橋桁とワルツ
扉を開けると、雨が降っている。
鏡のような――いや、鏡そのものが足元を覆っている。あらゆる光と色を弾いて銀に輝く大地が、硬い雨音を
*
外で雨が降りしきる最中、与えられたベッドに
まだ身体がだるい。
侍医だという、ヤブチカという名のホッキョクグマに診察してもらったところ、熱を出していた。昨日のことだ。
高低差のある場所を急激に移動すると、魔族でも熱を出すことがある。薬を飲んで、おとなしくしていなさい。
言われたとおり、横になっていた。それだけだ。
*
ノックをしたのが誰なのかもわからず、ふらふらと起き上がって扉を開けると、鏡の大地がひらけていた。
パジャマのまま進み出る。
傘は持っていないので、濡れるがままに歩くしかない。どしゃ降りとまではいかないが、にわか雨と呼ぶには雨量が多すぎる。
また風邪でも引いて、熱がぶり返すかもしれない。
乳色の
小さな水たまりをバシャバシャと踏みつけながら、裸足でゆき、振り向いても足跡はひとつもない。いつの間にか扉も、水煙の向こうへ消えている。
戻ろうとして、やめた。むしろ走り出した。どうにでもなれ。
呼吸が乱れ、鼻孔から空気を激しく吸い込む。いつも嗅いでいた河の匂いがした。泥の腐臭から土の気配を引いた、奇妙に澄んだ生々しさ。
病み上がりだから、太腿に力が入らない。すぐに走るのをやめて、また歩き出す。
身体は一向に濡れる様子を見せない。それで確信した。これは夢だ。
夢の中に、誰かが立っていた。ノックをしたのも、この誰かなのだろう。
待ちびと来たり、というわけだ。
*
「突然呼び出してすまない」
巨大な蓮の葉を傘代わりに、シャツとベストの恰好で立っている。
リボンタイはつけていない。代わりにネックレスをつけていた。見たことのない紋章が吊り下がっている。
「ああ、これは学生証だ。気にしないでくれ」
続けて魔王は、実験が予定通りにいかなかったので教授にこってり絞られたといい、耳をぺたんと垂らしてみせる。
「目的はニンゲンの殲滅なのだから、あれでも問題ないと思うのだがなあ」
ぼやきながら首をふると、茎を持たないほうの腕を上げ、軽く指を鳴らした。
雨音の鳴り方が、微妙に変化する。
「後ろを見てくれ」
後ろを見ると、橋が架かっている。
違う。橋桁の、片側だけが宙に浮いている。雨音が変化したのは、その部分が雨除けになったからだ。
「驚かせてみたくて。センセイは雨と、橋の下が好きだろう?」
魔王はくすくすと笑い、蓮の葉を投げ捨てると、俺の肩をたたく。
「これは、どんな魔術ですか」
「どうだろうな。せっかくだから、予想を聞かせてくれ。こんな場所に立っている道理はないだろう?」
そして俺たちは、橋のない橋桁の下に立っている。
濡れることはないのだから、ここにいなくても話はできる。相手だって蓮の葉をさす必要はない。
言われるがまま、気づけば橋の下に立っている。そして差し出されるがまま、鋭くて黒い、ナイフのような爪の生えた手を取っている。
「お手柔らかに」
ゆるやかなリズムで、ワルツを踊り始める。おそらく、これはワルツに類する舞踏だ。異世界にも舞踏があり、ステップがある。そのことに何も驚きはしない。
「ほう、よくついて来られるな。経験が?」
「勤務先の体育の授業で、ダンスを教材として取り上げているので。ステップは、まあ勘ですよ。身長差があるから、お互いにちょっと無理な体勢ですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、気にしなくていい。迷惑をかけてすまない」
「僕は大丈夫です。腰が痛くなったら、やめさせていただきますけど」
「それが賢明だ。……ちょっと練習しておきたくてな。明日、王宮の舞踏会で披露しなくてはいけなくて。外遊先で練習したかったのだが、ほら、魔族の居住区域にはダンスホールがあったじゃないか。あそこが使えるかと思ったが、閉まっていたな。開けてもらうのも気が引けるし。そもそも時間がなかった。それで」
「それで?」
「ルペーニヤで死んだニンゲンのことだが、彼らの霊体の所有権は、現在わたしが持っている」
頭の中に雨が浸みてくる。
「それを、この場でセンセイに売却する。わたしが持っていても仕方ないしな。研修を終えて与えられる報酬で、ぴったり買い戻せると思う。どうかな?」
「なぜそんなことを?」
俺は、自分の足に向けて話しかけるような体勢で言う。
「うん? 貴殿の財産はわたしが管理することになっているから、その確認だが」
「なぜそんなことを?」
「センセイは、ルペーニヤのニンゲンどもを救おうとしたではないか。だから、貴殿に権利を委ねようと思っただけだ」
「そんなことはしていない」
「そんなはずはない。魔樹の内部にニンゲンを隠したのだから」
「そんなことはしていない。つくり話はやめろ」
「そう
咳払いが聞こえた。
「そう言えば、帰り道でも飛行竜に乗せた件は申し訳なかった。ヤブチカには大いに叱られたぞ。自分で蒔いた種なのは承知しているが、まったく最近のわたしは運気がないというか、叱られてばかりで」
「いつ気づいた」
「なんだ、少しは気になるのか?」
ごく純粋な疑問であるかのように、たずねられた。
「まあいいか。そうだな、ほら、ルナルカが貴殿に、魔樹の案内をしただろう? あのとき、ひょっとすると思いつくかもしれないとは感じていたんだ。それとわたし以外は気づいていなかったが、ええと会食の、いやその後の、クロフュスが総統殿の足首を斬ったときか、影が少し、不自然な方向に膨らんでいた。副総統殿と何か企んでいると、わたしは推測した。あの場にいない者のうち、自由に動けて、貴殿に協力する動機があり、かつ魔術を使える者といえば、彼しかいない」
揺れる尻尾の、燃え盛るような穂先が、視界に映り込む。
「ならばルナルカも一枚噛んでいると、ここまでの推測があったうえで、貴殿が魔樹のことについて、たずねてきたからな。それで確信した。」
俺たちは橋桁の下で、雨音を聴きながら、ワルツを踊っている。
「誰にも言うつもりはないから、心配はいらない。根こそぎの破壊で物証は残っていないし、かの地にはまともな戸籍制度さえ存在しないと聞いている。われらには個体の判別さえできんさ」
もうやめてくれ。言おうとした言葉を、呑みこむ。
「なんでだ」
「ん?」
「なんで俺を野放しにした」
「だって、すごいじゃないか! ニンゲンが魔族を騙そうとするなんて!」
は?
「魔族を、それも王族を騙そうとするニンゲンなんて、これまで見たことも聞いたことも、読んだことさえ無い! なんという蛮勇、なんという偉業だ! センセイはすごい、だから顔を上げてくれ、わたしは本当に感動したんだ!」
俺は顔を上げない。もつれそうな足下を見つめる。リズムを乱さないために。
「ああ、センセイは尊敬すべきニンゲンだ。わたしが教えを乞うにふさわしい愚かさだ。顔を見せてくれ。うなだれてはいけない」
「もう協力しない。宮廷教師は辞める」
「それは無理だ」
「センセイのご
俺は顔を上げる。
「生徒が教師を脅迫するのか?」
それには答えず、彼女はステップを止めて笑いかける。
牙が、根元から
「その言葉こそ、生徒への脅迫に聞こえるがね。お互いさま、だな」
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