。副総統だっけ。あれ、魔界こっちのニンゲンじゃないぞ」


 英語の文面から顔を上げる。


「何年前になるかな。おまえが、教員の試験に受かったとき。一緒にメシ食ってたろ。アパートで。覚えてる?」


 覚えていない。


「あのとき話してたろ? バイトで訳したっていうフランスの極右の兄弟の、インタビュー動画。どんな連中かなと思ってさ。今もYoutubeに上がってるけど、あれに映ってんのが、兄貴な。黒髪の。んで弟が、その写真の限りじゃ、金髪のおっさん」


 記事を要約すると、こんな内容だ。

 フランス国民争闘党幹部のエジット・アレクサンドルとアドルフ・アレクサンドルが、忽然と行方不明になった。警察の調べでは、ふたりの現金、クレジットカード、その他の私物いっさいは放置されていたが、唯一、弟のアドルフの書斎から、ミシェル・ウェルベックの『服従』が抜き取られていた。


「そっちが出払ってるあいだに、ちょっと調べた。あの兄弟、ここ1年のあいだに、どこからともなく湧いて出て、何食わぬ顔であそこを支配してやがる」


「会ったわけじゃないだろ」


「おまえは会ったんだろ?」


 それはそうだ。


「知ったときは、こっちも気が動転したけど、死んだか。んー、じゃあ、いっか。めでたしめでたし。……なんつって、不謹慎かな?」



 体調よくなったら、一緒にこっちの映画でも観ようぜ。そんな台詞を残して、魔族は扉を閉めた。

 雨音は聞こえないが、室内の空気は肌ざわりが重たく、降っているのだとわかる。

 ベッドに腰かけて、封蝋印を剥がす。


 同封されていたのは書籍だ。Soumission、フランス語で「服従」というタイトルが、臙脂色のカバーに朱色で記されている。

 辞書と文法書をひろげて、手紙の文字をひとつずつたどる。

 湿った羊皮紙からは、人間の肌の匂いがした。

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